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富沢赤黄男の一句鑑賞(12)  高橋透水

2020年06月11日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史
  偶然の 蝙蝠傘が 倒れてゐる 赤黄男

 句集『黙示』(昭和三十六年・俳句評論社)に収録。初出は『薔薇』(昭和二十九年二月号)である。
 「偶然に」でなく「偶然の」であるという存在の不安。戦後この時期になっても赤黄男に生活不安と精神不安はなくなってはいない。そうした日常的な根強い不安のほかに、外因的な傷害に悩まされた。内的な必然でなく、外的な偶然ゆえの不安や恐怖ほど大きい。
 だがその恐怖は赤黄男には必然だったとは認め難い。押し込まれてくるものを押し返す精神力がなく、ゆえに直接の意識として表出せず沈静化している。唯一の手段は俳句という詩であった。
「神は死んだ」とニーチェはいった。神がいないことで、人類は新たな不安や恐怖を抱え込んだ。
 すべての必然が偶然となったのである。己がいまこの世いるのも偶然、ここを歩いているのも偶然。病気も死も偶然である。
 神がいるときは己の不幸を神に祈り、罪わ贖罪すれば救われたような気になれた。神がいれば「蝙蝠傘が倒れる」ことも神の計画のなかにあったのだ。
 己が置かれた環境も神の思召すまま、宇宙の運営のなかに必然的におかれたのだ。この環境を何とかしたい。脱出したい、祈りを捧げて楽になりたい。だから神に祈ればよかった。ところが神のいない世界に投げ出された。人間が人間を見つめる世界がやってきた。
 赤黄男自身「鏡にうつったわたしは、必然であらうか。偶然であらうか」(モザイック詩論)とあるが、赤黄男もそんな世界を生き抜かねばならなかった。
 偶然に投げ出された傘の存在、本来の雨を避ける目的である傘から、人間の意図した目的から外れ倒れている。この虚無の世界は赤黄男が決して求めた世界ではないが、世に投げ出された存在である。目の前の事象は偶然か必然か。いずれにせよ、人知の及ばない世界である。

  俳誌 『鷗座』 2020年2月号より転載