透水の 『俳句ワールド』

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芭蕉は松島の句はなぜ出来なかったか 高橋透水

2020年04月11日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史
 急ぎに急いだ松島

 
 芭蕉は、「おくのほそ道」の中で松島の句を示していな
い。その訳は服部土芳の『三冊子』にある「師のいはく、
『絶景にむかふ時は、うばはれて不叶』」をもとに考えれ
ば、松島では、「扶桑第一の好風」をまのあたりにし、感
動の余り思うように句が作れなかったということになる。
 その一方で、中国の文人的姿勢「景にあうては唖す(絶景
の前では黙して語らず)」に感化され、意識的に句を示さ
なかったとする見方もある。つまり、「師、まつ嶋にて句
なし。大切の事也」ということか。
 しかし、現実はどうだったか。一つに芭蕉の体調不良が
考えられるが、それよりも松島に月は出ていたが、芭蕉の
イメージしていた光景は見られなかったのではないか。た
とえ見えても梅雨時の朧月のようなものだったろうから、
とても仲秋の名月のような光景は期待できなかった。
 芭蕉は西行が訪れた瑞巌寺へ行き、「彼の見仏聖の寺は
いづくにやとしたはる」と記している。「見仏聖」とは、
『撰集抄』などに登場する人物だが、西行が慕った平安末
期の高僧でほぼ仙人のごとき能力の持ち主だった。そんな
西行も松島の歌を残していないし、能円の歌も残ってい
ない。そんな先人への芭蕉の配慮があったのだろうか。
 ここで当時の社会状態を参考のために見てみたい。この
頃(芭蕉がおくのほそ道に出発する前)数年続いたという
群発地震によって家康を祀った東照宮、三代家光の霊廟大
猷院が破損していた。その改修あるいは改築を命じられた
のが伊達藩(仙台藩)であった。その莫大な費用捻出のた
めに家老たちは頭をいためていた。芭蕉はそんな現地の様
子を伺う目的があったのではなかろうか。
 「おくのほそ道」に記すことはなかったが、芭蕉の句に
「島々や千々に砕きて夏の海」という松島を詠んだものが
あり、本句は「蕉翁全伝附録」に、「松島は好風扶桑第一
の景とかや。古今の人の風情、この島にのみおもひよせて、
心を尽し、たくみをめぐらす。をよそ海のよも三里計にて、
さまざまの島々、奇曲天工の妙を刻なせるがごとく、おの
おの松生茂りて、うるはしさ花やかさ、いはむかたなし」
の前書付きで所収されている。
 それにしても、「おくのほそ道」の松島の下りは、漢文
調で美文的すぎる。しかもこれは「抑ことふりたれど」と
あるように、「松嶋眺望集」その他の文献を念頭にして綴
った表現が多々みられる。実感が感じられないということ
は、松島は芭蕉が期待したほどの景勝地でなかったか、芭
蕉になんらかの(私的な)事情があってのことだろう。つ
まり芭蕉が句を詠む状況でなかったと考えられる。



富沢赤黄男の一句鑑賞(11)高橋透水

2020年04月05日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史
草二本だけ生えてゐる 時間   赤黄男

 戦後の富沢赤黄男の活躍の場として「太陽系」(のちの「火山系」)などだったが、昭和二十七年八月に「薔薇」が創刊された。権威に絶対屈しないとう信念に、高柳重信らが活躍した。二十六年に句集『天の狼』が改版発行され、翌年に高柳重信、本島高弓らとともに「薔薇」が洋々と船出したのである。さらに同年末に句集『蛇の声』が出版されるなど、目まぐるしく活躍の場を広げていった。
 さて鑑賞句は「薔薇」昭和二十七年十月号が初出であるが、句の背景にあるのは戦禍に見舞われた風景のイメージだろうか。それとも戦後の廃墟と化した焼野が原か。はたまた赤黄男の枯れきった心象か。
 いずれにせよ「草二本だけ」の措辞は、乾燥地でいかにも頼りなさそうな、あるいは寒々とした光景を想像させる。 確かに、一読して「草二本」という存在はいかにもひ弱そうで頼りない。が時間の現出の経過過程で、途端に存在感が浮き上がってくる。そこには実存するものと時間という非実存の世界、具象と抽象の取り合わせの、いわばねじれ重なった世界が浮かんでくる。
 それでは「草二本」は何の象徴か。焼野が原に現れた新しい生命か。男女か親子か。見方が変わると、この句はモノクロの写真として目に飛び込んでくるが、やがて動き出す。それは「時間」という措辞があるからであろう。従ってそのときは立ち上がり来る「草二本」の映像を捉え鑑賞することになる。それにしても時間は過酷であり時には残酷だ。また時にはやさしく未来への希望でもある。
 ところで赤黄男の俳句に戦争体験が大きくかかわっていることは確かだ。が、過酷な体験を直接的に俳句にすることはない。あくまでも詩として表現しようとする。もので語ろうとする。色彩で表現しようと苦慮する。俳 句を詩と考える赤黄男には、旧態依然とした俳句形式は物足りなかったのだ。新しい試みとしての一字空白である。この効果的な手法は後の『黙示』に多用されることになる。

