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西東三鬼の一句鑑賞(一)   高橋透水

2015年08月07日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史
聖燭祭妊まぬ夫人をとめさび

 三鬼がどれくらいキリスト教に対する知識があり影響を受けたかは定かでない。が昭和十年に発表された「アヴェ・マリア」と題した初期の句、〈聖燭祭工人ヨセフ我が愛す〉〈燭寒し屍にすがる聖母の図〉〈咳きて神父女人のごと優し〉などをみると、その後の三鬼俳句とは異質な感じを受ける。
 戦中・戦後と俳句界を駆け抜けた異端児の三鬼であるが、当時としては遅い三十過ぎに俳句を始めた。しかしたちまち俳句のとりこになり、俳句の悪魔にとりつかれてしまった。ホトトギスから距離のあった三鬼は保守俳句の影響を受けることなく、特有の俳句世界を歩んだ。新興俳句や戦後の「天狼」での活躍は特記すべきだろう。突如現れた怪奇な俳人だが、そうした奇人には必ず人と違った過去を持っている。
 明治三十三年、岡山県津山生れの三鬼は、年譜によれば三歳のとき右手首骨膜炎に罹ったが、父の懇願により危うく右腕の切断を免れたという。その父を六歳のとき胃癌で亡くし、母との生活がはじまる。が、十八歳の時に母親がスペイン風邪で亡くなると長兄に引き取られた。こうした幼児体験と愛する人たちの死に直面したことは、終生悲しみの追想を引き起こすことだったろう。
 父の死後、十九歳年長の兄の扶養を受けることになった三鬼は、故郷の津山中学から青山学院中学部に編入し、更に高等部に進学している。この青山の中学部・高等部を通じて、キリスト教や聖書から幾らかの知識を得、なんらかの影響を受けたものと思われる。三鬼の自叙伝的な自己紹介によると、「青山学院中学部に転学し、メソジスト教育を受けた」とあることからも推測出来きる。
 鑑賞句は学内にあったマリア画を観ての嘱目だろうか、「妊まぬ夫人」とはマリア様のことで、「をとめさび」とは「少女さび」つまりマリアは少女らしく見えたということだろう。三鬼の女性観察の眼は既にこんなところにもあったのである


俳誌『鷗座』 2015年8月号より転載