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透水の 『俳句ワールド』

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エッセイ「上州に鬼城あり」(二)   高橋透水

2014年01月26日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史

  音の奥に潜んでいる音を聴く」   鬼城の言葉


 そんなある日、碁会所で俳句をやっていると言う人と話す機会に恵まれた。すぐに意気投合し、なんとそ
の人に句会に招かれたのである。何回か出席するうちに句会での楽しさを知り、また難しさも知った。
 もう少し俳句の勉強せねばと思い、図書館で眼にしたのが高浜虚子著の『進むべき俳句の道』であった。
なんとそこで村上鬼城について述べているページがあるではないか。私はすぐさまそのページを読み進んだ。
虚子は暖かい眼差しで鬼城を見詰め、彼の才能を紹介している。
 要約すると、         
「高崎に俳句会が催されて鳴雪翁と私とが臨席した時、鬼城君のあることを知った」とし、「その時の課
題句選で天を取ったのが計らずも鬼城君の句だった。二句出だったが二句共にやや群を抜いていた。」
と記し、さらに「この地方に俳人鬼城君のあることを諸君はわすれてはいかぬ」とまで言って絶賛している。
その夜の会食で虚子は鬼城が耳のよく聞こえないこと、望んだ職に就けずに代書人をしているが子沢山で
生活は楽でないこと等の話に聞き、深く鬼城に同情している。虚子の優しさが窺える一面であった。
 私もこの本で改めて鬼城の境遇に思いを深くしたことも事実であった。さらに「治聾酒の」や「冬蜂の」
の句が出た必然性を感じたりした。次の句もなんとも切ない思いになる。
  春寒やぶつかり歩く盲犬     鬼城
 ところで「冬蜂の」の句が世に知られるには、大須賀乙字の存在は軽視できない。大正四年、乙字は鬼城
に手紙を書いて「冬蜂の」の句を賞賛しつつ、自分の句について鬼城の批評を請うている。さらに鬼城俳句
に傾倒した乙字は大正六年『鬼城句集』の刊行に尽力している。これにより特異な境涯俳句作家として村上
鬼城の名が世にでたのである。
 鬼城は晩年、門人たちに次のような言葉を言ったそうである。
 「音の奥に潜んでいる音を聴いてくるのが詩人なんだ
と。なんと重みのある言葉だろう。
 これからは私も、自然の奥に潜んでいる真の自然を感じられるよう心掛けて、日常を過ごさねばならない。
幸いにして現在の私は俳句三昧の日々を送っている。鬼城の俳句に巡り会ったことに感謝し、これからも句作に精進したいと思う。
 最後に、これは参りましたという鬼城の句を紹介して筆を置くことにしたい。生き様でなく死に様を考え
続けた上州の偉大な俳人としての業績を称えながら。

  死を思へば死も面白し寒夜の灯

(平成二十一年・ある句会報)より

エッセイ 「鬼城との出会い」 (一)    高橋透水

2014年01月23日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史
  「上州に鬼城あり」    虚子の言葉
 
