この度のとんでもない地震に巻き込まれ、
なんとか毎日を過ごしてきました。
皆様からの励まし応援メッセージに
深く感謝しております。
私の住む町は海岸部と山岳部のほぼ中間地点でありまして、
今回の地震によって沿岸部は壊滅状態。
我が町等はライフラインの破壊・寸断といった具合です。
ですが、このライフラインもお陰様で、
徐々に復旧しております。
まずは参考までに、私の場合で地震から
これまでを時系列でお知らせします。
3月11日。14時46分、携帯メールに緊急地震速報が届く。
と、直後にものすごい揺れ。
コンクリートの庁舎がつぶれるのではないかと思う
くらいでした。
私は机の後ろにある大きなプリンターとロッカーを
抑えていた。今思うと危険。
その後、停電で信号がつかないため、
交差点で交通整理に取り掛かる。
このときは、まだこの地震が単なるいつもの地震の
拡大版程度にしか思ってなかった。
が、午後7時頃に災害対策本部に集められて
総務課長の口から出てきた
「津波により海岸沿いの町が半分以上亡くなっているようだ。」
との言葉に絶句。
家族や友人からの安否メールが届くが、
返信する暇もないし、規制も加わり、
放置する羽目に。
3月12日。午前5時に起き、
新聞を見て今回の地震の規模がわかる。
沿岸部の壊滅状態には言葉も出ない。
午前6時、水が出ないので、親戚の伯母さん宅の山からの
湧水を汲みに親父と出発。
午前7時、出勤。町内の米屋・スーパーを巡り、
炊き出しの材料を確保するが、
どこも建物内部がものすごく壊れていて危険。
また、買い物客も長蛇の列。
避難所を6か所開設。そこへ燃料や物資を運ぶ。
3月13日。避難所に一昼夜配属。
給水がたりない、広報が聞こえない、食べ物がない、
電気はいつつくのか?
と苦情や不安をたくさんいただく。
いとこの旦那が仙台空港に取り残されていることが判明。
別のいとこの息子が大学の卒業旅行先の
北海道から帰ってこれないことが判明。
3月14日。ガソリンがもったいないので自転車で、
どこへでも。どこまでも。
庁舎に電源がはいる。信号が一基、つく。
3月15日。んー、思い出せない。
3月16日。携帯電話がやっとつながる。
Novyさんとも話す。
3月17日。未明。
ようやく家に電気がつく。
早朝からガソリンを求め、家族が動く。
この日も避難所で宿直。
隣町の妻の実家で水道が復旧したので、
私以外の家族が1週間ぶりのお風呂をいただきに行く。
被災地「石巻」で勤務していた友人から電話が届く。
自衛隊のヘリにより救助されたとのこと。
現在は津波で跡形もなくなった海岸線での
確認作業に従事とのこと。気をつけろと励ます。
3月18日~19日。町に電気が戻ったことで、
みんな少しずつこれまでの暮らしに戻りつつある。
現在のところ、水は断水中。
ガソリンや灯油の不足に不安といったところでしょうか?
食糧については、こちらは田舎なので、
田畑がある人はある程度貯蔵ができてます。
が、単身や団地・アパートでの
単一家族の方々は大変かもしれませんね。
学校等も建物の点検やら修繕に時間を要します。
我が家の近所は道路が陥没、下水のマンホールが隆起しており、
車も人も通るのが非常に危険です。
とりとめもなく書き連ねました。語れば尽きませんが、
こんなところでしょうか?
