ちゅう年マンデーフライデー

ライク・ア・ローリングストーンなブログマガジン「マンフラ」

「だれのものでもない悲しみ」と誰にでもある縁

2007年06月07日 | 
 東京といわず地方都市といわず、いまや映画館といえばシネコンスタイルの封切館が主流になりつつある。名画座といわれる二番館、三番館はもはや数えるしかなくなってきた。その象徴的なのは池袋文芸座が新文芸座に衣替えしたことだろうか。もちろん、今も特集形式で独自の番組を上映し、映画ファンの期待を裏切らないが、往時の勢いはない。

 文芸座がモデルの文映座が登場し、その地下劇場でフェリーニの「カビリアの夜」が上映されている夏至の夜、映画館に消火器爆弾がしかけられ、犯人からの予告電話で、一斉に非難する観客の中に、物語の主人公になる男女がいる。実はこの二人、運命の糸に操られ、双方は知らないが過去にお互いが幾度となく接近していた。偶然か、運命か、神のいたずらか、やがて二人は出会い、結ばれる。中国の超稀少種のカエル顔をした金魚をめぐる事件をきっかけに、二人は死に向かって疾走して行くのだが、果たして最後はどうなったかは分からない。

 辻原登「だれのものでもない悲しみ」(中公文庫)は、早回しの映像のように展開する男女二人の長いストーリーをかいつまみながら、そこで偶然出会う人物たちが、思いがけない方向にそれぞれを導くドラマを、読者は高みから見物する仕掛けの物語だ。そんなことがあるわけないでしょとか、それはできすぎだよと思うのは、天から物語を観覧している読者だからで、当の本人たちは、まったくそんな因縁など知らないで生きている。車窓の夕焼け、エーデルワイスの歌など異なった過去を持つ二人を結び付ける符牒が物語のあちこちにちりばめられ、それがサスペンスを産むのだが、たまたま同じ日に二人が観た「カビリアの夜」は、それぞれに啓示を与え、二人は結ばれていくことになる。そんなわけで、この小説を読むと、今日電車の中で偶然隣り合わせた人物と、もしかしたら何かの縁があるのではないかと思ってしまう。思い切って誘ってみたらどうですか、とまるで扇動されているようでもある。

 風で瓦が落ち、通行人に当たる。その出来事は偶然かもしれないが、ある一定の力が働けば緩んだ瓦が落ちるのは必然だし、そのくらいの風が吹くこともある季節の気象の必然で、通行人がその場所をその時間に通ることも必然性がある。だから、三つの必然が出会うことは、果たして偶然なのか、必然なのか。あの時、こうしていれば、こうしていなければ、と思っても、人生は走り出している。変えられるのはこれからの人生だが、そして必然だけの人生なんて楽しくないが、それさえも過去の見えない糸に操られているとしたら。それでも、そんな仕業には逆らってみたい。終点はそう遠くはないのだから。
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シンタロウのジャンキーな「ファンキー・ジャンプ」

2007年06月01日 | 
 大学時代の友人と会うため神保町へ。急な雨、待ち合わせ時間に間があったので、書泉グランデへ飛び込む。新潮文庫の売り場を見ると、探していた石原慎太郎『完全なる遊戯』があった。石原渾身のジャズ小説「ファンキー・ジャンプ」が収められているからだ。これが、読みたかったのだ。

 これは、マキーと呼ばれるジャンキーのピアニスト松木敏夫が主人公で、ブレイキーやガレスピーも絶賛したという日本人ピアニストという設定。マキーはホレス・シルバーがモデルといわれている。そのクインテットの演奏を、一曲ずつジャズ詩のようなスタイルで言語化を試みるという実験的な作品。マキーはヤクのやりすぎで、ラスト・コンサートで生涯最高の壮絶な演奏のはてに絶命する。しかも、その演奏の前には恋人を殺してきているという虚無感漂う作品なのだ。

