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思考の踏み込み

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前田智徳24

2014-08-20 00:22:53 | 
前田智徳の動きを丁寧に観察してみれば、その身体は右側で前方に捻じれる傾向があることが観てとれる。
それと多少力が上に移動し易い。




これは左打者としては有利だろう。
左方向に捻じれるという事は右肩が開きにくく、バットを最後までため易い。

だから前田の調子が崩れてくるときは、いつも右捻じれが緩み、右肩が開き出すときである。
それと重心が上に上がったとき。(アゴが上に上がり、上体が延びる。)

水谷打撃コーチはこの弱点をよく見抜いていて、上体が伸び上がるとすぐに指摘し、右肩が開き出すとレフト方向へひたすら打たせて修正させたという。

その観察眼は見事だが、実際は腰椎部が右捻れを取り戻す様に調整すれば一瞬で済む話でもある。

またこういう身体的特徴のある者たちの傾向として極端に負けず嫌いな性格があることがいわれている。
そして非常に頭が良いが、気血が上昇しやすく、思い描いた通りにならないとカッとなりやすい傾向がある。




体格はがっしりと四角形に近く、顎のエラは張り、意思の強さを表現している。

こうした観察と分類はD先生とその周辺では当たり前の様に行われている事であるが、一般の人々にはまだ浸透していない。

前田の天才性の内容を分析していくと、このような身体的傾向がうまく野球のバッティングという動作に適合していたことがわかるし、弱点となる要素も感覚的に見事に修正されてきた事が観て取れる。

特に注目すべきは、前田がボールをミートする直前、腰 ー 正確には仙椎部を細かく移動させている動きである。

この場所の僅かな移動で、身体の中心軸とミートポイントの位置関係を彼は瞬時に修正していたのではないか。
そして、それほどに内部の動きを軸にしていたからこそ、身体の内側から回転できるという前田独特の身体技法も成立している。




ちなみに仙椎部というのは不思議な処で、遺体を焼いていっても最後まで灰にならずに残るのがこの仙椎であるという。
医学的にも sacrum といってラテン語で "神聖な骨" という意味であるそうだ。




武術家などでも高度なレベルにある人達はここの部分に意識を置くといわれる。

妊娠した女性に一番初めに変化が現れるのもこの部位であるといわれ、火傷の急処でもあるという。
文字通り "神聖" で神秘的な身体部位であるといえよう。

前田智徳23

2014-08-19 06:09:21 | 
前田は天才じゃない。ひたすらに努力していた ー と言うが、努力なんて誰でもしている。
まして才能に恵まれない者たちが行う努力は、付与されていた者たちが行う努力よりも遥かに苦しいし、辛い。

初めからある程度付与された者たちには努力する事は楽しいだろう。

凡人達はなかなかこの、楽しいという所までいけない。
こうして努力の量に差が生まれ、能力における格差はより広がる。




我々凡人達は永久にこの格差をどうしようもないモノとして諦め、天才達の所業をただ "観て" 賞賛し、楽しみ、羨む側に居るしかないのだろうか ー 。

この辺りの事については「ブッダ」で長々と書いたのでここでは省略するが、以上の意味で言えば "努力出来ることは才能である。" という言葉は正しい。

だが "努力は人を裏切らない" という言葉の方は、実は怠慢の表れであることになかなか気付く者は少ない。

ただ量による努力だけを積み重ねて、何故これほど努力してるのに報われないのかー、なんて言うのは怠慢だというのである。

"質" を研究しないでやみくもに努力するだけなら誰でもできるからだ。

従って天才などいない、天才ほど努力している ー なんていうのは無能な指導者が自己の無能さを隠す為の精神論であるケースが多く、より効率的な努力の方法を血みどろになって考えなくて済む為の隠れ蓑でさえある。

実際天才と呼ばれる人達は、この "質" を余り気にしなくても努力の方向性が始めから、最短ルートを通っていただけというケースが多い。



たまたま結果に結びつきやすかったというだけのことだ。

それは "センスが良い" とか、"天職" とかいって表現されるが、偶然性の高いモノでもある。

本当の天才ならば、まったくセンスがないところからスタートしても、その最短ルートがどこにあるか見つけて能力を高めていけるハズではないだろうか?



たがその為に必要とされることは、各個人の身体の個性を、高いレベルで知るところから始めなければならない。


例えば自分の重心は何時もどちらに偏るのか、身体バランスの移動の方向性が得意なのはどの角度か?

