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金子兜太の一句鑑賞(15) 高橋透水

2017年10月13日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史
 夏の山国母いてわれを与太と言う 兜太  

 初出は、「俳句」昭和六十年九月号。句集『皆之』に収録された。兜太が「海程」の十月号より、同人代表から主宰になり、指導力を発揮していった時期にあたる。
 掲句作句時は、十八歳の時に嫁いできたという母は八十四歳、兜太六十六歳になっていた。兜太が何かの用で故郷の秩父へ立ち寄ったとき、いつものように母は笑顔で迎えてくれた。八十四歳といっても長寿を誇った母であるから、まだまだ元気なときだ。「夏の山国」の措辞からは、からっとした、明るい夏の風土の感じが表れてくる。母子は軽い冗談を交わしたかもしれない。
 「俳句なんかやるんじゃないよ。あれはけんかだからね」と以前から母にいわれてきた。長男でありながら、医業をつがず、俳句を生業にしている兜太は母親からみれば「与太」と呼ぶべき存在だったのだ。『金子兜太・自選自解99句』によると、「母は、秩父盆地の開業医の父のあとを、長男の私が継ぐものと思い込んでいたので、医者にもならず、俳句という飯の種にもならなそうなことに浮身をやつしてる私に腹を立てていた。碌でなしぐらいの気持ちで、トウ太と呼ばずヨ太と呼んでいて、私もいつか慣れてしまっていた。いや百四歳で死ぬまで与太で通した母が懐しい」とある。
 夏を詠んだ句に〈夏の母かく縮んでも肉美し〉があるが、子を思う母心、母慕う子の心は、いくつになっても変わらないものだ。ほかに母を詠った〈伯母老いたり夏山越えれば母老いいし〉〈老い母の愚痴壮健に夕ひぐらし〉などがある。極め付きは〈長寿の母うんこのようにわれを産みぬ〉だろう。まことに豪快な母親だった。
 しかし気丈夫とはいえ、母の老いは隠しようがない。とうとう二人に逆らえない別れのときがきた。百四歳まで生きた母であるが兜太は悲しみを隠せない。〈母逝きて与太な倅の鼻光る〉母の死に直面し涙を堪えて鼻を赤くした。誠に羨ましい母子関係であった。
 

   俳誌『鴎座』2017年10月号 より転載