ちゅう年マンデーフライデー

ライク・ア・ローリングストーンなブログマガジン「マンフラ」

「昼顔」でも「夜顔」でも変わらない「変わった男」

2008年10月28日 | 映画
 WOWOWで録画したマノエル・ド・オリヴェイラ監督「夜顔」とルイス・ブニュエル監督「昼顔」を観る。

「昼顔」の40年後を描いたのが「夜顔」。当然だが、「昼顔」を見ていないと「夜顔」は分からない。ミシェル・ピッコリ演じるアンリは、40年たってもやはり「変な男」だった。「昼顔」でセブリーヌの客になる東洋人が持っていた小箱の中には何が入っていたのだろうか。「夜顔」の40年後の再開で、アンリは意地悪くこの小箱を「昼顔」ことセブリーヌにプレゼントしようとして、拒否される。きっと芋茎が入っていたのではないかと想像するのだが、それは、セブリーヌが東洋人とのまぐわいで、始めて経験したことのない快楽を得たからだ。このときのカトリーヌ・ドヌーヴの快楽の余韻に浸ってベッドにうつ伏せに横たわる虚脱な肢体、白の下着の上は着けて下は着けていない淫靡な姿がすばらしい。セブリーヌに恋慕してしまう若い男が警官に撃たれ路地に倒れるシーンはゴダールを意識してのことか。

「夜顔」で自らアル中と称する嫌なじじいアンリを演じるピッコリがいい。グラスに注がれたウイスキーを待ちきれないしぐさが絶品。40年経ってもアンリはセブリーヌとまぐわいしたかったのではないか。アンリとセブリーヌが40年後に再会するというだけで、そこに何かが起こるだろうという視線が画面に注がれる。セブリーヌが最も嫌がる男アンリを生き延びさせて、同じように意地悪をさせる映画を作る100歳オリヴェイラ監督も相当すごいじじいだ。バーのカウンターで向かい合うアンリとバーテンの会話という退屈なシーンを、鏡を使いながら3回とも別のアングルで見せて楽しませてくれるのだった。
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回文俳句でマンフラ開店3周年

2008年10月28日 | 回文俳句
「マンフラ」も、はや3周年。備忘録のようなものとして始め、僕個人を知っているごく限られた人に読んでもらえばいいと続けているが、ときどき内容によってかなりな人にアクセスしていただくこともある。気が向いたらどうぞゆっくりしてくださいね。

 で、久々に回文俳句。季節はもっとあとだけど、1年前京都に行ったことを思い出しつつ。

雪小止み 恋待つ舞妓 京都消ゆ

ゆきこやみ こいまつまいこ みやこきゆ


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J・サンプル&R・クロフォード「ノーリグレッツ」は買って悔いなし

2008年10月22日 | 音楽
 アルバム・タイトルは「ノーリグレッツ」、買っても後悔しないよという意味かどうかは知らないが、ジョー・サンプル&ランディ・クロフォードのコラボアルバム第2弾で、今回はブルース&ゴスペルナンバーが中心。結論は「ノーリグレッツ」。

 1曲目「エヴリィデイ・アイ・ハヴ・ザ・ブルース」を試聴して買うことにしたのだが、このグルーヴ感はたまらない。もともとベイシー楽団とジョー・ウイリアムスの「カウント・ベイシー・スイングス・ジョー・ウィリアムス・シングス」のアルバムに収められていた曲。ジョー・サンプルのピアノがベイシー風に始まり、スティーヴ・ガッド(ds) 、クリスチャン・マクブライド(b)、アンソニー・ウィルソン(g)の強力リズム隊が心地よくスイングする。僕と1年違いの同じ誕生日というランディ・クロフォードは、うまさと渋みと抑制が加わって、前作「フィーリング・グッド」のようにスタンダードを歌うより、このアルバムのほうがずっといい。タイトル曲の「ノーリグレッツ」も泣かせます。
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シブヤで風流な土左衛門「オフィーリア」に会う

2008年10月17日 | 絵画
 渋谷のBUNKAMURAミュージアムで開催の「ジョン・エヴァレット・ミレイ展」に、3連休の中日に行ったところ結構な混み具合。お目当ては、風流な土左衛門こと「オフィーリア」を観ることだったので、改めてその美しさに接し、ひとまず満足して帰ってきたのだった。

 収穫は、これもかの漱石がテートギャラリーで鑑賞したという「遍歴の騎士」。ミレイ唯一の裸婦像だが、大木に縛り付けられた裸婦の縄を解く遍歴の騎士、すなわちドン・キホーテか。諸国を放浪する彷徨える浪人者なわけだが、この裸婦像がなかなかエロい。豊満な体についた縄の跡、からだの左側を曝け出すように傾いた体の右側に流れる、波打つ長い髪。その無防備な姿はゾクッとさせられる。

