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思考の踏み込み

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蟲師 続章8

2014-04-16 00:46:16 | 日記
もうひとつ名作「旅をする沼」



水害を鎮めるため水神への生贄にされた少女イオは激流に呑み込まれる中、旅をする "沼" に取り込まれることで救われる。

「…泳いでいたの … 増水して荒れ狂う 川の底
わたしは 流れに飲み込まれ 浮き上がることも出来ずにいた」

「そこへ ー 」

「緑色の巨大なものが ー
激流の底を悠然と 遡ってきた ー 」



「…わたしは…恐ろしいと思ったことはないわ…
初めて見た姿が… あまりに 力強くて
神々しかったから… 」

「多分 わたしはもう 一度死んでいるの」



「わたし この沼の一部になるの」

「…ばかな ー それが どういうことだかわかってんのか」

「でもこの沼が ー 」
「生きていていいと… 言ってくれた ー 」



「お前 ー 生きていたかったんだろう… ?」


ギンコは何とかイオを救おうと友人の化野 (アダシノ) に協力を要請する。

化野はしかし問いかける。

「何故そうまでして助けたい?
娘が何としても生きたいと言っていたならわかる ー 」
「だが 娘はもう沼の一部になることを望んでいたんだろう…?
その方が本人にとっては幸せっ… て事情もこの世にはある」
「酷なようだがな」



続く…

蟲師 続章7

2014-04-15 08:02:17 | 日記
一番好きな話のひとつ、「露を吸う群」。



寄生した動物の時間を同調させるという蟲に憑かれたアコヤ。
その蟲は一日で死に、子を生んではまた死ぬ。
彼女はその蟲の寿命そのままに毎日生死を繰り返す。

幸いギンコによって治療されるがなぜかアコヤの表情は晴れない。



「… なんだか 不安でたまらないの」

「…生き神だった頃は 陽がくれて 衰えはじめて 眠りにつく時 ー いつも
とても満たされた気持ちで目を閉じられたのに 今は…恐ろしいの」

「ただ昨日までの現実の続きが待ってる ー 目の前に広がる あてどない
膨大な時間に 足が竦む …」



ギンコはそれは蟲の時間で生きてたからだ ー と諭す。

「そう ー それでかな…」



「一日一日 一刻一刻が
息を飲むほど新しくて 何かを ー
考えようとしても 追いつかないくらい ー 」



「いつも こころの中がいっぱいだったの … 」





このあたりの描写ばかりはアニメーションの本領であろう。

原作を超える成果を挙げた美しいシーンである。





蟲師 続章6

2014-04-14 07:18:19 | 日記
「蟲師」の魅力の重要なものに作者の "ことば" の感覚のセンスの良さがある。

例えば "風巻 (シマキ) "や "ムグラ" 、颪 (オロシ) 、カイロギ、ウロ、、産土 (ウブスナ) 、薬袋 (ミナイ) 、イサザやスグロ、クマドなど。

これらは蟲の名前に使われたり、登場人物の名になっていたりするが、どこか万葉的な香りや山窩 (サンカ) と呼ばれた人々、またはマタギやワタリといった山で特殊な生業を行っていた者たちのの言葉の影響を匂わせる。



もちろんアイヌ的な言語も源流にあるし、言霊という範疇まで意識されているだろう。
( 蟲師の世界観にあっては "山" は特別な位置付けをなされているように思う。やはりそれは強い生命力の顕れというか凝った場所という意味で、象徴的な事象としてである。)




それはきわめて純日本語に近いもので、「蟲師」の時代設定が江戸と明治の間とかいった架空の時代であることも含めて文化的世界への作者の感覚の非凡さを感じさせる。

そして台詞回しの巧みさも見事である。伝えきれる筈もないが、一部紹介してみよう。



「沖つ宮」にて "生きた時間を喰う蟲" に飲み込まれかけたギンコ ー




「…このまま こいつに喰われれば
俺も 胚にまで 戻してくれるんだろうかー」

「全てが始まる その前まで ー」

「ああ… そりゃあ」
「たいそう悪い 冗談だ ー 」





「眇の魚」で常闇 (トコヤミ) に飲まれるヌイ。



「お前の目玉がこちらを見ると まるで陽のあたるように温かだ」

「あの仄暗い 池の傍で それがどんなに なつかしかったか……」

「…さあ この先は片目を閉じてお行き」

「ひとつは 銀蠱にくれてやれ トコヤミから抜け出すために」



「だがもうひとつは 固く閉じろ
また陽の光を 見るために ー 」


このセリフからふとゲーテの詩が思い起こされた。


" ー もしもこの目が太陽でなかったならば 決して太陽をみることは できないだろう
ー 我らの中に神の力が宿らなかったならば 聖なるものが なぜに心を惹きつけようか "

