死にもせぬ旅寝の果てよ秋の暮 芭蕉
貞亨1(1684年9月下旬)、四一歳の芭蕉は『野ざらし紀行』の旅の途次、美濃の谷木因らを訪問して長期滞在している。
『野ざらし紀行』の本文では、
大垣に泊りける夜は、木因が家をあるじとす。武蔵野を出づる時、野ざらしを心におもひて旅立ければ、
しにもせぬ旅寝の果よ秋の暮
とある。不慮の死というのも念頭にあっただろうが、〈野ざらしを心に風のしむ身かな〉もそうだが、少し大仰で大袈裟な表現は芭蕉の特色だ。
「死にもせぬ」は木因に対しての挨拶か、自嘲の独白か。いやそうでなく、「旅寝」を重ねた末にやっと大垣にたどり着いたことで芭蕉は心の区切り、俳諧に新たな境地を拓くきっかけになった。「旅寝の果てよ」がその心境をあらわしているとみてよい。ちなみに、山本健吉によれば、「この句を境としての旅中の句は、それ以前は悽愴(せいそう)の調べが強く、以後は風狂の傾向が強い」(芭蕉全発句)と述べているが参考になるだろう。
木因は正保3年生れ、大垣の船問屋を生業にしていた。季吟門であった関係から以前より芭蕉と親交があった。後に談林風にうつり、芭蕉の感化をうけて蕉門にはいった。また芭蕉と木因は以前から手紙をやりとりしていたが、そんななかで、おもしろいエピソードあるので紹介したい。
1682(天和2)年,木因の所へ芭蕉から手紙が届いた。この書簡は、芭蕉から木因に宛てた『鳶の評論』として知られるものであるが、芭蕉は、附け句に同字・同物の鳶を入れたが、これは連句としては禁則である。それを作者を隠してわざと木因に意見を求めているのである。これは木因の力をためそうと難しい句の意味を尋ねるものであったが、木因はみごとなこたえを返したので芭蕉はすっかり感心したという。これをきっかけとして木因と芭蕉の交流がはじまり、また木因の働きもあって武士や町人の文化が栄えていた大垣の俳諧はますます盛んになったという。
貞亨1(1684年9月下旬)、四一歳の芭蕉は『野ざらし紀行』の旅の途次、美濃の谷木因らを訪問して長期滞在している。
『野ざらし紀行』の本文では、
大垣に泊りける夜は、木因が家をあるじとす。武蔵野を出づる時、野ざらしを心におもひて旅立ければ、
しにもせぬ旅寝の果よ秋の暮
とある。不慮の死というのも念頭にあっただろうが、〈野ざらしを心に風のしむ身かな〉もそうだが、少し大仰で大袈裟な表現は芭蕉の特色だ。
「死にもせぬ」は木因に対しての挨拶か、自嘲の独白か。いやそうでなく、「旅寝」を重ねた末にやっと大垣にたどり着いたことで芭蕉は心の区切り、俳諧に新たな境地を拓くきっかけになった。「旅寝の果てよ」がその心境をあらわしているとみてよい。ちなみに、山本健吉によれば、「この句を境としての旅中の句は、それ以前は悽愴(せいそう)の調べが強く、以後は風狂の傾向が強い」(芭蕉全発句)と述べているが参考になるだろう。
木因は正保3年生れ、大垣の船問屋を生業にしていた。季吟門であった関係から以前より芭蕉と親交があった。後に談林風にうつり、芭蕉の感化をうけて蕉門にはいった。また芭蕉と木因は以前から手紙をやりとりしていたが、そんななかで、おもしろいエピソードあるので紹介したい。
1682(天和2)年,木因の所へ芭蕉から手紙が届いた。この書簡は、芭蕉から木因に宛てた『鳶の評論』として知られるものであるが、芭蕉は、附け句に同字・同物の鳶を入れたが、これは連句としては禁則である。それを作者を隠してわざと木因に意見を求めているのである。これは木因の力をためそうと難しい句の意味を尋ねるものであったが、木因はみごとなこたえを返したので芭蕉はすっかり感心したという。これをきっかけとして木因と芭蕉の交流がはじまり、また木因の働きもあって武士や町人の文化が栄えていた大垣の俳諧はますます盛んになったという。
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