 忘れえぬ人、忘れえぬ場所、忘れえぬ言葉があるように忘れえぬ俳句というのもある。もう数十年前のこ
とになるが、ある書店で俳句に関する書籍を読んでいたとき次の一句に出会った。
  冬蜂の死にどころなく歩きけり    村上鬼城 
 あの本屋で立ち読みしたときの衝撃をいまでもはっきり覚えている。それまで教科書などでしか知らない、
芭蕉や一茶また蕪村などの俳諧と違った新鮮さがこの句にあった。人が死に所なく彷徨い歩くと言うならわ
かる。飢えた狼や狐なら景も浮かぶ。なぜ冬蜂なのだ。死にどころを求めて、一体どんな歩き方をしていると
いうのだ。などなど色んなことが頭を巡った。
 なぜあの時書店などに立ち寄ったかというと、文学仲間の一人が山頭火に興味があり、飲み屋などで盛ん
に山頭火のことを語っていた。私は俳句に多少の興味はあったものの、山頭火や放哉についてはあまり知識
がなかった。しかし友人の熱く語る山頭火とは一体どんな人物なのか、少しは知らないと話題についてゆけ
ない。ま、本屋にでも行って立ち読みでもするかと思い、高田馬場の書店に向かった。そこで山頭火に関す
る本を見つけ、俳句を読んだり年表を見たりして時間を費やした。ある程度山頭火の知識を得ることができ
たが、ついでにと思いもう一冊俳句に関する本を手にしページを繰っていると、思わぬところに手が滑った。
 そのとき眼に飛び込んできたのが「冬蜂の・・・」の句であった。ほかに次のような句も眼に入った。
  闘鶏の眼つぶれて飼はれけり
  夏草に這上がりたる捨蚕かな 
  生きかはり死にかはりして打つ田かな 
  治聾酒の酔ふほどもなくさめにけり

 むろん鬼城のこれら句に惹かれて、すぐに俳句に飛びつき俳句を始めたわけでない。あくまでも知識を広
げるために位の意識しかなかった。鬼城が慶応元年に鳥取藩江戸屋敷に生まれて幼児期に高崎に移ったこと、
青年になって耳を急に疾み希望の就職先もなく、止むなく父の職を継いで高崎裁判所の代書人になったこと
などを知った。
 月に一、二回は会う三十半ばの文学仲間に鬼城のことを語ったが、あまり関心を持ってくれなかった。私
が「老成している」の一言で片付けられた。三十半ばの私といえば長年のサラリーマン生活にピリオドを打
ち、念願叶って自営の道を開くことが出来たころであった。
 四十代は小規模ながら自営の仕事に追われる日々になり、昼夜を問わず働いていた。気づいたときはや
たらと白髪が増え、昭和二十二年生れの私も還暦を迎えるまでになったいた。平成十九年三月のことである。
肉体的や精神的なこともあり、いろいろ迷ったが還暦を機会に自営を止め、年金生活を送ることに決めた。
 これでやっと一日中拘束された仕事から開放された。一年くらいは旅行したり仲間をもとめて碁会所に通ったりの日々が続いた。しかし何か満たされない空虚感のようなものが心のどこかにあった。(続く)
【平成二十一年・ある句会報より】


山口青邨の一句鑑賞      高橋透水

2014年01月20日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史
 みちのくの鮭は醜し吾もみちのく   青邨

 昭和五年作。『雑草園』所載。
 青邨は岩手県盛岡市の出身。そのためか「みちのく」の句が多い。〈みちのくの雪深ければ雪女郎〉〈みちのくの淋代の濱若布寄す〉、また〈みちのくの青きばかりに白き餅〉などである。
 さて〈みちのくの鮭は醜し吾もみちのく〉を鑑賞するには、〈みちのくの乾鮭獣の如く吊り〉を参考にしたほうがよいように思われる。〈獣の如く吊り〉の句は、青邨の自解によれば、「岩手県の太平洋に注ぐ川で鮭がとれ、南部の鼻曲鮭として有名であった。私の子供の頃はどこの家でも一本や二本の塩引鮭を台所に吊ってないところはなかった」とあり、また「この句の乾鮭は塩引鮭である。つくづくその貌をみると、歯をむき出し、鼻の先がひん曲がり、眼がくぼみ、すさまじく、気味が悪く、魚ではなくて獣である」と、記している。
 とすると、掲句も当然「乾鮭」であり、獣のように気味悪く、醜い鮭だったことが想像される。
 しかしながら、なぜ「吾もみちのく」と詠わなければならなかったのだろう。文字通りとれば、作者である青邨もまた(みちのく育ちで醜い存在だ)ということになる。いやいや決して青邨はそんな人物ではない。盛岡中学を卒業後、旧制二高に入学し、なんとそこで野球部のキャプテンを務めた。東京帝国大卒業後は古河鉱業に勤務。後に東京帝大工学部の教授になった人物である。
 青邨の「みちのく」の句に接して総じて感ずるのは、『みちのくへの慈しみの心』の裏返しであり、反骨精神が伝わってくることだ。いわば、逆境的な郷土愛を高らかに詠ったとみてよいだろう。
 もちろん全体的に青邨の作品を理解するには、杉並の自居にあった「雑草園」、そして留学中のドイツ・ベルリンのことも考慮に入れねばならないだろう。更に、青邨は若い頃「ホトトギス山会」に参加して写生文で頭角を現わし、俳句ばかりでなく名随筆家としても広く知られていたことも念頭に入れておかねばならない。