 で、ここで演奏されるのは、ホレス・シルバーのアルバム「シルバーズ・ブルー」をモデルにした全7曲。たとえば2曲目のタイトルは「トゥー・スイング・オア・ノット・トゥー・スイング」で、オリジナルの2曲目「トゥー・ビート・オア・ノット・トゥー・ビート」のもじりというわけ(もちろん原曲のタイトルもハムレットのもじりですが)。オリジナルのレコードはエピック盤で、シルバーがジャズ・メッセンジャーズから独立した後1956年に収録されたもので、メンバーは、トランペット:ロナルド・バード(ジョー・ゴードン)、テナー:ハンク・モブレー、ベース:ダグ・ワトキンス、ドラム:アート・テイラーという布陣。

 小説の発表が1959年。ブレイキーのジャズ・メッセンジャーズ来日は1961年だから、日本にファンキーブームが起こる前に、この「ファンキー・ジャンプ」は発表されていたわけで、作品そのものよりも、この時期に、シルバーの最新盤を聴いていた石原慎太郎のヒップさに驚く。いまの東京都知事像からは想像しがたいが、平岡正明「チャーリー・パーカーの芸術」所収の「ビーバップと日本文学」によれば、なんでも、作品発表の前年に渡欧した石原はパリのサンジェルマンでホレス・シルバーの演奏を聴き、いたく感銘したのだという。この時期に絶頂期のシルバーを聴いていた日本人はそうたくさんはいまい。そんなわけで、シルバーにはまった石原が、なんとかそのファンキーな演奏を言語化しようと試みているわけだが、その実験的な意気込みは評価しても、作品の青臭さと陳腐な表現は、この時間の経過のなかでは、もはや何も心を揺さぶらない。ラストでタツノという評論家(モデルはいソノてるオか)が、「こりゃ本物だ、本物のビ・バップだ」と叫んで終わるあたりはちょっと気恥ずかしい。

「ファンキー・ジャンプ」と同じ年に発表されたシルバーのアルバム「ブローイン・ザ・ブルース・アウェイ」を聴けば、ファンキーな匂いで揺さぶりをかけてくるシルバーの音楽は、時代を超えても色あせていないこと分かるし、同じ年にマイルスが「カインド・オブ・ブルー」を、オーネット・コールマンが「ジャズ来るべきもの」を発表していたことを考えれば、いかに文学が表面の革新を気取っているだけで遅れをとっていたかが分かろうというものだ。
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第3巻でがぜん面白みが増した『チェーザレ』

2007年05月25日 | 
『チェーザレ』第3巻購入。新宿のジュンク堂にたくさんありました。この本屋に行くと時間を忘れる。本がたくさんある、見やすい、探しやすい、意外な本に出合える、寛げる。だから、ついつい長居してしまう。

 で、第3巻では教皇の座をねらう各派閥の対立の構図が次第に露呈してきて、大学内でのその代理戦争が激しくなる。メディチ家の密偵としてマキャヴェッリが登場、チェーザレと遭遇する。一方、チェーザレに憧れに似た敬愛の念を抱くアンジェロの裏で、チェーザレの冷酷な顔が描かれ、側近ミゲルがアンジェロに「信頼しすぎると失望する」と警告の言葉を発するところで終わる。1、2巻に比べ、がぜん緊張感が増してきたぞ!

