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山口誓子の一句鑑賞(1) 高橋透水

2017年11月16日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史
流氷や宗谷の門波荒れやまず  誓子

 大正十五年作、句集『凍港』に所収。誓子は家庭的な事情から十二歳の時、母方の祖父に引き取られて四年半ほど樺太に住んだ。父母や妹達とも別れて、悲しく辛い思いを酷寒の地で克服してゆかねばならなかった。
 誓子は明治三十四年十一月三日、京都市上京区岡崎町(現在は左京区)の生まれで、本名は新比古(最初の戸籍では新彦であったが後に改名)という。父新助、母岑子の長男。三人の妹がいるが、末子に新橋の芸者になったホトトギス系の俳人で下田実花がいる。
 明治四十四年、誓子は母を失った。夫婦仲がうまくいってなかったことや日ごろの苦悩が原因で、母は短刀で首を衝くという衝撃的な死にかたをした。明治四十五年、前年に渡航した外祖父の脇田嘉一に迎えられて樺太に移住した。嘉一は「樺太日日新聞」の社長で、俳句を嗜み、俳号を氷山と名乗った。誓子はそこの大泊中学の寄宿舎に入り勉学に励んだ。脇田夫妻の保護と愛情を受けつつ、誓子は樺太という厳しい環境のもとで成長し、その後の人間形成の基礎ができたのである。
 十七歳の時に京都に帰り、再び外祖父の世話になった。三校京大俳句会に入会し、日野草城や鈴鹿野風呂などと相識ることになる。
 さて、鑑賞句であるが、誓子が樺太の大泊中から京都の一中へ転校する帰途の光景を詠った回想句である。「門波」は海峡に立つ波のことで、『万葉集』に用例が見られる。
 誓子の『自選自解句集』をみると、「流氷の季節に宗谷海峡を渡ったのだ。船窓から見ると海峡は白々としていた。流氷群が海峡を東から西へ移動していたのだ。船は流氷群を通り抜けようとするから、流氷は船腹にぶつかって、ガリガリ音を立てた」とある。誓子自身はこの句からは船の姿がないというが、その分門波の荒れ模様が強調される形になった。〈凍港や旧露の街はありとのみ〉〈郭公や韃靼の日の没るなべに〉などとともに、句集『凍港』は荒涼とした樺太で過ごした少年時代の生活を、句として纏めたのである。


  俳誌『鴎座』2017年11月号 より転載
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