井上井月の一句鑑賞      高橋透水

2014年01月17日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史
  袴着や酒になる間の座の締り      井月

 下島勲五歳(七歳とも)の袴着の儀における井月の祝句である。袴着の儀式の緊張感と、それを終えて祝宴になるまでの座の高揚感が伝わってくる。
 井月の良き理解者であった勲の父筆次郎は息子の袴着に井月を招待したのである。井月はその時の饗応のお礼に、一句を京短冊に認めて贈った。明治八年のことで、時に井月は五十四歳になっていた。奇しくも井月の出身地と思われる越後の元長岡藩主牧野忠訓の病死した年であった。
 さて、下島勲は後に弟の富士と井月の句や書などの遺業を発掘することになるが、その動機になる運命的な出会いがあった。勲(雅号空谷)は、長野県上伊那郡中沢村(現駒ヶ根市)生れ。軍医として日清戦争・日露戦争に従軍、退役後に東京市画外田端(現北区田端)で「楽天堂医院」を開業。田端には、大正の初めころから芥川龍之介の家族他、板谷波山、山本有三、室生犀星ら多くの文人、画家、彫刻家などがやって来て、勲との交流が深まった。
 勲は医師であったが俳句、画をよくし、能書家でもあった。龍之介とは特に親しくなり、井月の俳句と書を高く評価して勲に発掘を勧めたのである。ある日、勲は龍之介と井月の話していると、子供の頃に井月に石を投げた時の光景が蘇った。朧げながら袴着の時にいた井月のことも。
 いつも訳の分からないことをぶつぶつ言って、酒が出ると「千両、千両」を連発する。村人の大半は「乞食井月」と毛嫌っていたが、勲の父と母は違っていた。「井月という男は、姿を見るとこじきだが書を見るとお武家さまだ」「この人は身なりは乞食だが、その学殖の高さ、墨書の見事さは正に京のお公家さんだ」と語っていた父のことを思い出した。勲には故郷と井月が無性に懐かしくなった。
 龍之介に説得され、勲は井月を顕彰するのは今の自分しかないと考えた。そして駒ヶ根にいる弟の富士に早速井月の発掘蒐集を頼んだ。富士は快く承諾し、兄と協力しながら井月の遺墨蒐集とその解読に労した。富士は長野県の赤穂村で薬種業を営みながら、俳号を五山と名乗り句作する人でもあった。結果、大正十年の『井月の句集』、昭和五年の『漂泊俳人井月全集』の出版の道が開かれた。勲も然る事ながら富士の功績は多大であるといってよいだろう。

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 井上 井月(いのうえ せいげつ、文政5年(1822年)? - 明治20年2月16日(1887年3月10日)は、日本の19世紀中期から末期の俳人。本名は一説に井上克三(いのうえかつぞう)。別号に柳の家井月。信州伊那谷を中心に活動し、放浪と漂泊を主題とした俳句を詠み続けた。その作品は、後世の芥川龍之介や種田山頭火をはじめ、つげ義春などに影響を与えた。
(ウィキペディアより)

