透水の 『俳句ワールド』

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芭蕉の発句アラカルト(6) 高橋透水

2021年06月12日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史
発句なり松尾桃青宿の春  桃青

 延宝七年(1679)、芭蕉三十六歳の歳旦句。前年に俳諧宗匠として立机していて、「桃青」という看板を下げて初めて迎えた新春だ。当時としてははや中年であるが、意気すこぶる軒昂である。曲がりなりにも一戸・一門を構えたという自信があってのことか。
 これは知足の筆録によって延宝七年の歳旦吟ということだが、脇・第三は残っていない。宿とあるが自分の家、自宅のこと。ただし今でいう持ち家という意味でない。
 すでに三十四歳のとき芭蕉は職業的な俳諧師になっている。この年、もしくは前年の春に俳諧宗匠として立机、つまりプロの俳諧師になっていて、立机披露の万句興行を催している。翌年、京都から江戸に来ていた信徳、江戸の信章との三吟百韻を『桃青三百韻 付両吟二百韻』と題して刊行する。
 川口竹人の『芭蕉翁全傳』宝暦12年(1762)によれば芭蕉は、「薙髪して風羅坊とも號し、又禾々軒桃青とも呼ふ。江戸の杉風といふ者(後衰杖)此翁を師として仕へて、小田原町に住しめ、後は深川に庵を結ふ。」とある。このことからも芭蕉は日本橋小田原町の小沢太郎兵衛(卜尺)宅に店子として住んでいたことがわかる。
 ところで延宝六年に、神田の蝶々子亭に招かれたときの四吟歌仙がある。
  実(げに)や月間口千金の通り町 桃青
  爰に数ならぬ看板の露 双葉子
 以下略すが、これは『江戸通り町』に収録されたものである。通り町とは室町・日本橋・京橋など江戸の最も賑やかな目抜き通りで、とくに日本橋あたりは「間口千金」と言われるくらい地価の高いところである。なお双葉子は蝶々子息である。
 そんな賑やかな環境であったが桃青の生活はまだまだ安定せず、杉風などに頼っていた。それでも自分にあるのは「発句なり」と自負し、冷静に世間を眺めつつ宗匠になった喜びと自負を世間に向け詠ったとみてよいだろう。


  俳誌『鷗座』2021年6月号より転載

芭蕉の発句アラカルト(6) 高橋透水

2021年06月12日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史
発句なり松尾桃青宿の春  桃青

 延宝七年(1679)、芭蕉三十六歳の歳旦句。前年に俳諧宗匠として立机していて、「桃青」という看板を下げて初めて迎えた新春だ。当時としてははや中年であるが、意気すこぶる軒昂である。曲がりなりにも一戸・一門を構えたという自信があってのことか。
 これは知足の筆録によって延宝七年の歳旦吟ということだが、脇・第三は残っていない。宿とあるが自分の家、自宅のこと。ただし今でいう持ち家という意味でない。
 すでに三十四歳のとき芭蕉は職業的な俳諧師になっている。この年、もしくは前年の春に俳諧宗匠として立机、つまりプロの俳諧師になっていて、立机披露の万句興行を催している。翌年、京都から江戸に来ていた信徳、江戸の信章との三吟百韻を『桃青三百韻 付両吟二百韻』と題して刊行する。
 川口竹人の『芭蕉翁全傳』宝暦12年(1762)によれば芭蕉は、「薙髪して風羅坊とも號し、又禾々軒桃青とも呼ふ。江戸の杉風といふ者(後衰杖)此翁を師として仕へて、小田原町に住しめ、後は深川に庵を結ふ。」とある。このことからも芭蕉は日本橋小田原町の小沢太郎兵衛(卜尺)宅に店子として住んでいたことがわかる。
 ところで延宝六年に、神田の蝶々子亭に招かれたときの四吟歌仙がある。
  実(げに)や月間口千金の通り町 桃青
爰に数ならぬ看板の露 双葉子
 以下略すが、これは『江戸通り町』に収録されたものである。通り町とは室町・日本橋・京橋など江戸の最も賑やかな目抜き通りで、とくに日本橋あたりは「間口千金」と言われるくらい地価の高いところである。なお双葉子は蝶々子息である。
 そんな賑やかな環境であったが桃青の生活はまだまだ安定せず、杉風などに頼っていた。それでも自分にあるのは「発句なり」と自負し、冷静に世間を眺めつつ宗匠になった喜びと自負を世間に向け詠ったとみてよいだろう。

 俳誌『鷗座』2021年6月号より転載


三橋敏雄の一句鑑賞

2021年06月06日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史

●一句二人散歩  高橋透水

戦争にたかる無数の蠅しづか 敏雄


 敏雄は一九四三年、招集を受け横須賀海兵団に入団するが、船乗りの経験から戦後は運輸省所属の練習船事務長として日本丸、海王丸などに勤務した。しかし一貫して戦争に対する嫌悪感は持ち続けた。〈戦争と畳の上の団扇かな〉や〈あやまちはくりかへします秋の暮〉などの代表作はあるが、鑑賞句はより戦争の本質を語っていないだろうか。
この句の蠅は何と「戦争」に集っている。その数えきれないほどの蠅が音も立てずに静かになにかを待っている。無気味な静謐。この静謐を装っている蠅こそ狡猾で危険一杯な生き物なのだ。戦争を潜り抜けた敏雄は直感的に戦争への危機を感じたのだろう。軍需産業を後ろ盾にした政治家だけでなく、欺瞞的な宗教家だっている。そしてなによりも戦争を仕掛ける武器商人だ。敏雄は戦場の死体に集る蠅の姿と、平和主義を唱えながら戦争の勃発を静かに待つ政治家や暗黒を舐めて豊満になる武器商人の姿と重ねたのである。

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★三橋敏雄の文を紹介します★
「戦争は憎むべきもの、反対すべきものに決まってますけれど、<あやまちはくりかへします秋の暮>じゃないけれど、何年かたって被害をこうむった過去の体験者がいなくなれば、また始まりますね。昭和のまちがった戦争の記憶が世間的に近ごろめっきり風化してしまった観がありますが、少なくとも体験者としては生きているうちに、戦争体験の真実の一端なりとせめて俳句に残しておきたい。単に戦争反対という言い方じゃなくて、ずしりと来るような戦争俳句をね。『証言・昭和の俳句 下』(聞き手・黒田杏子/角川書店)」

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