とにかく皆元気に頑張ってます。太平洋沿岸部では、
あとどれくらい経てば今の私ぐらいおちつけるのか
皆目見当もつかないでしょう。
また、東北のみならず、関東の茨城も我々と
同様の被災地となっているようです。
今後、我々はわが町以上に被害のある県内の市町への
支援に取り掛かるようです。
私もこれからは皆様に励まされたように、
周辺の人々を励ましつつ手助けしていければと考えてます。
General
なんとか毎日を過ごしてきました。
皆様からの励まし応援メッセージに
深く感謝しております。

私の住む町は海岸部と山岳部のほぼ中間地点でありまして、
今回の地震によって沿岸部は壊滅状態。
我が町等はライフラインの破壊・寸断といった具合です。
ですが、このライフラインもお陰様で、
徐々に復旧しております。
まずは参考までに、私の場合で地震から
これまでを時系列でお知らせします。
3月11日。14時46分、携帯メールに緊急地震速報が届く。
と、直後にものすごい揺れ。
コンクリートの庁舎がつぶれるのではないかと思う
くらいでした。
私は机の後ろにある大きなプリンターとロッカーを
抑えていた。今思うと危険。
その後、停電で信号がつかないため、
交差点で交通整理に取り掛かる。
このときは、まだこの地震が単なるいつもの地震の
拡大版程度にしか思ってなかった。
が、午後7時頃に災害対策本部に集められて
総務課長の口から出てきた
「津波により海岸沿いの町が半分以上亡くなっているようだ。」
との言葉に絶句。
家族や友人からの安否メールが届くが、
返信する暇もないし、規制も加わり、
放置する羽目に。
3月12日。午前5時に起き、
新聞を見て今回の地震の規模がわかる。
沿岸部の壊滅状態には言葉も出ない。
午前6時、水が出ないので、親戚の伯母さん宅の山からの
湧水を汲みに親父と出発。
午前7時、出勤。町内の米屋・スーパーを巡り、
炊き出しの材料を確保するが、
どこも建物内部がものすごく壊れていて危険。
また、買い物客も長蛇の列。
避難所を6か所開設。そこへ燃料や物資を運ぶ。
3月13日。避難所に一昼夜配属。
給水がたりない、広報が聞こえない、食べ物がない、
電気はいつつくのか?
と苦情や不安をたくさんいただく。
いとこの旦那が仙台空港に取り残されていることが判明。
別のいとこの息子が大学の卒業旅行先の
北海道から帰ってこれないことが判明。
3月14日。ガソリンがもったいないので自転車で、
どこへでも。どこまでも。
庁舎に電源がはいる。信号が一基、つく。
3月15日。んー、思い出せない。
3月16日。携帯電話がやっとつながる。
Novyさんとも話す。
3月17日。未明。
ようやく家に電気がつく。
早朝からガソリンを求め、家族が動く。
この日も避難所で宿直。
隣町の妻の実家で水道が復旧したので、
私以外の家族が1週間ぶりのお風呂をいただきに行く。
被災地「石巻」で勤務していた友人から電話が届く。
自衛隊のヘリにより救助されたとのこと。
現在は津波で跡形もなくなった海岸線での
確認作業に従事とのこと。気をつけろと励ます。
3月18日~19日。町に電気が戻ったことで、
みんな少しずつこれまでの暮らしに戻りつつある。
現在のところ、水は断水中。
ガソリンや灯油の不足に不安といったところでしょうか?
食糧については、こちらは田舎なので、
田畑がある人はある程度貯蔵ができてます。
が、単身や団地・アパートでの
単一家族の方々は大変かもしれませんね。
学校等も建物の点検やら修繕に時間を要します。
我が家の近所は道路が陥没、下水のマンホールが隆起しており、
車も人も通るのが非常に危険です。
とりとめもなく書き連ねました。語れば尽きませんが、
こんなところでしょうか?
とにかく皆元気に頑張ってます。太平洋沿岸部では、
あとどれくらい経てば今の私ぐらいおちつけるのか
皆目見当もつかないでしょう。
また、東北のみならず、関東の茨城も我々と
同様の被災地となっているようです。
今後、我々はわが町以上に被害のある県内の市町への
支援に取り掛かるようです。
私もこれからは皆様に励まされたように、
周辺の人々を励ましつつ手助けしていければと考えてます。
General