長谷川 櫂 の一句紹介     高橋透水

2014年01月09日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史
  冬深し柱の中の濤の音      櫂

 新潟生まれの私はこの句に出会ったとき、岩を食む怒濤が眼に浮かび、その怒濤音が耳を襲ってくるのを禁じ得なかった。それは人一人いない、冬の昏い日本海の風景だ。
松林が北風に吠える。大鎌のような波頭、捲いた絨毯が解けるような長い波。
やはり一番に印象に残るのは、岩にぶつかり砕ける果敢な怒濤だ。濤は白く砕け、また黒に戻る。
 まさに源実朝の〈大海の磯もとどろに寄する波われて砕けてさけて散るかも〉の世界だ。いやそれ以上の絶叫世界なのだ。
 それにしても「柱の中の濤の音」は、海鳴りの凄まじさの実体験を的確に表現した、いつまでも耳に残る句となった。

冬の日本海のこんな怒濤を見たら、芭蕉はどんな句を作っただろうか。

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 紹介句について、幸い長谷川櫂の自解があるので、下記に掲げた。

「大学を卒業すると、新聞社に入り、記者として新潟市で仕事を始めました。ここから日本海の海岸に沿って南西へ下ってゆくと、出雲崎という海辺の町があります。ここは芭蕉が『おくのほそ道』の旅の途中に立ち寄って、「荒海や佐渡によこたふ天の川」という句を詠んだ場所です。冬になるとこの辺は、大陸からの北風が一日中、吹きつけ、黒い大きな波が海岸に打ち寄せます。夜になると、地面を伝わってくる海鳴りで宿の太い柱が鳴り響いているようでした。木枯らしの吹く日に、電柱に耳をつけると空を吹く風の音が聞こえますね。あれと同じです。」(新書館「現代俳句の鑑賞」)より

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長谷川櫂の経歴
(ウィキペィアのフリー百科事典から引用しましたが、誤記等がありましたらご容赦ください)

熊本県下益城郡小川町(現宇城市)生まれ[1]。熊本県立熊本高等学校、東京大学法学部卒業。1978年読売新聞社入社。句作は中学時代より行い、新聞社入社の翌年に「槇」に入会、平井照敏に師事。1989年より飴山實に師事。飴山は結社を持っておらず、飴山の句にほれ込んだ長谷川が手紙を送って入門を乞い、以後毎月原稿用紙に句を書いて送り選をしてもらうという師弟関係を結んだ(『俳句の宇宙』)。1990年、『俳句の宇宙』で第6回俳人協会評論賞、第12回サントリー学芸賞受賞。1993年「古志」創刊、主宰。2000年、読売新聞社を退職し専業俳人となる。2002年、第五句集『虚空』により二十一世紀えひめ俳句賞第1回中村草田男賞、翌年に第54回読売文学賞を受賞。2004年より読売新聞に詩歌コラム「四季」を連載。2009年、「古志」主宰の定年制を表明し、2010年限りで主宰を退いた。後継の主宰には1980年生まれの若手大谷弘至を指名した。特定非営利活動法人「季語と歳時記の会」代表、東海大学文学部文芸創作学科特任教授、朝日俳壇選者を努める。

中村汀女の一句鑑賞     高橋 透水

2014年01月06日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史
 
 咳の子のなぞなぞあそびきりもやな    汀女

 仙台での句。友達との遊びというより親子の情景であろ
う。親に言われても、少々の風邪では子供は休んだり寝たり
することを好まない。親に甘え、尻取りやなぞなぞを始めるが、
それがなかなか終わらないのが子供というもの。よくわかる
句である。
 ところでこの句は「きりもなし」とするのが、普通ですが、
わざわざ「や」を使ったのは、「なし」と強い切れを作っ
てしまうと、余韻がなくなってしまうためだと思われます。
この「や」は間投助詞の詠嘆であり、「きりがないなぁ~」
くらいでしょうか。