「ボルジア家の毒薬」(クリスチャン・メッツ監督)という映画があったように、ボルジア家といえば毒殺だが、最近、至るところに毒をばらまいている国がある。パナマでC国製の練り歯磨きから致死量の毒物ジエチレングリコールが検出、日本ではC国から輸入した土鍋から、鉛やカドミウムが検出されたとのニュース。これは、使ってみなければ分からないので、恐い。ジエチレングリコールは車の不凍液に使われるらしい。独特の甘みがあるので、C国では甘味料に使っていて、同じパナマでは、ジエチレングリコール入りの咳止め薬を飲んで100人が死亡したという。いまや日本の国力を低下させるには、軍事力は不要かも。技術や知的財産の盗用、コピー商品の大量生産による経済的打撃、黄砂による汚染の越境、医療廃棄物などの危険な漂流物、汚染された農産物、海産物などの食品、危険なコピー医薬品の流通に、さらに食器、日用品までとくれば、10年後に健康な日本人はいなくなる。

 表示のあるものなら、買わなければいいが、とくに恐いのは外食産業で扱っている素材。以前冷凍ホウレンソウが問題になったけれど、これは、もう消費者がチェック不可能だ。信頼できるところで飲食するしかあるまいよ。安全な食品を扱う団体から食品を購入していても、たとえば「はちみつ」の原産国が「中国」となっていると、ちょっと不安だ。
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血のボルジア家をどう描くか楽しみな『チェーザレ』

2007年05月23日 | 
 あまりの展開の遅さに『バガボンド』をあきらめて以来、単行本で読む漫画は『20世紀少年』『PLUTO』に山田芳裕の『へうげもの』くらいだった。今度、惣領冬実の『チェーザレ』が加わった。『チェーザレ』は、古田織部を主人公にした『へうげもの』と、最近よく一緒に論じられる歴史漫画だが、『へうげもの』が、奇想、荒唐無稽をコンセプトにしているのに対し、(何しろ、信長暗殺の犯人は秀吉だし、信長の警備隊長弥助は黒人で、エレクトリック・マイルスそっくりな風貌なのだ)、『チェーザレ』は、美少年モノの意匠を凝らしながら、しっかりとした時代考証に支えられ、人物、衣装、建物、風景、調度に至るまで、ルネサンスのフィレンツェ、ピサ、ローマなどをリアルに再現しているところが、見もの。ミケランジェロの天井画が描かれる前のシスティーナ礼拝堂が描かれる懲りようだ。

 なんでも、新鋭ダンテ学者・原基晶が監修し、世界的に最も定評のある「サチェルドーテ版チェーザレ・ボルジア伝」のイタリア語原書を翻訳した上で、書かれているらしいのだ。主人公は、メディチ家に縁のある聡明で善良だが世間知らずな少年アンジェロで、そのかかわりの中でチェーザレ・ボルジアが語られる。まだ、2巻しか読んでいないが(3巻がなかなか手に入らない)、今後が楽しみ。ただ、壮大なドラマとなることが予測されるだけに、完結までには何年かかるのだろうとも思うが、青春時代だけで終わらせてほしくないと願うばかりだ。なんせ、題材がボルジア家なのだから。

 ボルジア家の話をはじめて知ったのは高校のとき。桃源社刊行の澁澤龍彦著作集に収められた『毒薬の手帖』所収でチェーザレ(チェザーレと表記されているが)を論じた「ボルジア家の天才」、そして『世界悪女物語』所収の「ルクレチア・ボルジア」。ここでは、チェーザレはマキャヴェリ『君主論』のモデルにして、敵を次々と毒殺する独裁者、ルクレチアは淫婦として描かれるのだが、その話の面白さに、すっかりボルジア家ファンになってしまったものだ。もし犯罪を犯した高校生の書棚にこんな本があったら、猟奇的な嗜好があったなどと分析されかねない危険な臭いを発散させていたのが、澁澤の本だった。チェーザレにしても、ルクレチアにしてもこれまで語られてきたほど悪人ではないなどといわれたりもするが、惣領冬実の『チェーザレ』では、このあたりをどう扱っていくのか、とても楽しみだ。

