透水の 『俳句ワールド』

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石田波郷・「波郷句自解」(十)(十一)         高橋透水

2014年07月31日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史

青林檎子が食ひ終る母の前      波郷

昭和十年、小川町の馬酔木発行所にゐて、毎日須田町の「萬惣」に珈琲を呑
みに出かけた。「母」が若い美しい母であつたことはいふまでもない。俳句
では斯ういふのも触目吟といふ。

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物語壁炉が照らす卓の脚

紅々と壁炉を焚くような家を訪ふ縁故は作者にはなかつた。神田の「キヤン
ドル」の如き喫茶店で作つた句だらうと思ふ。文学青年とまでもゆかぬ喫茶
青年趣味の句だ。


  「波郷句自解―無用のことながら―」(有)梁塵社 より

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石田波郷・「波郷句自解」(八)(九)         高橋透水

2014年07月28日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史

春の街馬を恍惚と見つゝゆけり      波郷

昭和十年。「恍惚と」といふ言葉をどうやらこなし得たと思つた。

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ひとゝゐて落暉栄あり避暑期去る       波郷
昭和十年。前年夏、辰之助と軽井沢、神津牧場に遊んだ折の印象によって、やゝ小説めいた創作をやった。典型的な青春俳句といふべきか。  

「波郷句自解―無用のことながら―」(有)梁塵社 より


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石田波郷・「波郷句自解」(六)(七)       高橋透水

2014年07月24日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史
霜の樹々一樹歪みて崖に向      波郷

昭和九年、「霜の樹々影の流れの崖に向く」「霜の崖一刷毛の日がさしてゐる」「霜
の崖徹夜の仕事抱きて攀づ」の如き句と一緒に出来た。この頃の句は悉く窓
秋、辰之助に見せた。


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大阪城ベツドの足にある春暁      波郷

昭和十年四月、水原秋桜子先生と京阪に遊んだ。大阪馬酔木大会が当面の用
であつたが、この時山口誓子馬酔木加盟が決定し、氏の「射手の挨拶」を持
帰つた。堂ビルホテル朝の嘱目。


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石田波郷・「波郷句自解」(四)(五)       高橋透水

2014年07月22日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史
スケートの渦のゆるめり楽やすめり   波郷

昭和九年芝浦スケートリンクに木元将康と出かけた八句の連作中の作。ワルツが一曲了るとスケートの人渦がゆるぶやうに思はれた。何でもないといへば何でもないが、これで随分苦労したし、その苦労が亦愉しくてならなかった。

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雪降れり月食の汽車山に入り    波郷

スキーの全盛時代、作者も亦之に熱狂し蔵書を売つてまで出かけた。上野十
一時五十五分のスキー列車に乗ると翌未明越後湯沢、石打等に着いた。「月
食は駅の時計に違はざる」
  

「波郷句自解―無用のことながら―」(有)梁塵社 より

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石田波郷・「波郷句自解」(二)(三)       高橋透水

2014年07月19日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史

寒卵薔薇色させる朝ありぬ    波郷

昭和八年、馬酔木同人編「新選俳句季語解」の例句として作つた。同じやうにして「檻の鷲さびしくなれば羽搏つかも」の句も出来た。描きて赤き夏の巴里をかなしめる    波郷

昭和九年、明大文芸科に入つた夏、銀座日動画廊での作。誰の絵だつたかは忘れた。文化学生らしい句といへよう。作者自身巴里に在つて絵筆をとつてゐる夢想に誘はれたものだつた。

  「波郷句自解―無用のことながら―」(有)梁塵社 より

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石田波郷・「波郷句自解」(一)       高橋透水

2014年07月16日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史
秋の暮業火となりて秬は燃ゆ    波郷

昭和六年(十九歳)の作、郷里松山在で故五十崎故郷の指導を受けてゐた。自家の畑での体験。翌年二月号「馬酔木」の巻頭になり、上京の機をなした。同時に「秬焚や青き螽を火に見たり」の句がある。
  
