ブログ、巨人軍。

頑張れ、ジャイアンツ!
頑張れ、日本のプロ野球!

原辰徳だからこそ出来た 「ジャイアンツ愛」 という組織づくり。

2014-06-22 22:52:07 | 2014年シーズン

ベンチに戻ってバッティンググローブを軽く投げ捨てた村田の表情は、なんとも複雑なものだった。
代打を送られるのはこれが初めてではないし、打線の下位を打ったこともあった。
村田の送りバントにしても、決して珍しい光景ではない。
それでも、村田は四番を任されている。

チームのためという大義だったとしても、やりきれない、なんとも複雑な表情に見えた。
トレードマークのマウスピースを浮かせた口元の微かな ”笑み” のような歪みは、
一体、彼の身体のどこから沸き立つ、どんな思いだったろうかと想像すると、複雑な思いに駆られる。

これもすべてはチームが勝利するため。
「あそこはヨシノブのほうが分があると判断した。」
あの場面、原監督はヨシノブのほうが確率が高いと判断した。
その確立には打撃の成功率以外にも、相性や、経験や、好不調といったことも加味され、
その上で判断が下される。
いい結果を導くために下された選択。
それでも村田はチームの中心、四番打者だ。

今、成績だけを単純に比較したなら、結局チームの誰が四番に座ろうと、さほど大差はないかもしれない。
まさに今季ここまでのジャイアンツはそれを実践し、原監督は理想の打順を模索し続けている。
6月21日現在の成績で四番候補をそれぞれ比較してみると、村田は打率.267、本塁打10本。
阿部は打率.233、本塁打7本。ロペスは打率.249、本塁打14本。アンダーソンは打率.318、本塁打7本。
この面子にあって長野(.279 4本)、坂本(.296 4本)を4番に据えるのは役割としてどうかと思うし、
そもそも、いくらセペダ(.179 5本)がキューバの元・主砲とはいえ、
来日してから2軍の試合にすら出ていない状態のままで即、4番に据えるというのも酷な話ではある。

他球団を見ても、チームによっては四番打者が戦線離脱しているところもあれば、
試合にこそ毎回出ているものの、必ずしも成績が順調とはいえない、そんな四番打者を抱えるチームもある。
その前後の打者の誰かしらがそれに代わる役割を果たしているチーム、
総体的なバランス力で補っているチームと特色は違う。
ジャイアンツはまさに総体的なチーム力で現在の位置を確保している。
当たり前だが、チームによって事情は様々。


6月に入り、打線も徐々に上向いてきたジャイアンツ。
福岡で行われた最初のカード2試合だけ見れば、対ホークス戦で一番好成績を残しているのは村田修一だ。
代打を送られた場面、ノーアウト一塁で、仮に8回裏に1点取られていなくて2-1の状況だったら、
まず同点を狙ってバントも考えられるから、村田がそのまま打席に立って送りバントをしていたかもしれない。
何試合か前に、同じような場面で、バントの失敗が目立つ長野に代えて、
松本哲也が代打で送りバントを決めたというケースもあった。
しかし、村田は決してバントが下手ではない。
そこそこ数をこなしているせいか、村田もロペスも、阿部も意外と上手いバントをする。
ただ現実は2点差。ノーアウト一塁。バッターは四番の村田だ。

この試合、いつくか訪れたチャンスはことごとく併殺でつぶれている。
そして村田はチーム1の併殺王でもある ー 村田15、ロペス10、片岡9
このデータからしても、あの場面、村田に ”分” はなかったのか。
少なくとも、原監督の計算では、ヨシノブに ”分” があった(今季ヨシノブは併殺0)ということになる。

それにしても、である。
バッターは村田。
四番の村田修一だ。

掛布氏が以前、四番打者の定義のひとつに、
勝敗の責任をすべて背負えるだけの存在感があるかどうか、と語っていたことがあった。
そういった意味では、今のジャイアンツでその責任を負えるのは、やはり阿部であり、村田であろう。
そんな立場を誰よりも理解しているのも、また、この二人かもしれない。
だからこその、あの場面の村田の表情だと理解する。


チームのために個人を犠牲にすること、とくにジャイアンツというチームで、
チーム以上のいち選手など存在しない現実を、実体験を以って誰よりも知っているのは、
原監督その人ではないだろうか。
長嶋、王のあと、スター不在といわれたジャイアンツにあって、
ようやく登場した人気・実力を兼ねそろえた次代のミスター・ジャイアンツ。
最有力にして最もふさわしい男、それが原辰徳だった。
高校時代からその非凡な野球センスとアマいマスクで人気を博し、
3年連続で甲子園に出場するなどプロからの注目を集めたが、原は東海大学に進学。
大学でも期待通りの活躍を見せ、その後、当時の巨人軍監督・藤田元司さんが、
ドラフトでクジを引き当てジャイアンツに1位入団した。