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先生といっても、あのセンセイではありません。

2007年05月18日 | 
 ヴィム・ヴェンダース監督「東京画」で、インタビューを受けた厚田雄春カメラマンが、小津監督の思い出を語りながら、感極まって「もう勘弁してください」と涙ぐむシーンは感動的である。原節子のいない小津映画はあっても、厚田雄春と笠智衆のいない小津映画は考えられない(もちろんそれは存在するのだけれど)。笠智衆著「小津安二郎先生の思い出」(朝日文庫)には、厚田カメラマンと同様、小津監督に連れ添ってきた笠さんならではのエピソードが、かなり補足され、編集されているとはいえ、独特の語り口を生かした文体で訥々と語られ、一気に読了してしまう。

「東京物語」で、老夫婦が熱海の海岸の防波堤に腰掛けているシーン、笠智衆は背中を丸めて年寄りらしく見せるために、座布団を背中に入れたのだという。なるほど、そのシーンの写真を観ると、そんな感じがする。笠さん自身の小津映画ベスト1も「東京物語」なのだとか。監督ではなく先生と呼ぶ、純心とでも言えるような敬愛の念にあふれたこの本は、読み手の心にも静謐をもたらしてくれるのだった。
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辻原登「ジャスミン」を読むと茉莉花茶が飲みたくなる!

2007年01月29日 | 
「ジャスミン」(辻原登・文春文庫)を読む。

 初めての辻原登。物語作家としての名声高くいずれ何か読まねばと思っていた。金曜日の晩、寝床で読み始めたが、睡魔に勝てずすぐ眠ってしまった。朝七時目が覚めて、再び読み始めると止まらなくなった。一気に読了。

 舞台は神戸と上海、天安門事件に阪神大震災が背景にあり、中国へのODAにからむ利権争い、中国国家公安部の暗躍、失踪しスパイ容疑で中国奥地黄土高原に幽閉された父親探し、戦中の上海を舞台にした中国国内の覇権争いや周恩来の権謀術数、劇中映画と重なる日中の恋、これら盛りだくさんなサイドストーリーが、外資系シンクタンクの辣腕ディレクターの主人公と中国人映画女優との恋と逃避行を軸に展開され、その話の節々を至高のジャスミン茶の馥郁たる香りが包むという贅沢さで、とにかくこれでもかといわんばかりのサービス精神旺盛な冒険小説である。

 芥川賞作家で東海大学の文学部教授という肩書からは想像できなかった面白さだ。そしてこれを読むとおそらく誰もがジャスミン茶を飲みたくなる。早速ネットで「茉莉龍珠 白毫冠軍」などを求めて心を躍らせる始末であったが、近所にそんな高級茶を売る店はないので、とりあえずスーパーでパックのジャスミン茶を購入し、秩父太田屋の絶品本煉羊羹を友に飲む。

 「ロンググッドバイ」がギムレットの小説なら、これはタイトルどおりジャスミン(茉莉花)茶の小説で、甘く切ない味がするのだった。
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ほやの燻製と三島と志ん朝

2006年12月25日 | 
 突然嵐のように襲来した仕事に追われて本を読む気力も失くしていた。ブログさえ開けなかった。早くこんな生活にはおさらばしなくてはいけない。こんなことで寿命は縮めたくない。

 出張帰りの東北新幹線、ワゴンに揺られてやってきたのは、「都こんぶ」くらいのオレンジのパッケージに浮かぶ「ほや」の文字。これは、もしかしてあの「ホヤ?」と売り子にたずねれば、「はい、ほやの燻製です」。ならば、買わねばならぬ!「三つください。それと缶ビール」。プシュッ!一口飲んで、逸る手で封を開け、赤茶色の燻製をつまみ出して放り込む。ちょっとニチャニチャした口当たりだが、噛むほどにほや独特の渋みと苦味と甘味が渾然一体となって口に広がる。紛れもないほやの味である。車内のビールの友には最高の一品ではないか。東北新幹線に乗ったらぜひお試しあれ、といいたいところだが、できれば私が買い占めたい。