「波郷句自解―無用のことながら―」(有)梁塵社 より
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前田普羅の一句鑑賞       高橋透水

2014年07月10日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史
人殺す我かも知らず飛ぶ蛍         普羅

 「ホトトギス」 大正二年十二月号に掲載された句である。
 一般的には動物は争いあっても、よほどのことがない限り仲間同士で殺し合うことはない。それに比し、動物より智恵もあり理性があるだろう人類が使用する「殺人」という言葉があることが忌々しい。それは計画的にしろ、衝動的にしろ人類にしかない同種間で行われる行動で、まして戦争となれば殺すか殺されるかだ。
 裁判所に勤めていた普羅は、悪があり虚偽がある様々な人間模様や実社会に見られる世相のいろいろな姿に触れ、裁判での判決もまた公平とは言いがたい社会の矛盾を感じていた。犯罪人をみていると、もし自分が犯罪人と同じ環境に置かれたら、自分もまた人を殺すような人間だったかもしれない、とふと思う。
  普羅の懊悩の主因として長く尾を引くものに、一家内の確執があった。特に継母との確執は、普羅の性格を決定づけるような影響があった、と普羅研究者の中西舗土は指摘している。
 確かに、若い普羅を残して両親は台湾に渡ったが仕事がうまくゆかなかった。帰国後間もなく母は死亡し、父は子持ちの女と再婚している。普羅には父も義母も憎い対象でしかなかった。
 鑑賞句の作句時は既に結婚していた普羅であったが、人生いかに生くべきかという大問題はいつも抱えていて、『歎異抄』を説く思想家やロシア劇「ベルス」(鈴)などの影響が背景にあったようである。
 「飛ぶ蛍」は心の反映であり、不安定な心の吐露であろうか。同時期の〈盗賊とならで過ぎけり虫の門〉にも同様な心理が働いているようだ。
 苦悩する普羅は、やがて山や自然に癒しを求めてゆくことになる。
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山頭火の風景<月夜、あるだけの米をとぐ>    高橋透水

2014年07月05日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史
月夜、あるだけの米をとぐ      山頭火

 昭和8年作。
 其中庵での生活も一年過ぎた。時おり木村緑平から為替が届き、なんとか生き永らえている。しかし、このところ体がしんどくなり、托鉢することもままならない。あるだけ米を研いで、後のことはまた考えればよい。酒を飲んで、月を楽しもうじゃないか。惜しげなく降り注ぐ月の光を浴びて。
 しかしどうやら一人の夜でなく、知人の訪ねて来た日の句らしい。
 知人と言っても、山頭火を慕う大山澄太という青年だ。知り合ってまだ浅いが、いやに気の合った二人だ。五十過ぎになった山頭火だが、この青年の訪問が嬉しくて待ち遠しい。きっと酒持参で、ご馳走もあるに違いない。

 その頃の山頭火は体調は決して良いとはいえず、托鉢も気分次第だった。後年、大山澄太は回想して山頭火の言葉を紹介している。「・・・・しかし大山君がくるというハガキが来たので、午前中二時間あまり近郷を行乞した。米一升二合・・・・。もつたいなしもつたいなし」
 行乞を理想にした山頭火だったが、人恋しさは人一倍だ。そんな時に弟子分にあたる大山澄太が訪ねて来てくれた。
 その晩の二人は大いに飲み、俳句や友人のことを語りあったことだろう。
 

【参 考】其中庵
 昭和七年九月、山頭火は、俳句仲間たちの援けをうけて、山口県小郡の藁葺の小屋に「其中庵」を結庵し、この地に生活の基盤を置いた。山頭火50歳から56歳までここを住処とし、第2句集「草木塔」から第5句集「柿の葉」まで出している。

  さみしい風が歩かせる
  鉄鉢の中へも霰
  わかれてきた道がまつすぐ
  何を求める風の中ゆく
  なにやらかなしく水のんで去る


 などの作品がある。

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種田山頭火の風景(分け入っても分け入っても青い空)【ニ】   高橋透水

