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芭蕉の発句アラカルト(19) 高橋透水

2023年07月05日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史
芋洗ふ女西行ならば歌よまむ  芭蕉

 『野ざらし紀行』の芭蕉の旅はいよいよ伊勢路にはいった。紀行文は、「松葉屋風瀑が伊勢に有けるを尋音信(たづねおとづれ)て、十日計足をとヾむ。」とあり、夕に下宮に詣でている。さらに紀行文をみてみると、
  暮て外宮(げくう)に詣で侍りけるに、一の鳥居の陰ほのくらく、御燈処々に見えて、「また上もなき峯の松風」身にしむ計(ばかり)、ふかき心を起して、
   みそか月なし千とせの杉を抱く嵐
につづいて、
 西行谷の麓に流あり。をんなどもの芋をあらふを見るに、
   芋洗ふ女西行ならば歌よまむ
 とある。これは西行谷にて西行と遊女の歌を意識しての句であることは容易に理解できる。この江口の里での西行と遊女の掛け合いは有名であるが、つぎのような噺であった。
 往昔、西行は、天王寺詣での途次俄に雨のふりければ、江口の里の遊女に一夜の宿を所望したところ貸し侍らざりければ、よみ侍ける。「世の中を厭ふまでこそ難からめ仮の宿りを惜しむきみかな」という歌を詠んだところ、この遊女はすかさず「世を厭ふ人とし聞けば仮の宿に心とむなと思ふばかりぞ」と詠み返してきた。(謡曲集『江口』)
 まさしく「芋洗ふ」は謡曲「江口」のエピソードを踏まえたとされる一句であり、敬愛する西行への挨拶句でもあることは明らかだ。
 つまり句意は、「西行法師なら川で芋を洗う女達を見たら歌を詠んで語りかけたことであろう、また自分が西行ならば女達は歌を詠んで返してくれたであろうに」くらいだろうか。西行谷は西行が晩年、庵を結んだと言われる地。「二見」と「宇治」の二ヶ所説があるが、ここでは芭蕉が訪れたのは「宇治」。神路山の南の谷である。
 ところで「歌よまむ」は誰を指すかで解釈が異なる。芭蕉は自分が西行だったら歌を詠んだろうとするか、芋洗う光景をみているのが西行だったら女たちは返歌を詠んだろうにとするかだが、後者が自然のようである。