刀伊の入寇と交易網

コメント欄で書くつもりでしたが、長くなったのでこちらで・・・(^^;;

●石徹白 宇留生さん:

【前史】

まず、刀伊の入寇の前史として渤海の交易活動が非常に
盛んであったことがあります。

日本でも来貢頻度を引き下げるように言われているのにも関わらず、
しょっちゅうやって来ていた渤海使(と言う名目の交易商人)の話は有名ですし、
その交易網が遠く南の呉越地方に延びていたという記録が中国に残っています。

陸上の交通網を通じての交易も活発に行われていました。
特に西京鴨緑府から鴨緑江沿いに遼東半島に向かい、
対岸の山東半島に通じる交易ルート(朝貢道)が有名です。

渤海滅亡後も鴨緑江上流にあった定安国(渤海の後継諸国家の一つ)に
よってこの朝貢道は維持し続けられていたので、旧渤海地域の女真達は
安定した交易活動を続けることができたのです。


【契丹の征東政策と東北地方の動乱】

ところが10世紀末に定安国が契丹に滅ぼされてしまうとこの交易路が
絶たれてしまいます。これは契丹の大規模な征東政策の一環だったのですが、
交易路の遮断や契丹の攻撃によってこの地方は以後数十年に渡って
動乱の時期を迎えることになります。

契丹の攻撃は高麗にも向けられますが、その相次ぐ攻撃の記録には
渤海王族の末裔達が高麗の武将として戦う姿が残っていたりします。
また、定安国の後も大元(渤海王族の末裔?)が国を建てて宋に朝貢した
記録があり、旧渤海側も契丹には簡単に屈していません。

滅亡以来百年近い時を経てなお東北地方には渤海の残影が色濃く
残っていたことが伺えます。

そうした動乱の中、行き先を失った旧渤海の女真達は
その”経済活動”の矛先を南に向け、日本海岸沿いに
朝鮮半島を南下することになります。
あるときは取引で、あるときは力づくで、という経済活動です。
ヴァイキングや倭寇と同様ですね。

高麗の史料に最初に記録された1005年の襲撃以降女真は南下を続け、
刀伊の入寇の前年には鬱陵島の住民が女真に襲撃されて全滅という
事態に至ります。

刀伊の入寇のあった1019年はこうした動乱期のまさにピークであったと言えます。


【終焉とまとめ】

その後、この動乱期は1029年~1030年にかけて契丹の統治下で起きた
渤海王族末裔である大延琳の反乱(興遼国)を最後に収束を迎えることになります。

刀伊の入寇は、あまり光のあてられていない渤海や女真の活発な交易活動が、
契丹によってもたらされた動乱の時代にその一面を垣間見せた出来事である
と言ってよいでしょう。

#いずれ図を起こしたい、と思ってます。
コメント ( 4 ) | Trackback ( 0 )
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コメント
 
 
 
ありがとうございます (石徹白 宇留生)
2005-09-02 11:54:19
長い間の疑問が解けました。

 北方民族=騎馬民族という考えは、一方的あるいは一面的な見方だったというより私の偏見だったということがわかります。

 女真は、多方面に陸や海などで経済活動を行っていたという事実は非常に面白いですね。

 刀伊の入寇も高校の歴史でも扱われますが、単なる出来事の1つとしてで、関連づけが全くないのは悲しいことです。

 ”白村江の戦い”や”元寇”はわりと他国と関連づけていますが、”刀伊の入寇”は突然女真がやってくるかのごとくですから。
 
 
 
高校の歴史の授業 (蒸しぱん)
2005-09-03 01:25:52


高校の歴史の授業 (蒸しぱん) 2005-09-03 01:24:30



そうそう、学校での世界史の時間は寝てました。つまらなかったんで。なんていうか、名所だけをピンポイントで見ていくバスツアーみたいな。



やはり歴史の面白さは関連性をどれだけ知ることができるか、で大きく変わってきますね。



渤海と藤原仲麻呂政権が連携して新羅を挟撃にかかろうとするエピソードなんかを知ると、日本もユーラシア史とちゃんとリンクしているんだなとうれしかったりもします。



#二重の書き込み、消しておきました。ご安心ください。
 
 
 
恵美押勝の乱 (石徹白 宇留生)
2005-09-04 13:07:28
二重書き込みの件ありがとうございました。



>新羅を挟撃

 藤原仲麻呂の新羅征伐ですね。計画当初の段階での要因といいましょうか。動機や理由がやや不明瞭といわれておりますね。

 結局、道鏡への排斥計画の一環に利用されてしまいますね。仲麻呂の節度使に任命されたあたりから、すでに新羅征伐は仲麻呂の頭の中になく、乱の方へシフトしていったようですが、発覚してしまい恵美押勝の乱のいたってしまうようです。



 新羅征伐は、動機に不明瞭な部分があるようですが、その動機の1つとして父である武智麻呂が新羅征伐を計画していてこれを継ぐつもりだったとか。そういえば安禄山の乱にあおられたのではないかと話もあるようです。その安禄山の乱の状況を伝えたのが遣渤海使の小野田守だそうですね。

 少し知っていることを整理して見ました。そこでですが、せっかく面白い話をいただきましたのでお聞きしたいのですが、日本国内の内的要因はおいとくとしまして、渤海側の当時の状況ですね。それとこの計画は結局仲麻呂の死でなくなってしまいますが、その後の国際状況をお話し願えないでしょうか。また日本からの遣新羅使や新羅からの新羅使も当時は行き来していますが、それらも何か動きあったのなら併せてふれていただけたらと思います。
 
 
 
了解です (蒸しぱん)
2005-09-08 00:47:16
週末までお待ちいただければ幸いです(^^;;

 
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