高校、大学からずっと三塁を守ってきた原辰徳だったが、
入団当初はレギュラーとの兼ね合いで二塁手としてスタートした。
本人は三塁手への執着をかなり見せていて、
マスコミも入団当初から第二の長嶋誕生と原辰徳を囃し立てていたので、
二塁手へのコンバートは話題となった。
その後は三塁手として順調に成績を残していく。
しかしプロ野球人生の中盤からは常にケガが付きまとい、
満身創痍のシーズンが引退まで続くことになる。


ケガとの闘いも代名詞のひとつとなったが、それと同じくらい、
原辰徳を常に追い込んでいたように見えていたことがある。
それは ”ジャイアンツの顔” としての大きすぎる期待である。

歴代四位の在位数で四番に座った原辰徳。当時、世間やマスコミは長嶋や王の幻影を原辰徳に重ね合わせる。
誰もが認めるジャイアンツ不動の四番打者、そんなプレッシャーが常について廻る。
ちょっとした浮き沈みでさえ、四番失格の烙印となる。
原監督が今でもよく口にし、松井秀喜も口をそろえる ”ジャイアンツの四番という聖域” とその重み。
そして当時、原辰徳はその期待を一手に背負わされていた。
そう言っても決して言い過ぎではない。

定期的にやって来る外国人選手も、やはりピークを過ぎた選手が多い上、
どうしても世間が求めるのは生え抜きの日本人スター選手の存在。
中畑清、篠塚利夫と実力者はいたものの、名実ともに一番理想的だったのは、やはり原辰徳であった。
ウォーレン・クロマティや呂明賜といった好打者・強打者も登場した。
それでもやはり期待されるのは長嶋、王に次ぐ生え抜きの日本人選手。
今も多少はあると思うが、当時は更にそんな願望が強かったように思う。
それは、ここ十年くらいの相撲界に対する日本人の拭いきれないささやかな思いに似ているかもしれない。
やはり日本人の横綱誕生に対する願望は、おおっぴらには言いづらい部分ではあっても、
まったく消えてしまった願いでもない。
今の横綱がモンゴル出身だからどうだ、ということでは決してない。
横綱・白鵬の実力と品格は今さら語るまでもないだろう。

そう、結局は日本人力士がだらしない、そう結論づけるのがいちばん手っ取り早い。
その立場に登りきれない当事者に、すべての責任を押しつける。
お門違いだが、それがいちばん簡単だ。

そんな理不尽な責任を、当時の原辰徳は一手に押しつけられていた感じがする。
勝てない原因、弱い原因は、不甲斐のない四番打者にあり。
四番に座っていなくても、四番に座れない原辰徳、というレッテル。
ちょっと大袈裟な言い方だが、当時の原辰徳はそれくらいの重荷を背負って野球をやっていた雰囲気があった。
「原だけが悪いわけじゃない」
「四番でなければ本当にいい選手」
そんな言葉もよく耳にした。

それに追い討ちをかけるような不幸な出来事もあった。
これは原辰徳だけでなく、ジャイアンツにとっても不運な出来事だったが、
この人の登場でようやく原辰徳の負担も軽くなると誰もが思っていた。
そんな大きな期待に吉村禎章はほぼ応えかけていた。
しかし札幌円山球場で行われたデーゲームで守備の最中に大ケガを負ってしまう。
レフトフライを捕球しにいった際、突進してきたセンターの栄村選手と激突。
左膝のじん帯を何本か断裂する大惨事だった。
栄村選手は俊足で守備範囲の広さがウリだった。
一年ちょっとと信じられないスピードで復帰を果たすが、やはり代償は大きかった。
原辰徳と同期入団で高校からプロの世界に入った駒田徳広も吉村と同時期にブレイクし、
四番を打ったこともあったが、原辰徳とはやはり立場や存在感が違った。

ジャイアンツの四番に座るという、世間やマスコミからの重圧を、一時代、一手に背負っていた原辰徳。
選手としての晩年は、落合博満らのFA選手や松井秀喜の入団で、肩の荷も減った感はあったが、
最後は、きれいなカタチで身を引くことを強いられたような、
個人的な印象だが、そんな引退だったイメージが残る。

