ちゅう年マンデーフライデー

ライク・ア・ローリングストーンなブログマガジン「マンフラ」

軍隊は市民を守らない「ヒトラー最期の12日間」

2006年01月30日 | 映画
 近所の映画館に「ヒトラー最期の12日間」(監督:オリヴァー・ヒルシュビーゲル 主演:ブルーノ・ガンツ/アレクサンドラ・マリア・ララ)がかかったので土曜日に朝から観に行った。

この映画館、ありがたいことにいつも空いている。映画館と本屋とジャズの店とおいしいイタリア料理屋はその街の文化度を示すバロメータと勝手に考えてみよう。わが街はなんとかクリアしている。

映画館で観るドイツ映画なんて久しぶり。ドイツ時代のヴェンダースとか、ニュージャーマンシネマ以来じゃないかいな。原題は「Der Untergang」、破滅とか没落といった意味だが、これが映画タイトルじゃー入りも悪かろう(原作本もしかり)、で「ヒトラー」となった次第。ヒトラー、ナチスものは根強いファンがいて本でも映画でも日本じゃ、それなりにあたるらしい。

1日と12日の違いはあるけど「日本の一番長い日」のドイツ版といったところ。2時間35分はちょいと長いが、ヒトラーが出ているのは2時間くらいまで。あとは、戦争モノによくあるアクションと脱出劇。

あえてカリカチュアライズしているのかブルーノ・ガンツが熱演するものの、どうも狂気の独裁者というより、倒産寸前の見放された社長か、田舎の政治家といった風情。可哀想なヒトラーおじさんかよ! かつて流行った東映の実録モノ、あるいはドイツ人によるヒトラーものというよりアメリカ・ハリウッドの戦争映画、大河ドラマの趣なのだ。

だからなのか、ちっともヒトラーもゲッペルスもヒムラーも憎らしく感じない。むしろ第三帝国崩壊とともに自らの手でわが子を毒殺し自らも命を絶つ忠君愛国の女性、ゲッペルス夫人の姿が神々しくさえ見えてくる。それに、ここで描かれる独裁者や軍人の姿は、ことナチスドイツに限ったことではなかろうよ。沖縄の日本軍、満州の日本軍、ベトナムのアメリカ軍、さらにはカンボジア、中国、アフガン、ユーゴなどなど、独裁者や軍隊が市民・民衆を守らないのはいずこも同じだからだ。そして一流といわれていた企業やら銀行やらの崩壊劇、いやというほどそんな「Der Untergang」を、20世紀末からここ数年間で僕らは目にしてきた。大量虐殺を除けば、ここに描かれた第三帝国の崩壊劇は、いまの日本の日常だということをこの映画から教訓として導き出してみるしかない、そんな映画に思えるのだった。あいさつは「ハイル ヒューラー!」でね。
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漱石と建築

2006年01月30日 | 
 漱石が晩年過ごした「漱石山房」を新宿区の跡地に復元するらしいということは、朝日新聞や雑誌「東京人」の漱石特集でも触れられていたが、その後どうなったのかしらん。

 もっとも漱石自身が、記念館など欲するかといえば、文化勲章だって拒否したくらいだから、きっと「イエス」とはいわないはずだが、国民みなこの大作家にはお世話になっているのだから、江戸っ子にして国民的作家といわれているにもかかわらず、どんな事情があるにせよ漱石記念館さえ東京に存在しないのは恥ずかしかろう。だから新宿区が復元に取り組むことには拍手を送りたい気分なのだ。新宿区には、なかなかしっかりした区の歴史博物館がある。どうかこの大作家にふさわしいものをと願うばかりだ。できれば、南画からミレーに至るまで漱石が愛した古今東西の絵画なども展示してほしいし、あるいは「それから」の代助のアールヌーヴォー風部屋など、建築物が重要な意味を持っている漱石の小説舞台を再現してくれると楽しかろう。喫茶室では青磁の皿に羊羹を出してほしいものだ。