 読書力(どくしょりき)が下降線をたどっている中で読んだのが「三島由紀夫―剣と寒紅「(福島次郎著・文芸春秋社)。著者は小説といっているが、三島との同性愛的な関係を赤裸々に綴った告白の書。ぐったりしている中で読むには、生々しくかなり内容の重たい本だが、覗き見的な興味で一気に読んでしまった。

「落語で江戸のうらおもて」(京須偕充著・ちくま文庫)、志ん朝さんの高座CDのプロデューサーであり四代続く江戸っ子である著者が、「三軒長屋」に出てくる自分のことを「あたし」ではなく「おれ」という鳶の姉さんとか、落語の中の一言を例に、江戸っ子気質とは何かを名調子で説いていて面白い。こういう本もずるずる読んでいては著者に失礼、これも一気に読んでしまった。志ん朝さんのCDが聞きたくなります。

 そんなわけで、とにもかくにも、年忘れの一気飲みと、やぶれかぶれの一気読みで、なんとか心の均衡を保っている年の瀬なのだった。
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面白い本は本屋で待ち伏せしている!

2006年11月16日 | 
 仕事疲れが溜まってきて読書に実が入らなくなってきた。こういうとき気楽に読めて面白い本はないか。面白い本はいつも本屋の書棚で待ち伏せして手にとられることを待っている。数多ある本の中から吸い寄せられるように僕の手が伸びる幸福な邂逅。ビル・クロウ『ジャズ・アネクドーツ』(村上春樹訳・新潮社文庫)もそんな本だ。どこから読んでもよくて面白い。

 そういえば、以前「プレーボーイ」のコルトレーン特集に長時間化するコルトレーンの演奏にマイルスが「サックスから口を話せばいい」といったエピソードが紹介されていたけれど、これもこの本がネタ本のようだ。ジャズはバップの頃から次第に都市黒人インテリゲンツィアの音楽になっていくけれど、それでも譜面を読めないジャズマンはたくさんいたようで、耳と体と魂で演奏していた連中が多かった。

 そんな連中がビッグ・バンドをやっていたのも驚きだが、アート・ブレイキーがもともとはピアニストで、しかも譜面は読めずいつも3本指でやっていながら大した人気だったという。やがて自分がフルバンドを率いるようになったのはいいが、譜面で演奏するようになるとピアノのソロパートでいつも演奏が中断するのに「俺が譜面を読めねーことは知ってるだろう」と居直った挙句、以来ドラマーになったという話だ。

 ブレイキーは演奏もナイアガラ奏法なんていわれて、こういう形容の仕方が「銀髪の吸血鬼」とか「人間風車」とかプロレスぽくていいんだけど、とにかくドラミングもやることも豪快だ。まあ組長みたいなもんだよね。ベニー・ゴルソンみたいな作・編曲もできるちょっと知的な若頭がいて、鉄砲玉のリー・モーガンがいつでも「とッタルデェー」みたいに血気盛んとくればスウィングしないわけがない。

 そんなわけで今夜はリー・モーガンの「イージー・リビング」でも聴いてみよう。リー・モーガンを聴くと、なぜか「青春!」を感じてしまうのだった。
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カシワの大学デザイン

2006年10月19日 | 
 広告批評が「大学をデザインする」とのタイトルで、佐藤可士和さんによる明治学院大学のブランディング活動を特集している。

 1992年が18歳人口のピークだった大学業界では、その頃がバブル期で、やがて来る大学氷河期に備えてとの目論見もあったのだろうが、時代がバブルだけにおよそ先のことなど本気では考えもせず、ちょいとおしゃれな衣替えをUI(ユニヴァーシティ・アイデンディディ)などと称して、マーク・ロゴなどを作り変える大学が目白押しだったが、それは目に見える旗印のリデザインにとどまり、大学の中身の改革にまでは至らなかった。UIでずいぶん稼いだ広告代理店もあったろうが、いまや18歳人口の減少は底知らずの右肩下がり、45%の学部・学科が定員割れ状態、倒産する大学も出てくる始末で、そんな時代だからこそとりわけ私立大学はあの手この手で生き残りに必死、すわビジネスチャンスと大手広告代理店も、今度は「大学のブランディング」という生き残りプランを売り始める。ではUIは何だったのかとここではいうまいが、TVCFなどを展開した大学もあって、まあ、それがブランディングに結びついたかどうかは疑わしい。大学業界もいまや勝ち組、負け組の2極化が深刻で、負け組に足を突っ込んでしまえば、中途半端な広告展開などでは立ち直りは難しかろう。

