透水の 『俳句ワールド』

★俳句のアラカルト★古今の俳諧・俳句の世界を楽しむ

鷹羽狩行の一句鑑賞

2019年10月03日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史


蛇よりも殺めし棒の迅きながれ   鷹羽狩行

 昭和五十一年の作で、第五句集『五行』に所収されているが、この
句集には、気になる句が沢山ある。句集の後記で狩行は、「この句集
は昭和四十九年から同年五十一年までの間の作品から、五百二十句
を選んで収録した」とある。年齢でいうと四四歳から四六歳くらい
にあたる。
 この時期にどんな心理的な変化があったのか知らないが、〈空蝉の
なほ苦しみを負ふかたち〉〈生と死の生の暗しや蝌蚪の水〉〈蟻地獄
飢ゑてゐずやと砂こぼす〉等々生き物、小動物を題材にした句が多
くなっている。また動物でないが、〈黴の世の黴も生きとし生きるも
の〉がなどが見られ、〈恐いものみたさ湿地を草の絮〉のように、ず
ばり「恐いものみたさ」という措辞さえ使用している。
 ところで、狩行は掲句の自解のなかで、師である秋元不二男に「〈殺
されて流れきし蛇長すぎる〉があり、この句の根底にあったかもしれ
ぬ」と述べている。また「根源俳句」を唱えたもう一人の師であった
山口誓子の影響が根底にあると評されることもあるが、もうこの時代
での狩行の表現手段としては誓子の影響は希薄になったとみてよいだ
ろう。
 むしろこの句とよく引き合いにだされるのに、高浜虚子の〈流れ行
く大根の葉の早さかな〉がある。さらに虚子の〈蛇逃げて我を見し眼
の草に残る〉の句なども心底にあったのかも知れない。
やはり狩行の句は変幻自在であり、知的な俳人だ。秋元不二男の言
葉でいえば、「バランス・素材選別・決定的把握・関係づけ・構図の取
り方、そういう操作工夫が見事だ」ということになるだろうか
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富沢赤黄男の一句鑑賞(4)高橋透水

2019年09月14日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史

 戛々とゆき戛々と征くばかり 赤黄男

 『戦艦』昭和十二年十一月号初出。赤黄男が陸軍少尉として中国へ出征した折の句である。「戛々」は固い物が触れ合う音で兵隊・軍馬・砲車などが広大な荒野をあてどなく行軍している様子を連想させるが、この場合はそうした実景というよりむしろ未知の大陸を行軍するときの、何かに追われるような心的な描写であろう。行けども見えない戦場に向かう緊迫感が「戛々」のリフレーンで表われている。
 昭和十二年五月、生活の困窮が続く赤黄男に招集があったが、病気のためすぐに解除されている。しかし間もなくその年の九月には支那事変の動員が下り、香川県善通寺の工兵隊に入隊した。三十五歳のときである。さらに十一月に中支へ出征し、転戦の日々を過ごすことになるが三十の半ばといえば決して若くなく、体力の負担は大きかったろう。
 昭和十三年、日野草城は「『旗艦』に於ける事変俳句」について書いた。この頃から俳壇に戦争俳句が流行し、赤黄男は『旗艦』八月号に、〈落日をゆく落日をゆく真赤い中隊〉を発表し好評を得た(ただし句集に載せなかった)。このころ赤黄男は中尉に昇進している。
 昭和十四年、軍事郵便で送られてくる赤黄男の前線俳句が、しばしば『旗艦』に載るようになった。『ランプ』と題し「潤子よお父さんは小さい支那のランプを拾つたよ」と前書きのある連句は、単に戦闘や戦場の悲惨な様子を描写した前線俳句でなく、むしろ情緒的な句である。何句か挙げると、
  落日に支那のランプのホヤを拭く
  やがてランプに戦場のふかい闇がくるぞ
  靴音がコツリコツリとあるランプ
  灯をともし潤子のやうな小さいランプ
  このランプ小さけれどものを想はすよ
など。最後の二句は愛娘の潤子に呼びかけたもので、家庭を想う父親像が窺われる。しかしまた一方では〈鶏頭のやうな手をあげ死んでゆけり〉のような句がある。赤黄男は戦士たちの悲惨な死をまざまざと見たのである。