 こんなことを考えたのは、「漱石まちをゆく―建築家になろうとした作家」(若山滋著・彰国社)を読んで、漱石作品に描かれる建築物の意味を解き明かしていておもしろいと思ったからだ。

「漱石の小説に現れる建築には、南画的世界と洋風建築の二つの典型がある。社会制度の呪縛のなかにある和風住居には、漱石らしい壮年の主人公がいる。一方、洋風建築には、気の強い美人のヒロインが住む。その二つの対立空間で、若い主人公が揺れ動く構図になっている」と分析し、晩年の作品では、南画的世界と洋風建築の際立った意味合いが薄れていき、不安の象徴のようにモダニズムが表れてくると述べている。また、漱石作品では水が重要な役割を果たしているとして、「三四郎」「草枕」の池、「行人」「こころ」などの海に死や不安、漂白のイメージを読み取っていて、なーるほどと思ったしだい。建築家が書いた漱石論だが、作中人物のモデルは誰だなんてやっている文学書よりはるかに刺激的でおもしろいことは確かです。

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コルトレーンの夜再び、トレーンでイク?

2006年01月27日 | 音楽
 コルトレーンは、ひたすら演奏時間が長くなっていく理由を聞かれ、自分自身いつ演奏をやめていいのか分からなくなっていると答えたらしい。これを聞いたマイルスは、「マウスピースから口を離せばいいのさ」と言ったという。まったく真理はいつもシンプルなのだ。(このエピソードは今月の「プレイボーイ」コルトレーン特集で読んでとても気に入った)

 小説の中に出てくるコルトレーンというと村上龍「69」あたりだったかと思うのだが、坂東真砂子著「13のエロチカ」という官能短編小説集があって、そのなかに「コルトレーンと魔法の綿菓子」という一篇がある。

 イタリア・ローマのワインバーで、私とその友人の日本人女3人が飲んでいる。店がかんばんになっても誘われて飲んでいると、コルトレーンのレコードがかかり、イタリア男が「コルトレーンに乾杯!」なんていう。やがてイタリア男に友人の一人魔法の綿菓子のような微笑をもつ女がダンスに誘われ、くどき文句やら愛撫、流れるコルトレーンの演奏に刺激されて、気分はどんどん高まってフロアでまぐわってオルガスムに達してしまう。それを眺めているもう一人の友人は自ら指でいき、私も体の中で何かが動き出すといったエロな小説だ。こんなコルトレーンの扱われ方も珍しい。

 コルトレーンの音楽はストイックではあっても、こういう性的な官能に直接結びつく音楽として聴いたことはなかったので、女性はこんな官能的にコルトレーンを聴くのだろうかと思ったのだ。では、このときかかったコルトレーンは何だったのだろう。スローなダンスが踊れるのならやはり「バラード」か。あるいは「クレッセント」だろうか。でも「バラード」でも「クレッセント」でも、挿入はないだろうよ。

 昔、ピットインで山下洋輔トリオ(山下・小山・坂田)を聴いていたとき、一緒に行った女性が、急に足腰の力が抜けて崩れ落ちそうになったので、脇を抱えながら「どうしたの」ときくと「子宮にくる」といったことがあった。悩殺!山下トリオ、音だけでいかしやがった。
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コルトレーンの夜

2006年01月26日 | 音楽
 今月の雑誌「プレイボーイ」でジョン・コルトレーン特集をしている。いまなぜ、コルトレーンか。生誕80周年だからか。1926年生まれの1967年没、40歳の短い人生だが、残した音楽は強烈だ。

