透水の 『俳句ワールド』

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芭蕉の発句アラカルト(8) 高橋透水

2021年08月28日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史
柴の戸に茶を木の葉搔くあらしかな  桃青

 『続深川集』に収録。前書きに、「九年の春秋、市中に住み侘びて、居を深川のほとりに移す。『長安は古来名利の地、空手にして金なきものは行路難し』と言ひけむ人の賢く覚えはべるは、この身の乏しきゆゑにや。」とある通り、延宝八年、芭蕉(当時は桃青)は深川に移住している。
 またこの句は、『芭蕉翁真蹟拾遺』では、
  冬月江上に居を移して寒を侘
  ぶる茅舍の三句 其の一
  草の戸に茶を木の葉掻く嵐哉
とある。ものの本に、「文芸の世界も金と名誉欲の渦巻く俗世界の江戸市中の生活を捨ててここ深川の草庵に隠棲することを決めた」とあるが、しかし好んで移住したとはいえ、それまでの生活との落差は大きい。芭蕉にとって詫び住まいの生活は自然に溶け込み自然の恵みを素直にうけることだ。
 この句にたいする一般的な解釈は、「柴の戸に冬の激しい風が吹きつけ、落ちたまった茶の古葉がしきりに舞い立っているが、この嵐は、茶を煮る料として茶の古葉を掻きたて、掃きたてて柴の戸に吹き寄せている感じがする」である。また山本健吉は『芭蕉全発句』のなかで、「「木の葉掻く」は散り敷いた木の葉を熊手で搔き集めることで、嵐が吹いて、柴の戸に茶の木の古葉を吹きつける、まるで木の葉を掻き寄せるように、という意」と解説している。
 確かにそうした解釈は間違いでなく芭蕉の心象の一面を表しているが、一読してすぐに理解できる句ではない。時代背景や深川での生活から憶測し解釈するしかない。それに新しい俳諧精神を求め、深川へ移住したというがまだまだ談林の匂いは消えていない。
 果たして深川移転は日本橋の生活に嫌気がさした俳諧改革の動機のみだったのか。もっと別な要因があったのではないかと考えざるを得ないのである。芝の戸というといかにも素朴な草庵というイメージがあるが、実際の生活は想像以上に充足していたのではなかろうか。

芭蕉の発句アラカルト(7)  高橋透水

2021年08月06日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史
枯枝に烏のとまりたるや秋の暮  芭蕉

 延宝八年、芭蕉三十七歳のときの作とされているが、なかなか興味深い句である。これは嘱目吟であろうか、作句場所はどこか、烏は一羽なのか複数なのか。「秋の暮」は文字通り秋の暮なのか、それとも晩秋の意か。はたまた「枯枝」と「秋の暮」などは季重なりで、その上字余りは問題ないのかなどである。古来から議論がたえない一句である。
 一方でこの句は談林俳諧から脱し、蕉風俳諧への転換期へ移行する作品の一つとして評価されている。そんな芭蕉の心境を感じさせるのは、生活の変化を望み、その年の暮に深川に移り住んだことからも想像できる。
 句作の場所は、転居前のおそらく神田川上水の治水任務で訪ねた早稲田、いまの関口芭蕉庵近くの風景と思うが、確証はない。
 『曠野』には〈かれ朶に烏のとまりけり秋の暮〉で収められたが、『東日記』には「枯枝に烏のとまりたるや秋の暮」で載り、これが初案とされる。初案は大幅な字余りであるが、たどたどしいなかに一層の素朴な侘しさがにじみ出ているように思う。
 山本健吉は『芭蕉全発句』(講談社学術文庫)で「水墨画などの画題にいう「枯木寒鴉」ということを、十七音芸術に言い取ったもの。「枯木寒鴉」の翻案なら、この「枯木」は、晩秋の葉のおちつくした枝で、枯死した木の枝ではあるまい」、さらに改案の句は「ただごとに近いものたりなさがある」と述べている。
 ところでこの句の芭蕉俳画が何枚か伝わっており、「枯枝にからすのとまりたるや秋の暮」には複数羽、「かれえだにからすのとまりけり秋のくれ」には一羽の鴉が描かれている。どうも一羽のほうが芭蕉の孤高を象徴しているようだ。そして「烏のとまりけり」は
「とまりたるや」の初案に対し、驚きの感情が和らぎ、淡々と季節の移ろいを受け入れる様が際だつ。鴉と枯枝の取合せなど現代からみればあまりにも付き過ぎの感を受けるが、陳腐な水墨画的枯淡を題材にしたとしても、なお芭蕉の侘しい深層の心が伝わってくる。