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芭蕉の心的世界       高橋透水

2014年02月04日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史

おくのほそ道』 序章  「そヾろ神」について

『おくのほそ道』の序文にあたる「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也・・・」は、一般に芭蕉の人生観、宇宙観、自然観、死生観、宗教観等、芭蕉の思想・哲学が集約されていると考えられている。
「古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず・・・」にある、「片雲の風にさそはれ」は異界・他界の世界への旅でもある。
では、「・・、そヾろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神のまねきにあひて取るもの手につかず、云々」の【そヾろ神】とはどんな神なのだろう。

 以下、深澤忠孝(備考あり)の文を参照にして見てゆきたい。
 「そヾろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神のまねきにあひて」云々にシャーマニステックな心理状態が 考えられるが、芭蕉は「そヾろ神」に憑かれ、「道祖神」に招かれて、その(悠久の)世界に旅立ち、旅の 日々を過ごすことを望んだのだろう。
 「そヾろ神」は、岩波古典体系本頭注に「人の心をそぞろかす?一種の俗神、またはあるき神」とある。
 この神は本例(おくのほそ道)以外に用例がなく、芭蕉の創造した神であろう。「そヾろ」は「すヾろ」の 転化形である。「そヾろ神」は芭蕉にとっては漂泊をそそのかすだけでなく、漂泊そのものを支え、創造へ 向かわせる「内なる神」である。これは道の神である「道祖神」と対置される。
  この背景には、『義経記』巻五の末に、義経が吉野山逃亡中、道祖神を葛城山・吉野山の仏、山の神と対 等に扱う場面がある。義経の神格の高さ、信仰の篤さが思われる。義経を敬愛した芭蕉にも同じことが言え ることである。
 以上より、深沢氏は『おくのほそ道』にいう「そヾろ神」は、芭蕉の創造した神で「内なる神」と定義している。

 ここで「うちなる神」の形成に重要な点は、芭蕉の生育に関わる故郷の環境であろう。芭蕉の幼少時代は不明な点が多いが、年譜によると、明暦二(一六五六)年、芭蕉十三歳。二月二十八日、父没す。愛染院に葬る。享年不詳、とある。
 この愛染院という寺名がなんらかのヒントにならないだろうか。これも深澤氏の説になるが、この寺は修験者が崇拝対象とした愛染明王本尊とする真言宗の寺で、正しくは通光山願成寺という。芭蕉は、修験に深くかかわる真言儀礼の中で育ったと考えてよいだろう。
 また伊賀は伊勢に密接であり、そこは「道祖神」に繋がる天之宇受売・猿田毘古信仰の強い土地であった。このことも、芭蕉の心的形成に影響のあったことは充分考えられる。

 さて、おくのほそ道という、芭蕉にとって未知の東北への出立にあたり、「住める方は人にゆづり、杉風の別墅に移るに、〈草の戸も住みかはる代ぞひなの家〉など、面八句を庵の柱にかけおいた。」と記されている。
 芭蕉はこの句に己と一般庶民、すなわち、わび住いの草の戸と平凡な市井の雛の家、わびしさとはなやかさ、ひいては漂泊と安住の身を対象として表現した。そして虚の世界(死から再生への体験)へと芭蕉は旅立ったのである。
 『おくのほそ道』の序章には様々は芭蕉の知的概念が詰め込まれている。その一つ「そヾろ神」は、旅の動機付けを表わすのに便宜至極な道具(言葉)であった。

 ★(備考)
深澤忠孝  
 昭和九年、福島県生れ。早大一文(国文学)卒。詩と評論等の著書あり。
 俳句も手掛ける。
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