 トレーンの名演数あれど、ぼくにとってはやはりアルバム「セルフレスネス」収録の1963年ニューポートジャズでの17分に及ぶ「マイ・フェイヴァリット・シングス」につきる。トレーンの「マイ・フェイヴァリット・シングス」を最初に聴いたのがこの演奏で、まずアナウンスがかっこよくて、ドラムスがロイ・ヘインズと紹介されたときは「エルビンじゃないのか」と思うより、その名前の音の響きがよくて、何かすごいことが始まるぞという期待感をもったものだ。録音状態はよくないが、とにかくトレーンの10分近いソロはすごい。中野のジャズ喫茶で朝一番にこれをかけるところがあったっけ。オリジナルのアトランティック版を後から聴いたときは、なんかふやけてる、悪くはないけど戦闘性に欠けると拍子抜けしたほどだ。

 もう一つは「ライヴ・アト・ザ・ヴィレッジヴァンガード」の「朝日のようにさわやかに」だ。だんだん演奏が長くなっていくなかでこの演奏は短い。だからというわけではないが、若い頃、出勤前にこれを聴いて家を出ていたほどだ。マッコイ・タイナーの長いソロの後、疾風のように疾走するトレーンのソプラノ・サックスに鼓舞され、勇気づけられていたのだった。

 ある夏の夜、新宿で飲んでゴールデン街の道を花園神社の裏に抜けたとき、サックスケースを抱え、ハンチング帽をかぶった体格のいい黒人がうつむき加減に横切った。ぼくは、思わず「トレーン、ジョン・コルトレーン!」と声をかけた。男は大きな右手をゆっくりあげてそれに応え、すぐ夜と一つになった。

 トレーンが日本で公演したのは1966年の夏、その1年後に肝臓がんで亡くなる。でも確かにあれは、ジョン・コルトレーンだったと思っている。
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フジ「スタメン」のOHは変!

2006年01月26日 | アフター・アワーズ
 近頃「ここが変!」なのは、フジテレビ日曜夜10時「スタメン」に出ているときの爆笑問題の細い方。
 
 OHのスタンスは、いつでも世相をちゃかすひねくれもん、のはず。ホリエモンバッシングが渦巻いているなら、ホリエモンを擁護するとか、ライブドア株で大損したと嘆くやつらを大ばかもんと哂うとか、すれすれで毒ガスを吐くべきところ、何を大まじめにわけの分からない、しかもまったくおもしろくない長広舌をはいているのか。視聴者はOHの消化しきれていない「正論」など聞きたくないだろう。

 自殺者が出たというなら、身捨つるほどの祖国はありやというニヒリズムでおちゃらけておちゃらけて世の中のばかばかしさを不真面目に哂うことこそOHの役割だ。
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ケニクラのビッグバンドでウフフ

2006年01月25日 | 音楽
去年の夏このジャケットを見たとき、懐かしくて買ってしまった。

 ケニー・クラーク(dr)とフランシー・ボラーン(p)の双頭ビッグバンド(略してケニクラ)、とりわけこの「オール・スマイルズ」と「モア・スマイルズ」「サックス・ノー・エンド」といったドイツのジャズレーベルMPSから出たアルバムは、なぜかモノトーンのヌードを使ったジャケット(カラーになるとサム・テーラーになってしまう)で、70年代に学生ビッグバンドを経験したものにとって、CDの復刻はうれしいかぎりなのだ。

 ケニクラのスタンダード曲集第1弾といったところだが、3テナー、ツインドラムというちょっと変わった編成、なによりもこのバンドはサックスのソリが売り物で、たいがいの曲目に中低音域のややアンニュイな独特のハーモニーでうねるサックス・ソリが出てくる。アレンジはパリの夕暮れが似合うような哀愁ただよう洗練されたヨーロッパ・テイスト(そんなもんあるんかい!)で、霞がかったセーヌの薄暮みたいな独特のハーモニーと荒っぽさも垣間見えるツインドラム、エコーのきいたブラスのサウンドは実に個性的だ。同じ頃人気のあったサドメル・ビッグバンドのファンキーさとは好対照だ。
 