  俳誌『鷗座』2019年6月号より転載
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富沢赤黄男の一句鑑賞(3) 高橋透水

2019年08月10日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史
秋風の下にゐるのはほろほろ鳥 赤黄男 

 『旗艦』昭和十一年十二月号に初出。
 「秋風」そして「ほろほろ鳥」、それだけで物悲しい赤黄男の心情が伝わってくる。秋風の下にいるほろほろ鳥は鳴いていなかったかもしれない。しかしこの句を読むと、秋風の中にけたたましくも哀し気なほろほろ鳥の声が聞こえてくるのだ。
 同時代の〈落日の巨岩の中に凍てし鴉〉も落日のなかの鴉がなんとも哀れに浮かぶ。ほろほろ鳥も鴉も赤黄男の内面の影のようだ。
この頃の赤黄男の生活をみてみよう。
 昭和十年、日野草城の俳誌『旗艦』創刊と同時に、赤黄男は同誌の同人となり新興俳句の作り手として頭角をあらわすことになる。先人としての高屋窓秋に傾倒し、また「俳句は詩である」と宣言するなど新興俳句の理論的展開も担った。当時の句日記に、「本当に俳句をやりたくなった。旗艦が創刊せられる事は現在の僕には初めて俳句を心からはじめる気を起さしめる」と俳句への情熱と並々ならぬ決意を記している。
 他方で私生活は不安定な状態が続き、昭和十一年二月に妻の実家が経営する酒造会社に入社するも、その年の十二月に退社する。間もなく病気の父を残して大阪に向かい、水谷砕壺の世話を受けながらも苦しい生活が続く。砕壺は赤黄男のよき理解者としてその後も物心両面から援助を受けることになる。
 昭和十一年四月に父が死去し、赤黄男自身も肺炎にかかるなど生活はどん底を迎えた。
 そのころの生活環境を窺わせる句がある。
〈さぶい夕焼である金銭借りにゆく〉や〈金銭貸してくれない三日月をみてもどる〉などである。(ただし金銭は「かね」と読む)。
 父の死後、生活苦のため義母は赤黄男たちから離れた。そうした困窮に喘ぐ赤黄男一家に金を貸してくれるものは誰もいなかった。
 ついに祖父の代からの土地を手放し、年の暮れに砕壺の世話で大阪に家を借りた。そこで職に就くも、勤務は長続きする性格でなかった。まさに秋風の身に沁みる生活が続いた。

俳誌『鴎座』2019年5月号より転載
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富澤赤黄男の一句鑑賞(2)高橋透水

2019年06月28日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史
恋びとは土竜のやうにぬれてゐる 赤黄男

 「旗艦」昭和十年七月号初出。これは赤黄男の自作の短詩が元になっているようだ。同年四月十八日の「句日記」には『土竜』とあり、
    男は
      乳のしたたりに
    女の胸の中で、
    土竜のやうに濡れてゐる
と記されていることから推測できよう。読み方によってはエロチックであり、男女の営為を連想させもする。さらに「恋びと」は女性というより男性、いや赤黄男自身のことだろうとも推測できる。
 土竜はほんとに濡れる動物なのかなどと問うのはいらぬ詮索で、土竜のイメージから連想して鑑賞すればよいだろう。日野草城の連作、「ミヤコ ホテル」十句が昭和九年「俳句研究」四月号に発表されたが、エロチシズムはそんな影響があったか。
 またこれは赤黄男のエディプスの現れともとれる。作句時の赤黄男は三十三歳であるが、十二歳のときに下の妹田鶴子をまた十六歳のときに母ウラを亡くしている。赤黄男七歳のとき、母は妹粽を出産後に病気になった。エディプスコンプレックスになったのは母を慕うそんな要因があったのだろう。同時期に〈南国のこの早熟の青貝よ〉などの作があるが、これはどちらかというと自己愛的な作品といってよい。また他方では、〈マスクして主義捨て去りし身を痩せぬ〉〈春怨のつむれる瞳(まみ)とペルシヤ猫〉など自画像や生活を詠んだ句も散見でき、作柄は多様である。
 この頃は日野草城の影響を思わせる句の他、モダニズムの手法もみられ、まだまだ赤黄男は思索や模索の時代であったといってよい。
それにしても、〈けふも熱き味噌汁すすり職を得ず〉〈妻よ歔いて熱き味噌汁をこぼすなよ〉などの句をみると、鑑賞句のような体感的な世界との差異に驚かざるをえない。これはその後頻出するが、心情を外在のもの、特に動物などで象徴する句作の萌芽だろう。