上か、左右か、前後なのか、捻じる方向かー。

それによって右打席がよいか、左打席がよいかも変わる。

または動きの悪い場所はどこか、自由に動かない身体の弱点となる部位はどこか。それらの調子の波はどの程度のサイクルで高低を繰り返すのか…。


こうした事はあらゆるプロスポーツの選手であっても、はっきり言えば閑却されてきた範疇の事である

(ちなみに、異様に知能指数が高いという頭脳に限った天才達は、ある種の身体異常ではないかと思っている。物理学者などに識字障害の者が多い事は割と知られている。それは身体表現において天才性を表す者たちとは、別の性質の天才性と考えてここでは進める。)



前田智徳22

2014-08-18 06:13:56 | 
前田智徳は天才か?


その答えはすでに出ている。
世間一般でいうところの範疇において、前田智徳は間違いなく "天才" であろう。




すでに述べた選球眼、集中力に加えて、高い身体能力。
それが生み出す精密なバットコントロール。そして時間の圧縮を可能にするムダのない身体技法と、それを飽く事のない鍛錬でより洗練させていった "身体運動" における速度。

野球という競技における、打者という職業において、前田智徳は必要とされる全てを有している。

それはやはり "天才" だろう。
前田自身も語っている。

" これまで努力した事はない。普通通りの事をやっていただけ。コーチから新しい事を教わっても、すぐ出来た。神様から与えられた素質、天性だけで野球をやっていた。それが怪我で全て崩れ、訳が分からなくなってしまったー 。"




私は性格がひねくれているので、天才と呼ばれる人々を素直には評価できない。
天才と呼ばれた者たちが、その天才性によって現出してみせる "内容" は素直に素晴らしいと認めるが、だからといってその者たちを即人間として尊敬や憧れの対象にする事はない。


天才の本質とは何かー ?


それは天才性を付与されただけの凡人に過ぎない。

それはどういうことか。

凡人には天才達の "内容" をはかり知ることは普通困難である。
だがしかし、天才達でさえ自己に付与され、所有している天才性について解析し、説明できる者はほとんどいない。

その意味で天才も凡人も差はない。
私はそう考える。

ただ所有と非所有の違いがあるだけである。

真の天才ならば、自己が所有している天才性をどうしたら維持できて、なおかつどうすれば他者にも伝えられるか、全て識っていなければならない。

本来、天才達が住んでいる場所はどのジャンルであれ、感覚の世界であって言語化することが困難な世界である。



それをあえて言語化し、本質をとらまえて、普遍化する。
そこまでの作業をする事ができる人がいたら、その人物こそ "真の天才" だと言えると私は思う。

だがそういう人物は今だかつて私はD先生の師、N先生以外に知らない。

この観点からいけば、前田ですらただの "付与されただけの凡人" に過ぎない。

なぜなら前田が真に天才ならばケガをしたとしても再び元の "付与された状態" を再構築できなければならないからだ。もちろんそれは普通困難な事であるし、これは一般論ではない。
あくまで個人的意見である。



(私が前田智徳の "天才性" に関して魅力を感じるのは従って一般的なモノとは少し異なる。
前田が素晴らしいのは何よりもその "所有" しているという事に対する驕りが皆無なことである。



普通天才達は誰もが所有していることから来る "驕り" がある。それはその天才性が発揮する "内容" によって相殺されて世間は目をつぶるものだが、前田智徳ばかりは奢るどころか、より高みを追求する事に必死で "非所有" の凡人よりも遥かに謙虚で可憐な努力を積み重ね続けたのである。前田智徳の魅力はそこに尽きる。)







前田智徳21

2014-08-17 02:04:55 | 
そういう "場所" で生きていた前田にとっては世間が騒ぐ様な類の結果にはまるで興味がなかった。

98年シーズン終盤、首位打者争いのトップを走る横浜 鈴木尚典に前田は僅か二厘差で迫っていた。

迎えた横浜広島最終戦、前田は出場する事を拒否。



前田に打率を上げさせない為に、相手が敬遠策をとってくる事が予告されていたからだ。

前田は "ファンにみっともないものをみせたくない ー " と言い残し球場を去ったと言われるが、この辺り、熊本県大会で相手投手に食ってかかった頃の前田と何も変わっていなくて、前田ファンとしてはたまらない一幕であった。


思い出されることは前田が打った後によくみせた仕草である。

彼は打席でボールを打ち、一塁に走り出す前にしばしばバットの何処に当たったかをチェックする。

そんな事をしていたら際どいタイミングの場合、セーフになるものもならないかもしれない。

だが前田にとってそんなことはどうでもよいのである。
それよりも大切な事は自分が思った角度とポイントで、ボールを捌けたのかどうかー 。

打撃練習のとき、高校時代からすでに前田のバットにはボールの跡が一箇所しか残っていなかったといわれる。

けして本人は詳しくは語らないが、前田の精密な打撃理論から推測すると、彼は投手の投げたボールの回転とそれに対する打撃ポイントの移動によって、打球の質がまったく変わるということをずいぶんと追求していた形跡がある。

だからこそいつも必ずバットの何処に当たったかを真っ先に確認するのである。




何の為に?