ゲーテ「穏和な風刺詩」

蟲師 続章5

2014-04-13 10:31:41 | 日記
こうしたことは物理学が支配的過ぎる故なのだろうと思う。

物理の世界など全宇宙のごく一部を説明するものでしかないことを認めねば、知的探求という本来の意味での科学的思考には戻れない。

「蟲師」第七巻 "棘 (オドロ) の道" で蟲師クマドが世界の本当の姿を見るという場面がある。



我々が視ている世界などはしょせん視覚というごく限られた世界での出来事でしかなく、光は広大な波長の電磁波の中の極めて狭い一部の可視光のことであるし、人間が聞ける範囲の音などもほんの一部の周波数でしかない。

そうした限られた世界に生きている我々が、その外の世界はどうなっているのだろうかと想像することは、本当の意味で世界はどうやってなりたっているのか ー を知ることに近づくことにもなるし、何よりもそれは極めて楽しい思考の遊びでもある。

例えば "音" の世界の本質を描きだそうとしている「柔らかい角」という雪景の美しい話がある。



または未来と宿命、手の届かない "決められたこと" をテーマに "視る" ということの喜びと悲しみを描いた「眼福眼禍」



夢と現実の狭間、意識と無意識の関連性の問題を考えさせられる「枕小路」など、蟲師の世界観には常に思考を刺激させられる。



また人間の眠りと記憶、そして忘れるということ。脳の持つセーフティー機構とその悲哀。「暁の蛇」は全作通しても見事な一話である。



"見る" や "聞く" とか "話す" や "眠る" とかいったごく日常的で普通の事を、一度事象の本質まで分解して再構築することで、当たり前だと思っている事柄の実相が浮かび上がってくることがある。

"思考の踏み込み" において常に行っている作業はまさにそれであるし、毎回テーマは違ってもやっていることも求めているモノも実はいつも同じことなのである。

その意味で「蟲師」はいつも新鮮な刺激をもらえるから好きだし、実際蟲師の内容から端を発して投稿したテーマもある。







蟲師 続章4

2014-04-13 10:29:33 | 日記

"蟲" という。

ー それは "いのちそのもの" に近いモノ達だ。と原作にある。




例えば霊や物の怪、妖怪もしくは魂や神々 ー 。
これらは質としてどう分別していけばよいのか?

人間の創造力の産物に過ぎないもの、恐怖や不安が踏み出した架空の存在、
一部の霊感の強い者が視たと語ったモノたち、不可解で説明のしようがないところから生まれた現象の抽象化されたもの (カマイタチのように今日では一定の理論的解釈が可能な現象もある。)

これらは架空のモノといって間違いないモノが多い。

だが、その範疇に含めるにはどうしても説明のつかない、現実世界で実際に影響を残しているモノ達がいる。

それは "実在" しているモノであると、考える方が自然ではないだろうか?

ここで科学を信仰する信者達なら、科学的に証明できない事象は全て人間の空想の産物、幻覚だと、言い張るだろう。



「蟲師」第三巻 "眇 (スガメ) の魚" はこの辺りの事を考えさせてくれる好きな話である。



子ども時代のギンコがヌイという女性蟲師に問う。

「ー あれらは…幻じゃないん…だよね」

「… 我々と同じように存在してるとも
幻だとも言えない」
「ただ 影響は及ぼしてくる」

「…」「俺らとはまったく違うものなの?」

「在り方は違うが 断絶された存在ではない」
「我々の "命" の 別の形だ」



そしてその存在に怯えるヨキ(ギンコ)にヌイは語る。

「…… 畏れや 怒りに 目を眩まされるな」
「皆 ただそれぞれが あるようにあるだけ ー 」




人は理解しきれない事柄に出くわすと反射的に恐怖を抱く。

科学は本来そこから発している。
恐怖の克服のために、世界を理解するために、生まれたものである。

ところがある時期 (19世紀頃) を境に科学はこの世の大方のことを理解したと勘違いしはじめた。

このころから科学は宗教になってゆく。

だが皮肉な事に科学を信仰するもの程、不可解なことに対峙すると、ヌイのいう畏れや恐怖に目を眩まされ、非科学という世界に追いやることで安易で偽りの安心を得ようとする。

それは科学本来の態度とは異なるものである。
現代科学ほど実は非科学的であり、宗教的だとさえいうアンチテーゼは、この意味でけして大袈裟な表現ではないだろう。