 俳誌『鴎座」2018年4月号より転載
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富澤赤黄男の一句鑑賞(1) 高橋透水

2019年06月01日 | 俳句の鑑賞・俳句の歴史
波の上に佐田の岬の霞みけり 赤黄男

 赤黄男は明治三十五年、愛媛県保内町川之石村(現・八幡浜市保内町)に長男として生まれている。父は地元の開業医であった。
 鑑賞句は俳号を蕉左右(しょうぞう)と名乗っていた昭和七年三十歳ころの作。佐多岬は赤黄男の郷里に近い。久し振りの帰郷で波の上の霞を懐かしんだのだろう。赤黄男らしさがでるのはもっと後年のことになり初期のころはまだまだ一般的な定型句である。
 さて今月号より赤黄男の一句鑑賞をはじめるにあたり、その経歴や社会的位置づけ、また初期の俳句の特色などみてみたい。
 俳句を始めたのは二十一歳のころからである。家業の医師を継ぐことを嫌い、早稲田大学の政治経済学部に進学した。大学生時代に、松根東洋城門下の俳人に勧められ、それをきっかけに『渋柿』へ投句をはじめた。
 大正十五年、早稲田大学を卒業し就職したものの、その年広島工兵隊に入隊。昭和二年除隊されて職場に復帰するが、間もなく大阪に転勤。昭和三年、二十六歳のとき結婚して城東区生野町に新居を持った。
 昭和五年、職を辞し郷里川之石に帰る。医師をやめて木材の会社を始めた父を手伝うも、事業は失敗し、借財のみ残ることになる。
 同じ昭和五年ころ、川之石の俳句グループ「美名瀬吟社」の仲間になった。上田白桃の紹介で山本梅史の主宰する『泉』に入り、本格的に俳句を始める。〈団栗を拾ふことなどなつかしき〉〈炬燵から山を眺めてばかりかな〉の二句が『泉』に初入選し、その年末に八幡浜で親睦句会を開いたときに「赤黄男」と改号した。当時、年末になると川之石に柿市が立つがそれに因んだものらしい。
 昭和十年代に新興俳句運動が盛んになるが、日野草城は『旗艦』を創刊した。赤黄男もそれに参加し、評論や時評を発表している。こうして新興俳句の動きに巻き込まれつつも、戦地での生活やマラリアの罹患などが句作に変化をもたらした。やがて句集『天の狼』に見られる赤黄男俳句が形成されていった。


俳誌『鷗座」2019年3月号より転載
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山口誓子の一句鑑賞(16)高橋透水

2019年04月27日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史
句を見ねば君の遠さよ秋の風 誓子

 誓子は西東三鬼や秋元不死男、そして平畑静塔、橋本多佳子などを同人とし昭和二十三年『天狼』を創刊したが、その巻頭言で、当時の俳壇に欠けている「酷烈なる俳句精神」「鬱然たる俳壇的権威」を実現したいと表明した。またその見本となるべき同人の作品について「俳句のきびしさ、俳句の深まりが、何を根源とし如何にして現るゝか」を示すことを求めた。この「根源」の語は議論を呼び、「天狼」内部では何が「根源俳句」であるかについて、「実在の真実への観入」(三鬼)「俳句的骨格の探求」(静塔)「東洋的無」(永田耕衣)など様々な意見が出され、外部からの批判・揶揄もあいまって昭和二十年代の俳壇にそれなりの活気を与えた。
 この天狼の創刊の辞「酷烈なる俳句精神」とは一体どんなものであり、その後どのようにいかされたのか、それを詳らかに述べることは今回の目的ではないが、端的にいうと三鬼のニヒリズム,耕衣の東洋的無,静塔の俳人格などは,俳句精神の根源を探求したということでそれなりに意義があっただろう。
 鑑賞句は多佳子へのメッセージの句だが、多佳子も三鬼とともに『天狼』創設に尽力した一人であるので触れてみたい。
 多佳子が誓子に弟子入りしたのは昭和十年という。すでに杉田久女に師事し俳句経験は十年以上あったが、新しい師として誓子を選んだのは多佳子の夫の橋本豊次郎であった。豊次郎は農業経営のため、九州での生活を始めたが、多佳子の教育は熱心だった。多佳子は遠隔とはいえ、誓子の目指すものや手法を身につけ、「女誓子」とまでいわれた。誓子は多佳子の並み優れた資質を見いだし、情熱的に指導にあたったのである。
 多佳子は他の俳人同様に戦中に句作の減った時期があり、また戦後はどうしても俳句の出来ない時期があったが、誓子は励ます意味でこの句を詠んだ。ここには単に弟子を励ます以上の感情が流れている。しかしこれを男女の感情とするのは短絡的で、二人は師弟関係を越えて切磋琢磨し俳句を求め続けたのである


