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思考の踏み込み

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前田智徳14

2014-08-10 00:12:25 | 
"サムシング スウィーツ" という言葉がある。

ー 人生何か甘いモノを。

という意味だそうだ。
この世を楽しんで生きるにはいい考え方だと思う。


だがしかし、それよりも個人的に魅力を感じてしまうのは、まるで苦虫を噛み潰した様な ー 内に秘めた険しさ、余計な事は語らずに、黙々と自己と闘い続ける様な、生き様でモノを語る事の出来る男 ー そういう者たちの方がずっと私は好きである。




もちろんこれは一般論ではない。
偏狭な考えであることも自覚している。
しかし感情として言っている。
人には言えない様な "苦み" を、強引に力でねじ伏せ、ただただ寡黙に我が道を歩む。そういう男達はずいぶんと減ってしまった…。


厳しい時代を生き抜いた世代の方々にはサムシングスウィーツは必要であろう。
だが、ぬるま湯に浸かって腰が抜けた現代日本人に必要なのはむしろ "サムシングビターズ" ではないか。


マスコミは人当たりが良くて、要領の良い、彼らにとって都合のいい者ばかりをもてはやす。
ハニカミ王子だかハムカツ王子だか知らないが、真面目で毒のないキャラクターが愛される時代なのだろう。

前田や野茂の様な、寡黙で、しかもその寡黙さが最大の魅力である様な男たちは、無愛想だー といって叩かれるばかりである。

野茂英雄。ケガがなければ前田が先に海を渡っていたかもしれない。どちらも高みだけを求めていた ー 。



ペラペラ話す事など誰にだってできる。聞いた話をそのまま記事にするなら子供でもできる。

なぜ寡黙な "男達" の生き様を読み取って変換して記事にする事ができないのか。マスコミの質の低さこそが前田の様な魅力ある選手が出てこなくなる原因であろう。

例えるなら、"黒" という色は寡黙だが、実際は全ての色を内包した豊かな色彩なのである。
それは見る角度や光の当て方で幾らでも輝き方を変えてみせる。

桃山時代 美濃 瀬戸黒。銘ワラヤ。



沈黙にして、最も多くを語る色 ー それが "黒" の本質であるが、程度の低い我が国のマスコミ諸君にはこのことがわかりにくい様だ。

そうしたことに気付けない者達は、華美で鮮やかな、わかりやすい色にばかり目を奪われる。
そんなモノが一体何だというのかー。


" ー 巧言令色鮮 (スクナ) し仁" とは遥か昔に看破されている真理である。

多弁で饒舌な事がもてはやされる西洋文明に触れ過ぎて、我々東アジア人は "沈黙" という伝統的な美学を忘れ去ってしまっているのだろう。




…ちなみに、前田智徳は本当に寡黙な男なのかどうかー 。

単に口数が少ない事や口下手な事と、寡黙な事は同じではない。誰でも愚にもつかない質問ばかり受けていれば無口にならざるをえない。言葉の重みを知る者もまた不用意な発言はけしてしないし、よくモノを考えている者ほど軽はずみには喋らない。

前田が時に饒舌な姿を見せたり、ぽろっと話す印象的な言葉からは彼のそうした内面が伺える。
それはこれからもし彼が解説者や、指導者になっていけば見えてくるだろう。世間はきっと新しい前田像に驚くに違いないが、前田智徳の本質をみつめていたファン達には何一つ不思議な事ではない。




前田智徳13

2014-08-09 06:02:30 | 
前田智徳の所属した広島カープとはそういう球団である。

それは追い詰められた人間達だけがみせる "生きる力" そのものの発露であったといっても良い。

そのエネルギーはカープの "赤" に象徴されている。

そこで生きた選手達はみな、逞しく、男らしく、いぶし銀で、魅力に溢れた者たちばかりだった。みな、赤がよく似合った。


(帽子、ヘルメットにも赤を採用し、"赤ヘル" の席巻が始まる前夜、1975年頃。)


白石勝巳に始まり、古葉竹識、外木場、安仁屋、北別府、大野豊…あるいは江夏。

そして炎の男、津田恒美。




ミスター赤ヘル山本浩二。
鉄人衣笠。

鬼の様に練習に励む "広島イズム" を具現化した高橋慶彦。
広島黄金期の守備の要、立川光男。

緒方孝市、正田耕三、野村謙二郎、金本知憲、江藤智、佐々岡真司。男、黒田博樹。
…そして前田智徳。





もともと私がカープファンになったキッカケは江藤智の美しい放物線を描くホームランに魅了されたコトに始まるのだが、それにしてもこの時代のカープのメンバーの凄さは、優勝できなかった事が不思議な程である。