 いまどきのソフトジャズと紙一重みたいなところもあるけれど、1曲目の「レッツ・フェイス・ザ・ミュージック・アンド・ダンス」から「ユー・ステップト・アウト・オブ・ア・ドリーム」「アイム・グラッド・ゼア・イズ・ユー」「ゲット・アウト・オブ・タウン」「ホエン・ユア・ラヴァー・ハズ・ゴーン」「グロリアズ・テーマ」などなどラインナップも佳曲ぞろい。メンバーも、ジョニー・グリフィン、サヒブ・シハブ、ベニー・ベイリー、ダスコ・ゴイコビッチなどなど、歌心いっぱいのジャズマンばかりだから、泣かせどころもこころえている。

「レッツ・フェイス」はフレッド・アステアが「艦隊を追って」という映画のなかで歌った曲。「ゲット・アウト・オブ・タウン」はコール・ポーターの曲だが、このサックス・ソリを聴くと、なぜか「網走番外地」の高倉健を思い出すのだった。
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啄木はワグナー大好きだった

2006年01月25日 | 
 週はじめから連ちゃんで飲み会、ちょっとぐったり。昨夜は4人で生ビージョッキ23杯、熱燗2合徳利12本という成績。あーー、いやだ。

 漱石の「吾輩は猫である」を読み始めた。同時に、吉本隆明「漱石の巨きな旅」を読む。

 ところで、石川啄木がリヒャルト・ワグナーが好きだったといことを中村洪介著「西洋の音、日本の耳」で知った。この本は、大著で値段も5,000円、図書館で借りて読んだ。
 
 まずタイトルが気に入った。主に明治の文豪たちがどう西洋の音楽を聴き、それを消化しあるいは自らの創作活動に生かしたのかという労作。今とは比べ物にならない情報不足の中で、洋行帰りの知識人を中心に西洋音楽が受容され、どのように聴かれたのかを克明にたどっている。

 石川啄木は、土居晩翠の家で、晩翠がヨーロッパから持ち帰った蓄音機とレコードで一晩さまざまな西洋音楽を聴く機会があった。なかでもワグナーのタンホイザーに魅せられ、熱狂的なワグネリアンになってしまったらしい。だが、啄木はワグナーのオペラを見たわけでもなく、ほとんど聴いたこともなくワグナーに心酔していったのだ。実際当時、ワグナーをニーチェやショーペンハウエルと一緒に紹介した学者のなにがしだとか、ドイツに留学した経験のある森鴎外くらいしか、生でワグナーの楽劇を観劇できる機会をもった人はいなかったわけで、明治の知識人の多くは、耳よりも文字でワグナーの楽劇を読み、そのロマンチシズムに酔っていたらしいのだ。ワグナーは明治末に紹介されるやかなりの人気になったらしい。

 それにしても啄木とワグナーという組み合わせは意外だった。生活と思想をすべて歌にしてしまったこの天才的な青年歌人が初めて蓄音機から響くワグナーの螺旋状に展開する弦の波のようなうねりを聴いたときの陶酔感はどんなだったかと思うと僕自身の気持ちも高ぶってくる。
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漱石の家

2006年01月23日 | アフター・アワーズ
 先週末は熊本だった。
 初日夜は下通りを横に入ったホテルの地下「むつ五郎」で馬肉料理を堪能した。たてがみの刺身やら、心臓だとか臓物のステーキだとか、どれも絶品。メニューには、馬の脳みそもあった。今度は挑戦してみたい。空港で「菅乃家」のお土産用の馬刺しを買って帰ってきた。空港で買うなら、ここのが一番いいみたいだ。

 翌日、二日酔いの頭を休めるため、熊本現代美術館の図書室で休憩。ここはソファで画集などめくりながらくつろげるのでなかなかよろしい。もちろん入場料などいらない。ただし居眠りは禁止。