  俳誌『鴎座』2019年2月号より転載
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山口誓子の一句鑑賞(15)高橋透水

2019年03月21日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史
 冬河に新聞全紙浸り浮く 誓子

 昭和三十三年作『方位』所載。
 この頃の誓子は健康が回復したのか、よく旅にでた。毎年、十二月に桑名に行き、揖斐川の畔の宿に泊って、句をつくったようだ。そこで水面に浮いている新聞紙に気づいた。
 誓子の自選自解よれば「水に浸ってかつ浮いている新聞紙は、みずからの極限を示して、そこにあったのだ。そんな新聞紙の浮いているこの冬河は、こころ憎い河だ。」とあるが、そこには「冬河」の語感からする冷たさや、「新聞全紙」からくるあけっぴろさ。またその反面、「浸り浮く」からくる危うさ、それにその新聞にはどんな記事が載っているのかなどいっさい述べられていない。それらはすべて読み手に委ねられているのだ。
 この句はよく誓子の〈夏の河赤き鉄鎖のはし浸る〉と対にして評論されることがあるが、〈夏の河〉は動の世界で静を描き、一方〈冬河に〉の方は動のなかで不安定ながらも静の世界を表現したとみてよいだろう。また〈夏の河〉には色彩があるが〈冬の河〉は無機質な冷たさが感じられる。
 例えば日常生活のなかで、新聞に報道された政治や経済、社会面の記事も所詮浮き沈みするというのが世の常だ。そんなことをこの句から感ずるのは読み込み過ぎになるだろうか。むしろそうした雑念を排除し、誓子の根源俳句を味わうべきだろう。
 ここで平畑静塔の解説が参考になるので紹介したい。「詩人小野十三郎はこの冬川の句には目をむいたと語ったが、私はこの句を作品として見て、この素材を扱って、さむざむとした色もうすれた冬川の表面に二頁大の新聞全紙がひたひたと浸り浮いている不気味さを作り上げた作者の主体のすごさにうたれるのである」(「『山口誓子』俳句シリーズ・人と作品」桜楓社)より。
 晩年の誓子は物を見る眼の精彩は衰えたと言われるが、「新聞紙は、みずからの極限を示していた」などの自解をみると、誓子の観察眼はまだまだ健全だったと言ってよい。

俳誌『鴎座』2019年1月号より転載
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山口誓子の一句鑑賞(14)高橋透水

2019年02月17日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史
蟷螂の眼の中までも枯れ尽くす 誓子

 一般的に、蟷螂は秋になると周りの色に合わせて枯葉色になる。環境によって変化するいわゆる保護色で、これが枯蟷螂の姿だという。果たしてそうだろうか。
 実は、夏に活動する青々しい蟷螂と秋から冬にみられる枯蟷螂とは別種であり、よくいわれるように蟷螂が枯れたのではない。
 鑑賞句も下五の「枯れ尽くす」の措辞から、これは枯蟷螂と思われることから、誓子自身もそんな認識であったらしい。自選自解では、
「青いかまきりは、冬になると、枯れて、黄になる。全身が枯れるのである。顔も、翅も、腹も、肢も、すべて。頭が枯れれば、その眼の中まで枯れてしまう」とある。勝手な思い込みは誰にもよくあることだ。続いて「私は、かまきりの、視野を想像してみる。複眼の底まで黄色くなってしまっているから、視野は黄色いだろう。人間の知らぬ視野だ」となおも勝手な想像を膨らましている。
 体が枯れるのだから、眼まで枯れてもなんの不思議はない。「枯れ尽くす」と言い切ったことは誓子を満足させたことだろう。そうした誤解はさて置き、「視野は黄色いだろう」と思うのはいかにも詩人らしい表現である。
 誓子は蟷螂の句を他にも作っている。〈かりかりと蟷螂蜂の皃を食む〉〈蟷螂の四肢動かざるところに死す〉 〈蟷螂よ手が利かぬやうになるぞ〉これらは蟷螂の生きいきとした生態を活写し、また死の寸前の昆虫たちをなんの感情を出すことなく冷静な写生に留めている。
 これらの句のなかで〈蟷螂の四肢動かざるところに死す〉は村上鬼城の〈冬蜂の死にどころなく歩きけり〉を彷彿させる句だが、鬼城に及ばない。直截的な表現に終わっている。しかし鑑賞句はさすがに誓子らしい感慨深いものがある。「眼の中までも枯尽くす」は鑑賞者を欺きかねないが、病身だった誓子の心情を汲むと妙に納得してしまう。
 昭和二十三年作。三十年刊の『和服』に所収されている。