  俳誌『鷗座』2020年1月号 より転載

ベランダより鳥瞰すれば         高橋透水

2020年03月15日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史

 燕が切る空の十字はみづみづし 福永耕二

 緑の少ない都会の雑多の地に、こんなにも多種の鳥が生活していたのかと驚かされることがある。ちょっと都心を離れただけで、留鳥はいうまでもなく渡り鳥にさえ出会うことは決して珍しいことではない。
 中野区上高田には寺が多い。関東大震災で当時江東地区などにあったお寺が、こちらへ引越してきたらしい【補足1】。また著名人のお墓も多い【補足2】。わたしはそんなお寺を見下ろすマンションの九階にすんでいる。東向きで日当たりは申し分なく、寺のお墓の樹木が小さな公園を隔てて眼下にひろがっている。墓参に来る人たちも墓守の働く姿もつぶさに眼に入ってくる。こんな寄り集めの森に鳥が飛来し、まさに鳥を鳥瞰できる高さにいるわけである。 
 私はここの住まいが気に入っている。この小さな公園とそれに続くお寺の木立から、夜明けと同時に様々な鳥の声が聞こえてくるからだ。鴉や雀はもちろんのこと鶯、目白、四十雀、椋鳥、鵯鵯、鶫、頬白、尾長、雉鳩それに鶺鴒・インコなどだ。インコは恐らく飼われていたものが野生化したのだろう。
 自慢は寺町の屋根を行き交う燕で、春から夏過ぎまで観察できることだ。巣はどこにあるのか見当はつかないが、目の前の空間が森から餌を運ぶルートになっているらしい。
これらを九階のベランダからのんびりと観察できるのだ。まさに鳥を鳥瞰できる高さにいるわけである。低からず、高からず程よい場所である。
 鳥の声で目覚め、ベランダからの鳥の観察で一日が始まるわけで、ときにより双眼鏡でこれらの鳥の生態をじっくりと眺めて楽しんでいる。鳥の種類により啼く声も生活習慣も違い、それなりに面白い行動も発見できる。烏の子別れ。小雀の甘える声。鵯の懸命な恋のアピール。困るのは、鳩が巣作り場所を探してベランダに来ることだ。何度追ってもまた来る。なかなか逃げない。巣を求める必死な姿に根負けしそうだが、ベランダでは他の住民の迷惑になるので追わねばならない。
 今朝も烏の声で目覚め、鵯の美声で再び夢の世界にもどった。今は青葉風を窓から迎え入れ、鳥声に耳を傾けられる一年でもっとも楽しい朝である。

  初鴉わが散策を待ちゐたり       相生垣瓜人
  寒雀身を細うして闘へり        前田普羅
頬白やひとこぼれして散り散りに    川端茅舎
  燕が切る空の十字はみづみづし     福永耕二
  四十雀絵より小さく来たりけり     中西夕紀
  たべ飽きてとんとん歩く鴉の子     高野素十
  鶫死して翅拡ぐるに任せたり      山口誓子
  鵯のこぼし去りぬる実の赤き      与謝蕪村
  石たたき水なき水を叩きけり      名和未知男
  椋鳥の大旋回の殺気かな        清水静子
  