とはいえ残した成績は立派な数字。
原辰徳は紛れもなくジャイアンツの名・四番打者だったと、ファンとして声を大にして言いたい。


ジャイアンツの四番という大きな重責の意味を知りつくす、そんな原辰徳が、
原監督となって球界に復帰を果たした2002年。
原監督がキャッチフレーズに掲げた ”ジャイアンツ愛” という言葉を、
ジャイアンツを誰よりも愛する若大将の熱き魂と当時受け止めたが、
まさにこれこそが、自己犠牲とチーム最優先を意識した勝利至上主義の旗揚げだった。

それが顕著になるのは第二次政権の3年目、2008年から4年目の2009年あたり、
ちょうど坂本や亀井、越智、育成から這い上がってきた山口鉄也や松本哲也ら、
生え抜きの若手選手が台頭し出した頃だったろうか。
それから、長野、坂本といった若手・生え抜きのレギュラー定着が進み、
よりチームプレイ(ジャイアンツ愛)への意識付けが強くなっていった気がする。
そうすることで、当然、その次に出てくる若い選手らにもその意識が無理なく浸透していく。
そしてそれは、チームを牽引する主軸やベテラン選手にも、否応なしに植え付けられていく。

かくして、ジャイアンツというチームからもっとも重責を負わされた原辰徳という監督によって、
”チーム・ジャイアンツ(ジャイアンツ愛)=自己犠牲・チーム最優先” という思想が、
まるで ”高い高い徳” のように、選手全員にもたらされることとなった。

昨シーズンだったろうか、まだペナントも前半戦の頃だったように記憶しているが、
その日スタメン出場している村田を、原監督は試合の序盤で引っ込めてしまったことがあった。
「心技体ともに準備できていないという判断」 と、原監督。
攻守に集中力の欠いたプレイをした村田に対する、明らかな懲罰だった。
「(監督からは)何も言われてないです」 と記者の質問に言葉少なに応えた村田。
翌日の試合で通常通りスタメンに名を連ねた村田だったが、中継の中で試合前のレポートが紹介され、
前日の交代劇を改めて問われた村田は、
「監督の ”激” だと捉えて今日の試合にしっかり集中する」 そんなニュアンスだったろうか。
日々是修行の村田修一。
その後の夏場に向けての村田の成績の上昇率は記憶に新しい。

四番打者に代打を送るという選択にリスクがあるかどうかは判らないが、
少なくとも代えられた本人、そこに前後する選手、当然代わりに出て行く選手にも、
単なる選手交代とは明らかに違う ”何か” が胸に残るはずだ。
その ”何か” が、重圧か、重責か、不平や不満や不信感か、あるいはそんなものを通り越した一体感か、
内情が判らない限りそこはなんともいえないが、ただひとつ、原監督は必ず、その ”何か” に対し、
その当事者があれは一体なんだったかとしっかり向き合うことの出来る次のステージを、
原監督はそんな何某かのステージをすぐさま用意することを決して怠らない。
そんなひとつの行動が、シーズンの随所に意図して組み込まれているように見える。
すべての選手にそれが応用されるかといえばそれは難しいかもしれないが、
少なくともチームの根幹をなす選手たちには、決まって配慮されているパターンのよう感じる。

ただあの場面、代打に送られたのが高橋由伸、というのは大きかったろう。
ベテランで実績充分なチームの心柱。
打席に向かうヨシノブも、坦々と仕事に入りながらも、
結果に対し責任を負うだけの覚悟のようなものは、
姿勢として、普段からチームメイトに無言で示しているはず。
だからこそ成立した作戦だったと言いたい。

挽回できるか、取り返せるかは、勝負の世界。
答えを見つけ出せるかは、選手それぞれの力。
ただ、そういったステージ(チャンス)をしっかり用意することで、
あの時生まれた ”感情” が溝になることは防げる。
そしてそのステージで仮にでも納得のいくものが得られたとしたなら、あの ”感情” は、
きっと当事者にとっても、あるいはまわりの者にとっても、ものすごく意味ある呼び名に変わるはずだ。

勝負の佳境でチームの中心に代わりを送るという選択。
一見、非情のように感じるが、そこに係わるそれぞれのピースが、
目的と責任をしっかり理解しているからこそ実行できた、
今の原・巨人ならではの戦略、といったところだろうか。

と、どうにか納得してはみるものの、やっぱりちょっと、村田、不憫だった…。




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