  俳誌『鴎座』2018年12月号より転載
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山口誓子の一句鑑賞(13)高橋透水

2019年01月26日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史
 鶫死して翅拡ぐるに任せたり 誓子

 昭和二十年十一月の連作中の一句であるが、二十年の『晩刻』に収録されている。
 「死して翅拡ぐるに任せたり」は死んだ鶫を手にし、その鶫が飛んでいる様子を再現したかったのだろう。それを死者は生者にまかせたというのだ。興味あるものを徹底的に観察する誓子の本能がそうさせたのだろう。
 誓子の自句自解によると、
「私を喜ばそうとして、私につぐみをくれたひとがあった。私は喜んだ」「私は、つぐみが身にひきつけている両の翼を、両手でつかんで、それを拡げて見た。つぐみが生きて飛んでいるときのように両の翼を拡げて見たのである。 翼は素直に拡がった。しかし私が拡げたから拡がったのではない。死んでいるつぐみが、私の拡ぐるに任せたから拡がったのだ。つぐみは、死んで、私の為すがままになったのだ」とある。
 よく楸邨の〈雉子の眸のかうかうとして売られけり〉や〈鮟鱇の骨まで凍ててぶちきらる〉などと比較されるが、この句は観察だけに終わらず、死した生物に触わり実際に体を動かして支配しようとしている。死した鳥の羽は硬直しつつもまだ羽を広げる柔軟さを残している。まるで一体化したかのように、誓子は鳥と共に羽搏いているのだ。少年にありがちな骸に対する冷酷な愛情の再現である。
 潔癖さの裏側に潜む残酷さ、対象を極めようと無意識に働く非情さ。孤独な幼児時代はとかく自分より弱い動物に眼がゆき、ときに同情と愛情にはしり、ときに嫌悪と残虐な行為になる詩人がここにいる。
 ちなみ連作時の何句かを紹介すると、〈もたらしぬ鶫を風邪の床にまで〉〈頸垂れて鶫わが掌につゝまるゝ〉などがあるが、次の句はどうだろう。〈毟りたる鶫をしばしみつめたり〉〈妻も世に古りて鶫を炙りけり〉などに続き、究極の句は〈焼鶫うましや飯とともに噛み〉である。冷徹とまでいわないが、この最期の句で、誓子の一般人と変わらない食の精神をみたような気がし、ほっとする。

  俳誌『鴎座』2018年11月号より転載
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山口誓子の一句鑑賞(12)高橋透水

2018年12月16日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史
 悲しさの極みに誰か枯木折る 誓子

