透水の 『俳句ワールド』

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富澤赤黄男の一句鑑賞(2)高橋透水

2019年06月28日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史
恋びとは土竜のやうにぬれてゐる 赤黄男

 「旗艦」昭和十年七月号初出。これは赤黄男の自作の短詩が元になっているようだ。同年四月十八日の「句日記」には『土竜』とあり、
    男は
      乳のしたたりに
    女の胸の中で、
    土竜のやうに濡れてゐる
と記されていることから推測できよう。読み方によってはエロチックであり、男女の営為を連想させもする。さらに「恋びと」は女性というより男性、いや赤黄男自身のことだろうとも推測できる。
 土竜はほんとに濡れる動物なのかなどと問うのはいらぬ詮索で、土竜のイメージから連想して鑑賞すればよいだろう。日野草城の連作、「ミヤコ ホテル」十句が昭和九年「俳句研究」四月号に発表されたが、エロチシズムはそんな影響があったか。
 またこれは赤黄男のエディプスの現れともとれる。作句時の赤黄男は三十三歳であるが、十二歳のときに下の妹田鶴子をまた十六歳のときに母ウラを亡くしている。赤黄男七歳のとき、母は妹粽を出産後に病気になった。エディプスコンプレックスになったのは母を慕うそんな要因があったのだろう。同時期に〈南国のこの早熟の青貝よ〉などの作があるが、これはどちらかというと自己愛的な作品といってよい。また他方では、〈マスクして主義捨て去りし身を痩せぬ〉〈春怨のつむれる瞳(まみ)とペルシヤ猫〉など自画像や生活を詠んだ句も散見でき、作柄は多様である。
 この頃は日野草城の影響を思わせる句の他、モダニズムの手法もみられ、まだまだ赤黄男は思索や模索の時代であったといってよい。
それにしても、〈けふも熱き味噌汁すすり職を得ず〉〈妻よ歔いて熱き味噌汁をこぼすなよ〉などの句をみると、鑑賞句のような体感的な世界との差異に驚かざるをえない。これはその後頻出するが、心情を外在のもの、特に動物などで象徴する句作の萌芽だろう。

 俳誌『鴎座」2018年4月号より転載

富澤赤黄男の一句鑑賞(1) 高橋透水

2019年06月01日 | 俳句の鑑賞・俳句の歴史
波の上に佐田の岬の霞みけり 赤黄男

 赤黄男は明治三十五年、愛媛県保内町川之石村(現・八幡浜市保内町)に長男として生まれている。父は地元の開業医であった。
 鑑賞句は俳号を蕉左右(しょうぞう)と名乗っていた昭和七年三十歳ころの作。佐多岬は赤黄男の郷里に近い。久し振りの帰郷で波の上の霞を懐かしんだのだろう。赤黄男らしさがでるのはもっと後年のことになり初期のころはまだまだ一般的な定型句である。
 さて今月号より赤黄男の一句鑑賞をはじめるにあたり、その経歴や社会的位置づけ、また初期の俳句の特色などみてみたい。
 俳句を始めたのは二十一歳のころからである。家業の医師を継ぐことを嫌い、早稲田大学の政治経済学部に進学した。大学生時代に、松根東洋城門下の俳人に勧められ、それをきっかけに『渋柿』へ投句をはじめた。
 大正十五年、早稲田大学を卒業し就職したものの、その年広島工兵隊に入隊。昭和二年除隊されて職場に復帰するが、間もなく大阪に転勤。昭和三年、二十六歳のとき結婚して城東区生野町に新居を持った。
 昭和五年、職を辞し郷里川之石に帰る。医師をやめて木材の会社を始めた父を手伝うも、事業は失敗し、借財のみ残ることになる。
 同じ昭和五年ころ、川之石の俳句グループ「美名瀬吟社」の仲間になった。上田白桃の紹介で山本梅史の主宰する『泉』に入り、本格的に俳句を始める。〈団栗を拾ふことなどなつかしき〉〈炬燵から山を眺めてばかりかな〉の二句が『泉』に初入選し、その年末に八幡浜で親睦句会を開いたときに「赤黄男」と改号した。当時、年末になると川之石に柿市が立つがそれに因んだものらしい。
 昭和十年代に新興俳句運動が盛んになるが、日野草城は『旗艦』を創刊した。赤黄男もそれに参加し、評論や時評を発表している。こうして新興俳句の動きに巻き込まれつつも、戦地での生活やマラリアの罹患などが句作に変化をもたらした。やがて句集『天の狼』に見られる赤黄男俳句が形成されていった。


俳誌『鷗座」2019年3月号より転載