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なかむらていじょ【中村汀女】 1900‐88(明治33‐昭和63)
俳人。熊本市生れ。本名は破魔子(はまこ)。1918年から俳句を書きはじめ,32年に高浜虚子に師事,《ホトトギス》の婦人句会で活躍した。〈とゞまればあたりにふゆる蜻蛉(とんぼ)かな〉〈咳の子のなぞなぞあそびきりもなや〉などを収めた《春雪》(1940)は,星野立子句集《鎌倉》(1940)とともに虚子に称賛され,虚子門の代表的女流となった。日常生活に根ざしたのびのびした感性とさわやかな抒情に特色があり,〈たんぽゝや日はいつまでも大空に〉(《春雪》),〈外(と)にも出よ触るるばかりに春の月〉(《花影》1948)などがその代表作。
<世界大百科事典 第2版の解説>より
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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中村 汀女(なかむら ていじょ、1900年(明治33年)4月11日 - 1988年(昭和63年)9月20日)は、俳人。本名、破魔子(はまこ)。昭和期に活躍した代表的な女性俳人であり、 星野立子・橋本多佳子・三橋鷹女とともに4Tと呼ばれた。
熊本県出身。熊本県飽託郡画図村(現熊本市江津1丁目)に斉藤平四郎・テイの一人娘として生まれる。平四郎は地主で、村長も務めた。1912年(大正元年)、熊本県立高等女学校(現熊本県立第一高等学校)に入学。1918年(大正7年)、同校補習科を卒業。このころより「ホトトギス」に投句を始めた。また、汀女は杉田久女に憧れてファンレターも出した。1921年(大正10年)9月、久女が江津に訪ねてきている。ここから、汀女と久女の交流は永くつづいた。
1920年(大正9年)に熊本市出身の大蔵官僚(税務)の中村重喜と結婚。以後、夫の転勤とともに東京、横浜、仙台、名古屋など国内各地を転々とし、後に東京に定住した。なお、息子は尾崎士郎の娘一枝と結婚している。1934年(昭和9年)ホトトギス同人となり、最初の句集『春雪』を発表。戦後の1947年(昭和22年)には俳誌『風花』(かざはな)を創刊・主宰した。1980年文化功労者、1984年(昭和59年)日本芸術院賞受賞。名誉都民、熊本市名誉市民。
1988年(昭和63年)年9月20日東京女子医大病院で死去(心不全)。享年88。墓は浄土真宗本願寺派本願寺築地別院和田堀廟所(東京都杉並区)にある。

松本たかしの一句鑑賞      高橋透水

2014年01月03日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史

 雪だるま星のおしやべりぺちやくちやと   たかし

 雪だるまを作った夜、晴れた空に大小の星が輝きだした。そしてまるで
夜明けの小鳥のように星はおしゃべりをはじめた。地上の雪だるまの噂を
し、中には長い光の腕をのばし茶目っ気たっぷりに雪だるまに話しかけて
くる星もいる。
 とてもファンタジーでメルヘン的である。同じころの句に、〈綺羅星は
私語し雪嶺これを聴く〉がある。景は大きいが、これも童話の世界に導い
てくれる。
 そんな風に解釈すれば〈雪だるま〉の句は、確かに松本たかしの作品の
なかで特異な句ということになろうが、しかし正直言って、それほど高度
な句とは思えない。本当の句意は、雪だるまは超然としたたかし自身であ
り、ぺちゃくちゃお喋りしているのは、孤高なたかしを取り囲む家族であ
り、俳人や友人達であるのかも知れないのだ。
 雪だるという偶像ならば、やがて溶けてなくなるという運命を背負うわ
けだが。

★その他、松本たかしの句
 とっぷりと後ろの暮れる焚火かな

 夢に舞ふ能うつくしや冬籠
 
 雪嶺に三日月の匕首飛べりけり

 深雪晴非想非非想天までも

 一冬木専らに見て見つつあり