 昭和二十二年九月作。句集『青女』所載。
 誓子の悲しみは、いわば諦念からのものだろう。俳友にめぐまれ、病気療養中といえ、人並みの生活はできたはずだ。いや句作の時間は十分あり、療養中の環境にも恵まれた。孤独にも慣れきっていた。客観的に自己を見つめ、分析もできた。鑑賞句は、ふとした悲しさと枝の折れる淋し気な音との共鳴があったのだろう。誓子にとって、「悲しさ」は体の一部だった。それが共振したのだ。
 枝の折れる音に誘発されてのことであったが、悲しみの極みは、悲しみが他と共有できたとき、最高点に達したということだろう。
 自選自解によれば、「悲しいことがあった。いかなる悲しさか、ひとにはわからぬが、私のこころに悲しいことがあって、それが極まっていた。慰めるひとはなく、私はひとりその悲しみに堪えようとしていた。」「そのとき、外で枯木の枝の折れる音がした。誰かが折ったのだ。その音を聞いて、私は、悲しみに堪えられなくなった」とある。
 誓子は自己の悲しみや悲しさを客観的に観察し冷静に俳句に表現している。誓子の悲しみは、日常的なものだったが、一方では俳友にめぐまれ、病気療養中といえ、人並みの生活はできたはずだ。いや句作の時間は十分あり、療養中の環境にも恵まれた。孤独にも慣れきっていた。持病的な悲しみであったが、客観的に自己を見つめ、分析もできた。
 それは生い立ちや環境が強くかかわっている。特に少年の眼を通して見た士族出身ながら志を得ない憤りと悲しみを秘めて鬱屈した祖父像が、誓子の心の深淵にあるようだ。
 悲しさの背後にあるのは、すべて暗さが要因でない。初期の俳句の暗さは、かならずしも、心情の反影からだけとは言えない。作品にするには、感情は抑制され客観的な視線が働いている。鑑賞句は自己の悲しさが他人の悲しさと共鳴した、その瞬間をとらえたが、ときには誓子は自己の悲しみや哀しさを第三者的に観察し冷静に俳句に表現するのでる。


俳誌『鴎座』2018年10月号より転載
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山口誓子の一句鑑賞(11) 高橋透水

2018年10月26日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史
 萬緑やわが掌に釘の痕もなし 誓子

 昭和二十二年、作者四十七歳のときの句である。長年の病気療養から立ち直り、精神的に安定してきた時期である。万緑という生命力に満ちた自然界のなかで、ふと見つめた己の掌。その少しくたびれた掌は今日までの生活を物語っている。親とわかれて暮らした葛藤、宿痾の胸の病と闘い、また戦時の苦し時期を無事に乗り越えることのできたことで、思わず安堵の溜息がでたかも知れない。
 「掌に釘の痕」から、すぐ絵画や物語などにあるイエス・キリストの磔刑の様子が浮かぶが、誓子がどれだけキリスト教に関心があったかわからないが、キリストの磔刑を意識しての句であることは間違いないだろう。
 ただ誓子が直接的にキリストを題材にした句はないし、文にもほとんどお目にかからないが、磔刑を詠った句は散見する。
 誓子は幾度となく長崎を訪れる機があった。
 昭和二年の夏、会社の出張時の句に〈磔刑や泰山木は花終えんぬ〉〈釘うてる天守の手足露の花圃〉があり、また昭和十五年の正月、誓子が妻とともに長崎に遊んだときのこと、〈異教徒の外套玻璃に朱塗〉〈枯れし苑磔刑の釘錆流す〉〈寒暮来て階梯嶮しき聖歌楼〉などの句を載せている。
 もちろんこれらの句があるからといって、誓子とキリスト(聖書)を短絡的に結び付けることは短絡的過ぎるだろう。磔刑を題材にした以上に誓子とキリスト教の関連ほとんど感じられないのだ。
 つまり鑑賞句においても誓子にとって万緑こそ生命の源、精神の礎だったのだ。幸いにも裏切者や統治者からの仕打ちのなかった無事な生活にほっとしていることが、「掌に釘の痕もなし」なのである。
 因みに、〈五月病むキリストのごと血の気失せ〉があるが、これとて己の病弱さをキリストに擬えただけだ。やはり誓子の精神的な拠り所は宗教などでなく俳句以外になかった。句作し発表することが生きているなによりの証であり心の安らぎであったのだろう。

  俳誌『鴎座』2018年9月号より転載
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山口誓子の一句鑑賞(10) 高橋透水

2018年09月19日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史
  炎天の遠き帆やわがこころの帆   誓子