【補足1】以下1,2は「まるっと中野編集部」より引用しました。
中野区の上高田には寺が多く寺町として形成されている(宗清寺、源通寺、光徳院、東光寺など)。なんらかの事情で他所から移転してきた時期が明治40年の初頭というがその理由は判然しないという。
【補足2】
中野の歴史 近代編
江戸時代前期では、島原の乱の鎮圧軍の指揮官ながら討死した悲劇の武将「板倉重昌」(宝泉寺)のお墓があります。中野区登録有形文化財のりっぱな五輪塔です。江戸時代中期では「忠臣蔵」にゆかりのある人々が挙げられます。仇とされた「吉良上野介」と吉良家四代の墓(万昌院功運寺)は宝篋印塔と呼ばれる格式高い墓で中野区登録有形文化財です。松の廊下で浅野内匠頭を取り押さえた「梶川与惣兵衛」(天徳院)、幕末に赤穂浪士「赤垣源蔵」をモデルとした作品を書いた劇作家「河竹黙阿弥」(源通寺)などのお墓もあります。
学者でかつ老中まで上った東京都旧跡の「新井白石」(高徳寺)の墓は、直方体のユニークな形をしています。
江戸時代後期から幕末にかけては、浮世絵の最大派閥の創始者「初代歌川豊国」(万昌院功運寺)、江戸三大美人の一人「笠森お仙」(正見寺)、外国奉行としてロシアとの外交に尽力した「水野忠徳」(宗清寺)、幕府の遣米使節としてアメリカに渡った「新見正興」(願正寺)など、まさにスーパースターばかりです。
(中野区立歴史民俗資料館 館長 比田井克仁)

富沢赤黄男の一句鑑賞(10)  高橋透水

2020年03月10日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史
切株はじいんじいんと ひびくなり 

 初出は「太陽系」(昭和二十三年十月号)。
 「虚無の木」のなかの一句。〈切株はじいんじいんと 鳴り潜む〉が原型である。
 切株がひびくのであるが、赤黄男が特別聴覚に優れていたというわけでない。表現したいなにかがあって、それを事物や事象を借りて詩的に表現するのに長けていたのだろう。
 「じいんじいん」はいかにも斧で伐られた傷口がうずいている様子が見えるようだ。その傷がいつまでも疼き空気感染のように赤黄男の耳に届きやがて共振し共鳴するのである。
 現実的な伐採は、道路や宅地開発であったり、家屋の資材やときには神社仏閣の材料として平和使用され、はたまた船など軍需目的で伐採されたこともあろう。もちろん赤黄男の見た切株はそうした伐採を連想させたりするが、「じいんじいん」は樹木の痛みを想起させ、もっと深い意味をかかえている。
 やはり、「ひびくなり」は切株の痛々しい姿を超えた、赤黄男の心の痛みがみえてくる。長い軍隊生活で、赤黄男もまた戦争によって体に見えない傷を負い、精神も極限に追い込まれたのだ。心身の傷はじいんじいんといつまでも体を駆け巡るのである。赤黄男には切株の句が十二句ほどあり、すべて戦後の句というがそれを証左している。
 〈切株に 人語は遠くなりにけり〉
 〈切株の 黒蟻が画く 黒い円〉
 〈切株に腰をおとせば凍みいる孤独〉
など代表的に挙げることができる。これらは一概にはいえないが、赤黄男のメタファーないしシンボルである。つまり苦悩である。戦争で負った傷などたやすく癒えるものでない。
 そして時おり赤黄男の内面が吐出する。〈地平線 手をあげて 手の影はなし〉〈葉をふらす 葉をふらすとき 木の不安〉〈寒い月 ああ貌がない 貌がない〉
 「影はなし」「不安」「貌がない」などに赤黄男の戦中戦後の精神の不安感や喪失感、あるいは虚無感などがみられる。が、俳句に純粋詩を求める態度は一貫し保ちつづけた。
   俳誌『鷗座』2019年12月号より転載

富沢赤黄男の一句鑑賞(9)高橋透水

2020年02月23日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史
あはれこの瓦礫の都 冬の虹  赤黄男

 昭和二十年四月、赤黄男は空襲で焼け出され、武蔵野市吉祥寺の叔父の家に世話になった。終戦を迎えたのは四十三歳の時になる。
世情混乱のなか文芸活動は戦後まもなく興り、俳句界も二十一年には『太陽系』が創刊され、その東京支社を赤黄男は自宅においた。
 「瓦礫の都」の句は昭和二十一年五月号の『太陽系』に発表された。これは空襲で焼野原となった首都東京のことを詠ったものだ。米軍の空襲はすさまじく、ビルは焼けただれ、特に東京の下町は死体の山となり、街は黒い大地と化した。
 同時期の句に〈乳房に ああ満月のおもたさよ〉〈乳房や ああ身をそらす 春の虹〉〈母よろこびの掌をひらひらと入日かな〉また〈風をゆくうしろ姿の母とわれ〉などがある。戦後の混沌のなかで早くも母恋の句やエロスの世界を展開している。国民は兵役から解放されたが、貧困はむしろそれからであった。そんなときふと赤黄男は母のことを思いだしたのだろう。若いころに亡くした実母への深い追慕は年齢に関係なく強まってくる。
 また〈葉をふらす 葉を降らすとき 木の不安〉があるが、見方を変えればこれらの句には戦後の混乱と失意のなかで生を取り戻そうとする必死な模索を感じとることができる。
 和二十七年、赤黄男の第二句集『蛇の笛』が刊行されたが、その覚書には、
  「この十年こそは、全くおそるべき年であった。最後の崩壊へ追ひ詰められてゆく焦躁と混乱と自棄。更に敗戦の絶望と荒廃。
 自己を喪失し、虚妄を追ひ、荒地を彷徨したこの歳月。そして私もこの黒い底に沈み堕ちながら、匍ひ上らうともがき苦んだ年月
 であった。」
と述べている。
 これはなにも赤黄男だけの生活感でなかった。国民の大方は同様な苦しみのなかにいたのである。苦しい戦時を乗り越え、戦後の食糧難を乗り越え、戦のない平和を味わいつつ少しでも明るい将来へと必死に働いたのだ。