私は最後に前田智徳にもう一度、優勝という喜びを味わってもらいたかった。

その願いは叶うことなく、前田は引退してしまったが、赤ヘル軍団復活のきざしは少しずつ見え始めている。

それはドン底から這い上がってきた広島カープと広島市民の、執念という伝統を ー 前田智徳という修行僧の様な男が引継ぎ、次代の若手たちに伝えていった証でもある。


ジェット風船。もともと広島発祥。



現在、12球団で最も優勝から遠ざかっているこのチームに、再び栄光の美酒がもたらされるコトを願ってやまない。







前田智徳12

2014-08-08 00:34:37 | 
原爆の惨禍から立ち上がろうともがく広島市民にとって、希望への光であった広島カープだが ー その道のりはけして平坦なモノではなかった。

いかんともし難いのは今も昔も資金不足。市民球団の宿命であろう。
(現在は経営は黒字なのだが…。)


プロ野球加盟の一年目、カープはリーグ加盟金すら払えず、そのしわ寄せは選手の給料へと向かう。

選手達は寮の光熱費すら払えず、遠征となれば満員列車の通路に新聞紙をひいて寝ながらの移動であった。



一年目の戦績は41勝96敗。勝率は三割を切った。

その余りの弱さと、選手にろくに給料すら払えない現状に球団創設二年目にして早くも解散、もしくは合併という話が持ち上がる。

実際に当時の大洋ホエールズとの合併が合意に達していたともいわれる。

その、合併が決まろうとする重役会議の場所に、噂を聞きつけた広島市民が押し寄せ、叫んだー 。

"頼むけぇカープをなくさんでくれ!"

食うのにも困る様な時代に、金を払って野球を観たい、それほどにカープは広島市民にとって心の支えであった。

モノに溢れ、飽食の世を生きる現代人がどこまでこの人々に共感する事ができるだろうか。

彼らの叫びは聞き届けられ、合併は保留されたが、資金不足ばかりはどうしようもない。

そこで考案されたのが有名な "樽募金" である。
戦争によって身も心もズタズタにされた人々が、わずかな金を持ち寄っては樽に入れていった。



それはカープと市民の絆をあらわす象徴であった、と当時を知る者は語る。

お陰でなんとか資金不足はギリギリでクリアし、球団の存続が確定した。

こうして人々の希望の支えとなり、復興のシンボルとして闘い続けた弱小球団はついに栄光の時を迎える。

だがそこに辿り着くまでには20年以上の歳月がかかった。

1975年、広島カープはついに悲願の初優勝を果たしたのである。


ー 原爆という人類がかつて味わったコトのない悲劇から這い上がり、懸命に生きて、生き抜いた人々にとってこの優勝はどれほどの喜びであったであろうか ー 。

私は、想像しただけで涙が溢れてきそうである。

その喜びは優勝を決めた試合でのお立ち台、感涙にむせんだ広島出身、山本浩二の言葉に凝縮されている。



" ー もう何もいらない!もう十分です。"



その夜、広島の繁華街流川は広島中の人間が繰り出したのではないかと思われるほどに、盛り上がったという。

その夜の風景は今や広島の伝説として、語り草となっている ー 。

前田智徳11

2014-08-07 06:46:26 | 
さてー ここで核兵器について論じるつもりなどさらさらない。

だが、広島東洋カープというチームは、その核兵器による人類史上最初の犠牲となった場所で ー 命がけで生き延び、必死で復興しようと闘った人々の願いから生まれた球団であるという事を知らなければ、カープとはどういう集団なのかを知る事にはならない。

当時は草木も50年は生えないー 、そう言われた絶望の中で広島市民は終戦を迎えたのである。




だが彼らはたくましかった。

放射能という未知の危険も顧みず、その故郷を捨てる事なく、踏みとどまって闘った。

そんな広島市民が、"復興の旗印" として求め、希望の灯火として望んだのが広島カープなのである。

もともと野球が盛んな土地であった。
現在でも広島出身のプロ野球選手は多い。

「廃墟の街に球団を作ろうー。」

人々の思いは熱気を帯び、設立運動は徐々にひろがり、ついに1950年、市民の願いは形となる。

広島城が "鯉城" という雅称を持つ事にあやかって、その球団名は "カープ" と名付けられた。

鯉は滝を這い上がり、やがて龍となるといわれるー 。




廃墟の街で生きる人々にはそんなイメージも託されていたことだろう。

広島市民達は当時、"カープ" という言葉を聞くだけで熱くなり、その話題は熱気に包まれたといわれる。

私は、広島カープが好きという ー ただそれだけの理由で、知り合いの一人もいない広島にふらりと行って4年ほどくらした過去があるが、当時でさえ、広島県民にとってカープは特別な存在であった。