ー 理想の打球を打つ為に。


理想の打球は?
と問われ、「ファウルなら打ったことがある。」と答えたエピソードは余りにも有名だが、前田は後日これはウソだったと否定している。

おそらくこのエピソードが一人歩きしてしまっている気恥ずかしさから、その事を打ち消したかったのではないだろうか。

前田にとって "理想の打球" とは質としてどんなものであるか、それは語られていないが、彼が時に ー 狂気を感じさせるほどに、執念を燃やして追求したモノがその一点に尽きるということは前田ファンならば誰もが知っている事であろう。

それはまるで "真理" を求めて嶮しい山岳へと分け入ってゆく修験者の様でもあるし、"剣" によって神と一つになる道を命懸けで模索したサムライのようでもある。

修行僧、サムライ、求道者…。

前田智徳にはいつもついて回ったフレーズであるが、彼をそこまでにさせた根本は何処にあるのか?

彼の求めた "理想" とはどんなものだったのか ー ?



いずれ前田本人が語ってくれる時がくるかもしれないが、やはり寡黙な男だから何も語らずに終わるかもしれない。




ー 引退後、彼は自分がプロ野球選手に向いていなかった事を語り (ファンサービスという点で、もしくはチームプレイという意味でも) 、叶うならば山奥で陶芸の様な仕事でもして暮らしたい、と言っていた。

榎本喜八が名球会入りすら拒否して、世間から姿を隠したように、前田もあるいはそういう道を選ぶのか。

指導者としてのカープへの復活も良いがそっちの方が前田らしいとも思ったりする。

前田智徳20

2014-08-16 10:28:54 | 
選球眼という点で同じ能力を高い次元で持っていたのが、よく前田と比較される榎本喜八であろう。




その選球眼に野村克也は背筋が寒くなったー 、とさえ語っている。

捕手というのは打者の僅かな動きや反応を見て、何を狙っているか、どんな球を待っているかを読み取るのだが、榎本喜八だけはピクリとも動かずにボールを見送り、なにも読み取らせてはくれなかったという。

(榎本は打撃不振に陥るとベンチで座禅を組み出して、周囲を驚かせたという男である。求道者という意味では前田の先駆者的な存在であり、変物という点でも前田のはるか上をいく選手だった。彼もまた引退の二年前、"オリオンズの榎本はもう死んだー。" という発言を残している。)


ともかく、選球眼という点で前田も榎本と同じ次元にいた。

だがこの辺りの世界までくると、それはもはや選球 "眼" などという動体視力の問題を超越している。

そうした感覚をイチローは "選球体" という言葉で表現しているが、見事な感覚といえよう。

分散的な身体各部の働きだけで処理できる次元ではないということである。
全身で反応しなければとてもではないが、イチローやジーターや前田榎本の様な "選球体" は掴めない。

それは例えば "動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し ー " というような世界であり、天才と呼ばれた者たちだけがわかる感覚の世界であろう。




そしてその感覚を顕在化させるために必要となるのが、強烈な集中力であるが、この事は 「王貞治」というタイトルで既に投稿してあるので省く。

だが王が対戦相手に恐怖すら抱かせたほどの集中力を持っていた事と同じ次元で、前田智徳の集中力もまた尋常なものではなかった事は間違いがない。

王や前田ほどの次元における極端に密度の高い集中力は、やはり観る者を魅了し、引き込む力を有しているし、対戦相手でさえその集中力につられて実力以上の力を発揮するものである。

そして前田智徳という男は、その相手の限界を超えて投げて来た最高の一球を完膚なきまでに打ち返すのである。

これを天才と呼ばずに誰を天才と呼ぶのか ー 。

だからこそ逆に前田はなんでもないど真ん中の球を平然と見送る。

ー あるとき若手投手が初級から前田に対してど真ん中に平凡なストレートを投げて来た。

"オレはなめられたー "

そう感じた前田は一球も振ることなく、三球見逃し三振でベンチに帰る。




どうしたのか ー ?
周囲は問う。


「あんなの投手じゃない。バットを振る気にならん。」


対戦相手の限界すら超える力を引き出す程の集中力でもって打席に臨み、命懸けの真剣勝負をしている前田にとって、無造作にそういう球を自分に対して投げてくる、そういう相手の無神経さも未熟さもたまらなく嫌であっただろう。

それはやはり前田が生きている "場所" では "あんなの投手じゃない" という感覚なのだと思う。