 ミレイのモデルたちは、清楚にたたずんでいてもどこかMな雰囲気を漂わせている。無防備な少女たちはロリ男を刺激してやまないだろう。20世紀初頭のロンドンで明治人の漱石は、この官能的な裸婦像に何をみたのだろうか。漱石は帰国後日本の画壇で起きた裸婦像論争で、裸婦像擁護派だったわけだし、「草枕」では、宿の未亡人那美さんが、風呂場の湯煙の中に現れるその裸像を描こうと試みた。もちろん僕も裸婦擁護派だが、ところで、「草枕」を映画化するとしたら那美さんは誰が演じるべきだろうか。
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あえてゾンビ映画と呼びたい「トウキョウソナタ」に涙する

2008年10月15日 | 映画
 黒沢清監督「トウキョウシナタ」は、まぎれもないゾンビ映画の傑作なのだが、ラストでドビュッシーの「月の光」を1曲まるまる演奏するシーンは感動もので、あふれる涙がとまらなかった。

 音大の付属中学を受験した次男(井之脇海。この子役は天才的)がその実技試験で演奏するのだが、演奏が進むにつれて、試験会場にもかかわらず次々と聴衆が集まってくるというシーンで、それだけで次男のピアニストとしての非凡な才能を表現しており、何よりも洋館風な高い天井の部屋の窓にかかる黒沢監督お得意の白いカーテンが風に揺れ、少年のピアノを弾く指がしなやかに鍵盤の上をすべる、その運動感がすばらしい。あえていえば家族の再生への希望を暗示するシーンとして、観るものに安堵感をあたえもしよう。だが、そもそも「月の光」は18歳のドビュッシーが人妻に捧げた曲とも言われ、この映画でもあるいは少年からピアノ教師(井川遥)への愛のメッセージとして機能しているのだと思いたい。教え子の演奏をみつめるピアノ教師井川遥の丸い顔は、まるで月のようではないか。

 家族の再生を描いた映画というキャッチフレーズにだまされてはいけない。確かに4人家族が登場するのだが、これほどいいかげんな物語を平然と映画にしてしまう監督も他にはいない。北野武の「監督ばんざい」のいいかげんさはいいかげんそのままだが、あたかもリアルな現実を描く素振りでいいかげんなことをやっている、それゆえゾンビ映画になっているのが「トウキョウソナタ」であり、微妙に現実をずらしたSF映画と呼べるかもしれない。

 この映画がゾンビ映画であるのは、アメリカ軍に入隊し中東に行って不在の長男(小柳友はブラザートムの息子だと)を除き、夫(香川照之)と妻(小泉今日子)と次男、いずれもがそれぞれが遭遇あるいは選択する犯罪をきっかけに、擬似的な死を経験することでこれまでの人生を一度清算し、新しい出発に向かおうとするからである。長男も一度米兵となって戦場で人を殺す体験をし、別の国際貢献のあり方があることに気づいた旨の手紙を送ってくるので、家族が全員同じ日に再生の道を歩み始めることになる。とりわけ車に轢かれた夫が昏倒した道端の枯葉の中から起き上がるシーンはゾンビそのままではないか。妻の小泉今日子も夜の海岸の波打ち際に、溺死体のように大の字に横たわってしまうのだが、何よりも、いくら才能があるとはいえピアノを習い始めて数カ月でドビュッシーをみごとに弾きこなす子どもはお化けかもしれないのであって、一度死んだ家族が再生するその象徴的場面が、最後の「月の光」のシーンなのだった。

 テーブルの上の新聞紙が風に吹かれて床に落ちるファーストシーン、父と子が帰宅途中に無言で出会う家の近くのY字路、夫の会社の窓に映る風に揺れる垂れ幕のようなものの影のゆらめき、長男が2人乗りのヤマハのスクーターで都内を疾駆するその疾走感、親子喧嘩のはてにみごとに階段落ちする次男、米軍に入隊するため空港バスで出発する長男を見送るシーン(絶対に長距離移動を思わせるバスでなくてはならぬ!)、青いプジョー207CC、カブリオレの開閉する屋根の装置としての運動感、暗い海に光線のように走る白い波の線の動き、海辺に立つ漁師小屋と思しき粗末な建物を照らす街灯などなど、あるものは、これから家族に起こる出来事を暗示する秀逸な場面として機能もしているのだが、ありそうなリアリズムなどどうでもいい大胆さで、映画的な運動感が躍動する「トウキョウソナタ」は、ありえない世界を描きながら傑作を作ってしまう見本のような映画なのだった。観るべし!

 ラストの余韻に浸りながら映画館を出て、夜空を見上げると、クロワッサンな三日月が輝いていた。
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