ちゅう年マンデーフライデー

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チンチン電車の女車掌が切るものは?「朗読者」と「愛を読むひと」の間

2009年07月06日 | 映画
 「愛を読むひと」(スティーヴン・ダルドリー監督)を新宿歌舞伎町のオスカーで観た。ここなら必ず空いているとの予測どおりの入りは、まず「アタリ」(映画はハズレ)。学校の体育館のような雰囲気。広さに比べスクリーンが小さい(客も少ない)が、最近の映画館のように上映中明るくないのがいい。昭和の映画館です。

 「愛を読むひと」は、『朗読者』(ベルンハルト・シュリンク著)としてベストセラーになった現代ドイツ文学の映画版。『朗読者』は、日本では2000年に翻訳出版され、いわゆる翻訳文学ブームのさきがけとなった。しかも、ドイツの作家の作品ということで、当時僕もひさびさに現代ドイツ文学を読んだのだった。10年近くたつので、主人公の僕が回想する一人称のスタイルで書かれた小説であること、筆おろしをしてくれた忘れられない年上の女性が実はナチスの戦犯だったというストーリーくらいしか、詳細はもうよく覚えていなかった。

 ドイツ伝統のビルドゥングス・ロマンの形式をとりながら、この小説で主人公が成長して出会うのは、戦後世代はナチスとどう向き合えばよいのかという問題だった。この世代間の問題を21歳離れた年齢の男女の恋愛を設定することで描こうとしたわけだが、著者のシュリンク自身にも、信頼していた教師がナチスの協力者だったという体験があったらしい。世代を超えて体験する「ナチスという過去」は、ドイツ社会では、依然として一人ひとりが負わなければならない十字架のようなものなのだろう。ギュンター・グラスのカミングアウトも記憶に新しいところだが、たぶんシュリンクは、ナチス問題は裁く問題ではなく受容する問題だといいたかったのだと思う。でも、僕は『朗読者』のことはほとんど忘れていたのだった。

 映画「愛を読むひと」として封切られたとき、その原作が『朗読者』であることさえ知らなかった。ポスターの下に原作:『朗読者』とあって、合点がいった次第なのだ。ならば、観てみようと。映画を観て、こんなお話だったかなというのが感想だが、ドイツ人の物語でありながら主人公は、ミヒャエルではなくマイケルと英語読みされてしまうことにはじまり、朗読される書物の文字や音声も当然ながら英語であることに違和感を持ってしまった。前半は、主人公の少年マイケルと21歳年上の女ハンナとの情交が描かれ、もっぱらベッド上の2人のアップ、中盤は法廷でのハンナとそれを傍聴するマイケルの表情のアップ、後半は、朗読をテープに録音するマイケルとそれを聴くハンナのアップというショットの連続で物語が展開される。この展開だけで、いかにこの映画が退屈だか分かろうというものだが、「愛を読むひと」は、ナチスを戦後世代がどう受け入れたかがテーマではなく、熟年になったマイケルの青春時代の清算と再生としての物語なのだった。ナチスという特殊体験ではなく、人生の光と影にアメリカ映画としての普遍性を求めたのだろう。だが、如何せんハンナ役のケイト・ウィンスレットがヌードをみせることくらいしか観るべきものがなかった。(ちゃんとバストトップも見せているのはえらい。最近の日本の有名女優といわれる若手で、しっかり脱げる女優はいるだろうか。40歳後半でも脱いでいたシャロン・ストーンなど見上げたものだ。こういう女優魂を見習ってほしいものだ)

 ケイト・ウィンスレットは、ラファエロ前派の画家ジョン・エヴァレット・ミレーの描く女性のような面立ちをした女優で、美しき土左衛門ことオフィーリアとか、大木に縛りつけられている「遍歴の騎士」の裸婦役をしたらよかろうと思っていた。だから、聖なるものと官能とのアンビバレントな同居を期待していたのだが、老ける特殊メイクにばかり熱心だったようで、これは「ハズレ」だった。

 ハンナは、制服に身を固めた律儀なチンチン電車の女車掌。チンチン電車の女車掌が「切符を切らせてください」というと車内に笑いがおきたという阿部定事件後の逸話をすぐ想起させる。つまり職業としてチェリーボーイの相手役の資格十分なのだが、ウィンスレットは官能性に欠ける。というより36歳の処女のように見えた。では文盲で、戦時中ゲシュタポに就職するくらいしか道がなく収容所の守衛だったハンナは、一体どこで少年に性の手ほどきができるような体験を積んでいたのだろうか。その残滓が見えない。この映画の一つのポイントは制服を「脱ぐ=身につける」という官能性だと思う。「脱ぐ=身につける」行為とその変容をどう描くか、その官能性に観客は、性に溺れていく少年の視点を共有していくことができるのだが、それが見えないのだった。

 ハンナは、少年のありあまるほどの性欲を受け入れながら、これまでの、たぶん禁欲的だった生活の中でひさびさに快楽を味わっただろう。しかし、少年とのセックスは快楽より奉仕ではなかったか。身体で少年に奉仕する代わりに、少年にも、かつて収容所で少女にさせたように「朗読」という奉仕を求める。「今日はセックスが先、本を読むのが先?」という台詞があるように、朗読は性行為の代替行為にほかならない。やがてハンナが裁判で無期懲役となり離れ離れになっても、2人は「朗読=声を聴く」という行為によってしか交歓できない。その変態的な愛のカタチにおいては、もはや実際に対面することに意味はなく、どちらかの死のみが、この愛を成就させるのだ。だから、「朗読=聴く」という行為をどう愛の行為として映像化するか、とりわけ音声と文字をどう扱うかが、この映画のもう一つの見せ場であるはずだが、心理描写といわれる顔の表情の変化をアップでとらえた映像ばかりでは、金のかかったTVドラマにつきあわされたようではないか。


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1 コメント

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たぶん観ないけど (のりへい)
2009-07-07 12:08:14
なるほど、さすがエロにはうるさいね。
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