 誓子の終戦前後の日記をみると、なぜか終戦日には一行の記述も俳句もない。いや〈いくたびか哭きて炎天さめゆけり〉があるのだが、不思議と句集に載ってない。公にするには様々な思いが頭を巡り発表を妨げたのか。
 誓子にとって終戦の感慨はいかばかりであったかは容易に想像できるものでない。しかし終戦直後の句作の情熱はますます高まっている。掲句は昭和二十年八月二十二日、終戦日からわずか一週間しか経っていない作品である。誓子は戦前から、四日市冨田で療養中の身で、海岸が呼吸器官によいという特別な環境で過ごしていた。そんな頃にも一時も離れないのは俳句であった。そうした日常からして「遠き帆」は、茫洋とした誓子の心情を表わしていると考えてよいのではないか。
 つまり敗戦という不安な世情において「遠き帆」は大戦以前の日常を取り戻し、規制を恐れずに航行できる平和の象徴であり、また平常に身を置ける誓子の姿でもあった。しかしこんな長閑な風景が終戦後間もなくに出現したのだろうか。たとえみすぼらしい漁船等であっても、帆船となれば違和感がある。これは平和を取り戻した日本でおそらく誓子の心にふと出現した幻の帆であったのだろう。
 誓子は自選自解で、『いつも沖を見て暮らしている私のこころの裡には「こころの帆」があった。現実に見た帆が、積み重なって、こころに印象づけられた帆である。具象から来ているが、抽象の帆なのである』つまり、『抽象が具象になった』と述べている。
 では誓子のいう「こころの帆」はどういうことの象徴なのか。「炎天の遠き帆」は文字通り沖合の、つまり遠い視界にある帆と同時に遠い過去の帆であり、それが誓子にとっては「こころの帆」であるのだ。つまり炎天下で良風を受け希望多き未来に進む青春真っ盛りの帆である。あれこれやってみたいという希望や未来への夢であった。戦争が終わり、ギラギラした沖合を走るヨットを見ていると失っていた若い頃の熱い夢が蘇ったのだろう。


  俳誌『鴎座』2018年8月号より転載
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山口誓子の一句鑑賞(9)高橋透水

2018年07月20日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史
冷水を湛ふ水甕の底にまで  誓子 

 昭和二十年作で、句集『遠星』に収録。誓子の自選自解によれば、「冷水」は「れいすい」と読むという。しかし「冷水」に季感はあるが、季語ではない。また句は「冷水」を満たした「水甕」が描かれているだけである。そんな句をあえて取り上げたのは、この句が根源俳句であるとされるからで、特に平畑静塔や西東三鬼などの評価に触発されたからだ。
 そもそも「根源俳句」は誓子の造語だが、誓子は「根源俳句」の精神を『天狼』(昭和二十三年奈良で創刊)に発表し、『酷烈なる精神』を発揚した。そこには、
「私は現下の俳句雑誌に、「酷烈なる俳句精神」乏しく、「鬱然たる俳壇的権威」なきを嘆ずるが故に、それ等欠くるところを「天狼」に備へしめようと思ふ。」
と述べられている。
 が、それ以前すでに誓子に俳句作りの心構え、論理があったわけだが、改めて、「物事の根源は生命の根源であらう。生命の根源を探求して、『酷烈なる精神』を発揚することが私の念ずるところである」と外部に向かって発信したのである。
また『酷烈なる』精神は「生命の根源を探求するところから導き出される精神である」とするが、「根源俳句」の明確なる定義がなければ、『酷烈なる精神』の理論が外部に展開されていないので、それぞれの俳人が自己の生き方に即した意見や自己の都合による理論を展開してゆくことになった。もっとも誓子の狙いはそこにあったのかもしれないが。
 この誓子の思い至った「生命の根源」は、戦時中の病気療養中でも欠かすことのなかった句作と日々の写経から自得したものと思われる。それを発信し自己の立場を明らかにしたのは、戦後の昭和二十一年、桑原武夫の発表した「第二芸術論」の影響も考えられる。
 しかし鑑賞句は「生命の根源に一体となった表現の追求」が生かされているかは疑問であるが、『天狼』創刊後に俳句界に議論を呼んだ、根源俳句の嚆矢であることは確かだ。

   俳誌『鴎座』2018年7月号より転載
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山口誓子の一句鑑賞(8)高橋透水

2018年06月20日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史
 海に出て木枯帰るところなし誓子