2014年07月01日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史
 
 大正十五年四月、解くすべもない惑ひを背負う
分け入っても分け入っても青い空    山頭火
1926年(大正15)、「層雲」発表句。

  熊本で世話になっていた味取観音に安住できず、山頭火が行乞の旅にでたのは1926年(大正15)である。これは尾崎放哉が「入庵雑記」を『層雲』に連載開始した年にあたる。面識はなかったものの心の通じあっていた放哉が、小豆島の西光寺南郷庵で4月7日に亡くなったと、木村緑平から報せを受けた。
 その直前の4月14日、山頭火は緑平に次のような内容のハガキを出している。
  「あはたゞしい春、それよりもあはたゞしく私は味取をひきあげました、本山で本式の修行をするつもりであります。
  出発はいづれ五月の末頃になりませう、それまでは熊本近在に居ります、本日から天草を行乞します、そして此末に帰熊、本寺の手伝をします。」

 本山とは曹洞宗大本山の永平寺のことで、山頭火は本式修行を望んでいたが、実現しなかった。年齢的なこともあり、きびしい修行に耐えられないだろう、と報恩寺の義庵和尚が判断した。世俗を捨てたいという思いは果たせなかったが、あたかも放哉の死の報せに促されたかのように、山頭火は味取観音を飛び出した。木村緑平から知らせうけとった数日後のことである。

 さて、句の前書きに「大正15年4月、解すべくもない惑ひを背負うて、行乞流転の旅に出た」と述べているが、『解すべくもない惑ひ』とは何を指しているのだろうか。
 その前に、この旅にでる切っ掛けを山頭火研究の第一人者である村上護の著書を引用し、山頭火の心情に触れてみたい。
 『彼は大分行脚のほか、すでになんどかこの種の旅を試みている。しかし、そのいずれも味取観音堂を拠点とした、帰るところのある旅であった。味取を去ったのちは、熊本の報恩寺に寄宿しながら約一ヶ月、近郷を行乞しながら歩いている。その間、その先々で俳友たちを訪ねることもあったらしい。そこではきまって、尾崎放哉の噂を聞いた。近ごろ、放哉が小豆島で静かにその生命を閉じたというのである。その訃に接し、彼の気は転倒せんばかりであった。敬慕していた放哉との、この世での逢う瀬は、ついに断たれてしまったのだ。』

 山頭火と放哉は会ったことがない。同じ破滅型の人生だが、陽と陰、自力と他力と、開放的と閉鎖的等々異なる点が多いが、『層雲』の誌上と通じて心で繋がっていたようだ。
 「解すべくもない」とは、やはり過去の不幸だろう。母の死、まだ幼い末の弟の死、姉の正体不明の病死、実弟二郎の縊死などなど。解すべくもない、不幸の連続が、山頭火を苦しめたのだろう。

 そして生くべきか、死すべきかの迷いもあったろう。同じ心境の放哉が先だった。死に憧れた山頭火には先を越された思いと、羨望があった。しかしどうしても自分は死ぬことが出来ない。貧しくとも寺守として安住の生活がないわけでない。が、心とは裏腹に過去の業を背負いつつも脚は放浪の旅、宮崎、大分へと向かっていた。


【参 考】
 〇味取観音
報恩寺の末寺で瑞泉寺といい、味取観音の名で知られていた。山頭火は出家得度を果たした後、法名を耕畝と称してここで堂守(番人)となった。

 〇木村緑平
明治21年福岡県三潴郡浜竹村(現柳川市)生まれ。大正3年、当時医学専門学生だった緑平は、自由律俳句誌「層雲」を知り、投句を始める。山頭火は、緑平よりも一年先に「層雲」で活躍しており、山頭火と緑平は「層雲」を通じてお互いの存在を知った。専門学校卒業後は、病院に就職して炭鉱医として勤務。大正8年、緑平の自宅を山頭火が訪れ、以後、山頭火と生涯を通しての親交を続けることとなる。


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