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山頭火の一句鑑賞(七)       高橋透水

2015年02月02日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史
うしろすがたのしぐれてゆくか【ニ】

 最初、この句の「うしろすがた」は「うしろ姿」であり、また従来は大宰府あたりで詠まれたと考えられていたが、昭和六年十二月二十五日、福岡県福島(現八女市)での句作(杉山洋氏が山頭火の自筆ノートから考証)の説がある。つまり行乞記は同年の三十一日で「うしろ姿」となっているが、自選句集の『草木塔』には「うしろすがた」になっていることの指摘である。しかし作句場所及び言語表記等はここでは問題にしないことにする。
 繰り返しになるが、この句には「自嘲」という前書きがあるが、前書きについて山頭火は次のように記している。
 「すぐれた俳句は――そのなかの僅かばかりをのぞいて――その作者の境涯を知らないでは十分に味はへ ないと思ふ。前書きなしの句といふものはないともいへる、その前書きとはその作者の生活である、生活 といふ前書きのない俳句はあり得ない、その生活の一部を文字として書き添へたのが、所謂前書きでる」 (昭和五年十二月七日)

 俳句に前書をつけることに賛否はあるが、山頭火の言い分はそれなりに説得力がある。
 しかし、この前書き「自嘲」に引きずられると山頭火の思う壺になってしまう。つまり「うしろすがた」は過去のようでもあり未来のようにも受け取られるからだ。過去とみてもいつのまにか「うしろすがたが」目の前に現われ、目の前の「うしろすがた」はいつの間にか過去の姿に反転してくる。いや過去から未来に円が出来、未来が眼前に、眼前の己の姿が円を描いて後ろに回り込む。そうした不思議な映像を喚起することが読み手にいつの間にか仕掛けられているのだ。
 更に同じ三十一日の行乞記に、「おだやかに沈みゆく太陽を見送りながら、私は自然に合掌した、私の一生は終つたのだ、そうだ来年からは新らしい人間として新しい生活を始めるのである」とある。「一生は終わった」と記しながら、新しい人間・生活を願う、ここに山頭火の本質が吐露されているのである。

 俳誌『鷗座』2015年2月号より転載
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