 昭和十九年作であるが、句集『遠星』(昭和二十二年六月)に収録。作句時の誓子は胸部の疾患で伊勢湾に疎開と療養をかねて居住していた。誓子五十歳の頃の伊勢湾の情景を客観的に詠んだ句なのだ。が、脚色された解釈がでた。それは、吹きすさんだ木枯が野山を通り吹き荒らしつつ太平洋に出たが、もはや帰るところがない、決して日本に戻ってくることのない特攻隊であると歪曲されたのだ。
 こんな解釈になった背景には、作句時の頃は太平洋戦争の敗戦色が濃厚になり、日本軍に遂に人間魚雷や特攻隊が出現し、優秀な若者たちが片道燃料しかない戦闘機に乗り込んで米艦隊に突っ込み、若い命を散らしたことなどが連想されたからだ。
 すなわち掲句は「神風特別攻撃隊」を連想させ、命を散らした若者を海上に吹きすさぶ木枯らしに例えて詠んだのだろうと、拡大解釈し論評されたわけである。これには特に西東三鬼が特攻隊を描いた句だと評したことが世間に広がり一般化されたのだが、誓子自身も作句時の意図と異なる方向に句作の動機を述べるようになった。誓子が後日書いている次のような文は評論に押された形になっている。なぜなら当時の誓子は芭蕉や子規の研究に没頭し、写経を日課とするほど、日常は戦争から遠ざかっていたからだ。
 それなのに誓子は「この句を作った時、私は特攻隊の片道飛行を念頭に置いていた」と後日書いているが、次の自解のほうが真相に近いようだ。「私は、海の家にいて、頭上を吹き通る木枯の音を聞いて暮らした。その木枯は陸地を通って、海にでる。すぐの海は、伊勢湾だが、渥美半島を越えると、太平洋にでる。太平洋に出た木枯は、さえぎるものがないから、どこまでも、どこまでも行く。日本へは帰って来ない。行ったきりである」。
 このように作句時は特攻隊のことは、念頭になかったのである。因みに昭和十七年に、〈虎落笛叫びて海に出で去れり〉があるがこれが下敷きの一つであったと考えてよいだろう。


  俳誌『鴎座』2018年6月号 より転載
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山口誓子の一句鑑賞(7) 高橋透水

2018年05月19日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史
 つきぬけて天上の紺曼珠沙華 誓子
 昭和十三年あたりから、誓子には「黒の時代」「暗黒の時代」といわれる一時期があった。それまでの外面に関心があり、視点が外界に向いていたのが、内面の深淵に向けられた時代である。例えば〈愉しまず晩秋黒き富士立つを〉〈夜はさらに蟋蟀の溝黒くなる〉〈蟋蟀はきらりと光りなほ土中〉などの句が挙げられる。これは当時の時代背景が反映しているにしても、誓子が病気療養中で鬱鬱としていたことが主な原因であったろう。
 しかしときには無理のない誓子本来の句も見られるようになる。いわゆる構成句である。鑑賞句は昭和十六年作で『七曜』に所収された、まさに構成句である。誓子の「自選自解句集」によれば、「『つきぬけて天上の紺』は、くっつけて読む。つきぬけるような晴天とは、昔からいう。それを私は『つきぬけて天上の紺』といったのだ」とある。
 つまり一句は、〈つきぬけて天上の紺/曼珠沙華〉であり、一部の鑑賞者のように曼珠沙華が紺碧の空を突き抜けるという解釈はあたらない。まして「曼珠沙華を下からのぞき込んで空につきぬけた様子だ」などは論外だろう。ここでは「天」と「地」の縦軸に「天上の紺」と「曼珠沙華の赤」という色彩の対比をみることができる。これこそ「黒の時代」を抜けた構成俳句の再来である。
 ところで曼珠沙華は彼岸花のほか、死人花、捨子花、石蒜(せきさん)、天蓋花、幽霊花、かみそりばななど様々な呼称がある。どちらかというとマイナスイメージであるが誓子は曼珠沙華が好きなのか、この頃に、〈曼珠沙華季節は深く照りとほる〉〈曼珠沙華一茎の蘂照る翳る〉などがある。
 そんななか、時代は大きく転換し始めた。昭和十五年に俳句弾圧事件があり、太平洋戦争開戦は翌年のことである。「日本俳句協会」は十六年六月に「日本文学報国会」の一部門と化した。誓子は地方で療養中ということもあり捜査から免れたが、次第に俳句の素材が狭く、身近な自然観察に眼が傾いていった。


  俳誌『鴎座』2018年5月号 より転載
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