 昼すぎ小雨の中、夏目漱石の旧宅を保存した「夏目漱石記念館」に行った。上通りをつきあたって左に折れて道なりに行き、坪井川を渡った内坪井という閑静な住宅街にある。敷地は約400坪とかなり広い。ここは熊本時代の漱石の五番目の家だったそうだ。当時の家賃は10円、漱石の給料は100円。だいたい1円がいまなら1万円くらいだそうだから、漱石はかなりよい給料をもらっていたわけだ。現在の玄関と洋間は後に増築されたものらしいが、戦前のちょっとぜいたくな日本の平屋の民家のたたずまいは、やはりいいなと思った。
 
 庭に面した座敷に粗末な漱石人形が座っていて、ひもを引くと机の上の黒猫を漱石先生がなでるという趣向であった。これは、チープすぎていただけない。早く何とかしたほうがいいように思った次第。

 玄関を出て、庭を一周して門を出た。振り返ると、塀から黒ぶちが一匹跳び下りてすっと路地に消えた。小雨が雪に変わるような寒さだった。
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赤くてまーるい「それから」

2006年01月16日 | 
 漱石「それから」を読んだ。「草枕」から「それから」に進むと、漱石の文体はよく変わる、というのが手始めの感想だ。

 主人公代助が夢から覚める冒頭の、赤い椿が音を立てて落ちるあたりの描写はすばらしい。この赤のイメージは、この小説の通奏低音のようになっていて、ラストでその赤が一気に噴出する。あるいは弓矢の的の円、お盆、盥、鉢、車輪、鏡、あたまの中のぐるぐるに至るまで、「それから」は赤とまーるい形状の記号にあふれた不思議な小説なのだ。
 
 もう一つ、なによりもぼくは、門野という代助の書生の存在が気になった。代助は自分も職を持たないニートであることを自覚しつつも、門野が職をもたないフリーターであることを呑気なやつと揶揄するのだが、その代助と門野との会話は、落語のご隠居と与太郎のやりとりのようでおかしい。門野という男は、狂言回しかトリックスターのように「それから」の舞台を無節操に動き回り、「さいでげすな」なんていった幇間よろしく代助の世話をやきつつ、まるで代助を悲劇へと導いていくようなのだ。

 不倫、友人への裏切りなど重いテーマが扱われ、実際前半の暢気さに比べて後半の悲劇へと疾走する緊張感は重苦しいが、それでもこうした表層の記号をたどっていくと「それから」は不思議なイメージが横溢した小説なのだった。
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燗ばん娘で南無阿弥陀仏

2006年01月16日 | アフター・アワーズ
 土曜日に仕事関係の通夜で新潟長岡まで行ってくる。91歳の大往生、ありがたい法話まで聞き、簡単にお清めしてとんぼ返りの夜だった。南無阿弥陀仏。
 
 それにしても今年の豪雪はすごい。上越新幹線で谷川岳のトンネルを抜けるとまったくの雪景色、しかも豪雪ときているから冷凍庫のような景色だった。湯沢のスキー場もリフトが一本雪に埋まって稼動していなかった。
 行きの新幹線で隣り合わせた金沢に住む老婦人の話では、昭和38年以来の大雪とのこと。雪かきや雪下ろしを建設会社に頼むらしいが、人足一人の日当が1万5千円、4、5人は必要なので、雪下ろしだけで8万円くらいかかるそうだ。今年は豪雪のせいで人足が足りず、予約待ち、しかも例年より相場が高いらしい。
 タクシードライバーも嘆いていたっけ。地震、大雨、大雪と、なんで新潟だけこうも災害にあわなければならんのかと。

 帰りの新幹線は寝過ごしてしまった。「鮭蟹合戦」なる駅弁を肴にビール、そのあとはお清めの塩をなめつつ「燗ばん娘」していい心持になって、目を覚ましたら大宮を過ぎていた。上野で下りの新幹線にすぐ乗り換えられたので、予定より30分の遅れですんだ。車掌にもあわなかったので、まずはめでたしというところ。お清めの塩はもちろん残しておきました。
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