「鰹漁 巖手丸」 (岩手県水産試験場用船/下閉伊郡宮古町)
漁業は明治の頃も三陸の主要産業
(本稿からしばらく明治の水産業を紹介します)
明治の時代も水産業は三陸の主要産業でした。前述のvol30でも下閉伊郡の統計で一部紹介しましたが、本写真帖の付属諸表から、三陸の産業全体の生産額(明治43年)を一覧表に直して比較すると次のとおりです。明治43年当時は、農産物が全体の41%を占めて最も多いのですが、漁業は漁獲物と水産製造を合せると26%と2番目となっています。
鰹は明治末の三陸の代表的な魚、でも今は
鰹は、明治の三陸では写真帖に掲載する位代表的な魚種で、本写真帖の付属諸表(次回詳述)によると三陸全体で525,536貫(1貫3.75kgとすると、1,971t)の漁獲があり、当時の魚種別で一番の漁獲がありました。ところが現在(平成24年)はカツオ・ソウダカツオ合せて484tと明治の4分の1に減っています。漁獲法や加工販売ルートの変化等の要因があるかも知れませんが、三陸の鰹は、春から初夏にかけて三陸沖を北上して、ちょうど今の時季(8月から9月)にたっぷりと脂を蓄えて戻ってきて美味で、今も昔も三陸を代表する魚種と思っていた私には少しショックな数値でした。しかし明治と比較すると、三陸の魚には、もっと驚くべき変容がありました。
ナント!「明治の三陸には、サンマがなかった」 ※次回詳しく紹介します。