まだ気の荒い、"仁義なきー" の登場人物そのままの様な人間がたくさんいた頃の広島で、例えば巨人軍の帽子をかぶって街を歩こうものなら、ただそれだけで目をつけてケンカをふっかける、広島にはそういう愛すべき土地柄がある。


まして戦争が終わったばかりの混乱期、人々の気はすさんでいた。
そんな頃、カープという球団がどれほどの熱気と共に生まれたか、想像する事はそれほど難しくない。




原爆の罪悪性について語ったが、そんな事を声高に言う広島県民にはあまり出くわさなかった。

彼らは過去は過去として割り切り、明るく逞しく、前に進む事しか考えていない。

どこかの国がいつまでも過去を持ち出し、誇大化し歪曲し、自国民に負の遺産を教育によって刷り込み、捻じ曲がった歴史観と卑屈な民族意識しか与えていない事と比べると、まったくもって見事な人達だと思う。

私が広島カープが好きになっていった理由はこういう所にある。

驚くべきことは、世界の弱小国、特に大国の近くでいつも泣き寝入りを強いられている様な国に広島カープファンがいるということであろう。

彼らにとってカープとは何かなどわかりはしない。野球すらよく知らないだろう。

だが、アメリカという超大国と果敢に戦い、コテンパンに打ちのめされてもなお這い上がった日本人、そして広島市民と広島カープ。
それは彼らにとって生きる勇気をくれるシンボルであるらしい。




日本で唯一の市民球団、広島東洋カープとはそういう球団である。
何よりも嬉しい事はその頃の性格を、組織としてこんにちなお、失っていない点であろう。


前田智徳10

2014-08-07 06:18:04 | 
そもそも何故広島カープだけが市民球団なのか?

このことを考えたことのあるプロ野球ファンがどれほどいるだろうか ー 。

それはあの "悲劇" の話をしなければわからない。




1945年8月6日、広島への原爆の投下である。

この事について、ここで書く事は主題を変えなければ収まりきらないほどのテーマとなってしまうから最低限にとどめざるを得ないが ー 、ハッキリと言っておかねばならない事は、米軍、いや米国によるこの行為は人類が生きていく限りにおいて、けして消える事のない "罪" であるということだ。

よく言われる事は原爆を投下した事によって米兵数百万の命がムダに消耗される事を防げた。
原爆が戦争を終わらせた ー というモノである。
だから、投下の下手人となったパイロットは今だにあの国では "英雄" である。

ところが、事実はまったく異なる。

アメリカは当時、日本が既に講和を模索していたことをしっており、天皇の地位さえ保証すればすぐにでも戦争をやめる用意があることをわかっていた。そして実際日本が戦争をやめる決断をしたのは原爆ではなく、ソビエトの対日参戦によってである。

はじめからトルーマンは米兵数百万を犠牲にするつもりなどなかったのだ。

ではなぜ原爆を落としたのか?

しかも広島と長崎、二つの爆弾は種類の異なるモノだった。

試したのである。
実験だったのだ。

実験でなければ、使い分ける理由などはない。広島型は十分に "成功" を納めたのだから。




その狙いは全て戦後の主導権争いで、ソ連よりも優位にたつ為という、それだけの為に ー 彼らは悲人道的な行為に踏み切り、悪魔に魂を売ったのである。

その証拠に、治療と称して現地入りした進駐軍の軍医達は被爆者の身体を切り刻み、あるいは本国に連れ帰り、"命" を冒涜しきった挙句、腹のくちた肉食獣の様に食い散らかしだけを残して、去った。

当時の "治療" を受けた被爆者は語る。

ー 私たちは実験体でしかなかった。
治療などしてもらってはいない。
最後は骨も返してくれなかった。


… もちろん、戦争じたいが非人道的行為であるから、彼らの非ばかりを責め立てるわけにもいくまい。

日本人も他国にずいぶん軍事的に圧力をかけたし、抜き難い恨みを買ったりもしている。
また、敗戦国とはそれほどに惨めなモノなんだ、と言われればそれまでかもしれない。

だが ー 原爆という兵器の内容は人間が人間に対して行える範囲をあまりにも逸脱している。




やはりそれは明確に "罪" であったと、そろそろ人類は共通の認識としなければならない。

そこからはじめなければ、世界の非核化などは狂人の妄言よりも現実味がない。