 そうした中で、明学のブランディングは佐藤可士和という超売れっ子デザイナーを起用し、本気にさせた時点で、成功ではなかっただろうか。大手広告代理店などに無駄な金を使わず、なんでも学長が広告批評の天野祐吉氏を介して可士和氏に白羽の矢を立てたとのことで、明学の建学の理念を「do for others」と分かりやすく、徹底的にデザイン化する堅実にして大胆で継続的な活動を展開しているところに好感がもて、今後この活動がどう志願者に結びついていくか注目されるところだ。何よりも看板、大学案内はもとよりシラバスからユニフォーム、記念品のお菓子に至るまで新しいデザイン活動によって生まれたものが学生たちに指示され、それが母校への誇りにつながっていることがすばらしく、それはやはり佐藤可士和というブランド力もあっただろう。

 中身の改革がどうなっているかはよく知らないが、デザイン活動が教育の中身の再構築につながっていけば、ブランド校などといわれている東京6大学などとは、一味違ったブランド力を発揮できるのではないか。願わくばスーパーフリーのようなバカが出てこないことを。
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炎立つまぐわいに震える車谷の「忌中」

2006年10月18日 | 
 久しぶりの車谷。愛と死をめぐる強烈な純愛小説集だ。純愛小説ブームなどといわれ数多登場した恋愛小説に関心はないが、読まずとも分かる、これら凡百の小説は、ここに収められた物語の前にひれ伏すだろうと。

 表題作の「忌中」は、寝たきりの妻の介護に疲れた夫が、妻から懇願されて妻を殺害し、押入れの茶箱に入れたまま死体と一緒に暮らし続ける一方、妻の後を追う覚悟を決めてサラ金から金を借りまくり、死ぬまでの短い期間をその金で貢いだヘルスセンターのマッサージ嬢と遊興し、もはやこれまでというところで、自宅の玄関に自ら書いた「忌中」の紙を張り、首をくくって妻のもとへ行くというお話し。男は毎日家に買ってくると茶箱のふたを開け、次第に肉が崩れていく妻の亡骸を確認しながら一緒にいることの幸福感を味わっているのだった。

 バブル崩壊で経営が破綻した中小企業の夫婦が一家心中する「三笠山」は、最後の旅行で二人の子供の首を絞めて殺し、その後悲しみのどん底で最後のまぐわいをして翌朝、車の中で排ガス心中する。「堕地獄のやぶれかぶれの炎立つまぐわいにいくどとなく震え」と死に至る性の歓喜が表現される。この夫婦は高校時代一緒にハンセン病施設を訪ねた縁でお互い魅かれあっていたが、妻のほうは再婚で初恋の男とようやく一緒になったのだった。悲惨な人生の結末であっても「私幸せだったわ。田彦さんと一緒になれて」という妻の言葉が泣ける。

「神の花嫁」では、「長崎26殉教者記念像」の作者で知られる彫刻家・舟越保武の「病醜のダミアン」のモデルになったダミアン神父の話が出てくる。ハンセン病患者の心を理解するため自らハンセン病になってその救済に全人生を捧げたダミアン神父。舟越保武の作品は、病に犯されたダミアン神父の姿を描いたものだが、残念ながら患者たちの要望で公開されていないが、このくだりには心が震える。

 存在することが罪ならば罪あるものこそ美しいとさえ思えてしまう物語群なのだった。
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