  俳誌『鷗座』2019年11月号より転載

一人吟行の勧め    高橋透水

2020年02月18日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史
  一人 吟行を楽しむ

 

仲間二十人くらいで月に一回は吟行句会を行っている。そのほか誘われるまま十人前後の近郷吟行や、また気の合った俳友数人と小旅行を兼ねての吟行を行ったりしている。この数人の酒を交えての句会が一番楽しい。
 しかし他人のいる吟行ではどうしても時間の制約があり、ついつい観察に没頭して遅刻したり迷子になったりの失態が何度もあり、迷惑のかけっぱなしだ。
 最近、周りの人よりゆっくり歩いている自分に気づいた。これは決して年齢の所為だけでない。無意識に街中の人々の動きや店の佇まい、商品に視線が走っているからだ。
 一人旅行も実施している。時間を気にして、忙しくあちこち歩き回るのでなく、一つの町や観光地を一日もかけて同じ街並みをゆっくり歩くのだ。そうすると一回目より、二回目三回目のほうが、新しい発見があり、立体的な見方もできる。地元の人との会話も楽しめる。なにも遠出でなく、近くでも、季節を変えて訪れるとまた違った発見があるものだ。
俳句は座の文芸であるから、吟行はグループで行うことはもちろん大事だが、一人吟行もそれなりの収穫が多いのでぜひお勧めしたい。
 しかし一人吟行といって、せいぜい数日のことで、漂泊などよりほど遠いことはいうまでもない。つまり現代では表面的な心のなかでの、疑似漂泊で満足するしかないだろう。
   旅人と我名とよばれん初時雨 芭蕉
 今日、旅行していても旅人などと呼ばれることなどまずないだろう。まして山頭火の
   この旅、果もない旅のつくつくぼうし
   分け入っても分け入っても青い山
などの心境は憧れても現実的にはとても無理なことである。漂泊など死語に近く、定住漂泊などといっても帰るべきところがちゃんとある。現今の旅はガイドブックを頼りの先人の疑似体験でしかない。その点、一人旅は自然と対話をしながらの現代的な発見がある。

富沢赤黄男の一句鑑賞(8)高橋透水

2020年02月09日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史
 石の上に 秋の鬼ゐて火を焚けり
 
 
 発表されたのは戦後の句集『蛇の笛(「三元社・昭和二十七年)にある句だが、作られたのは昭和十六年で、初出はその年の『公論』九月号である。この奇異な句は、どんな状況でどんな心境で作られたのだろうか。作句時の前年である昭和十五年ころから、赤黄男の動きを見てみよう。
 日中戦争で中支から南支いた赤黄男は昭和十五年、戦場でマラリアに罹り帰国している。この間中尉に昇進するも召集解除された。昭和十六年再度召集を受け善通寺の部隊へ入隊した。そして翌年北千島の守備に着いたが、昭和十九年に召集解除された。この間、十六年に代表句〈蝶墜ちて大音響の結氷期〉をふくむ処女句集『天の狼』を刊行している。
 さて、昭和十五年に病気になり帰国したときに赤黄男が目にしたのは、治安維持法違反の名目による俳人の検挙だった。なかでも、「京大俳句」を中心に検挙者は多数でた。そんな国情の厳しいなか昭和十六年に急いで句集『天の狼』の出版にこぎつけたものの、心は決して安らかでなかったことだろう。
 この頃から一字空き(一字空白)の句が目に付くようになる。同時代に、〈大地いましづかに揺れよ 油蝉〉〈虹を切り 山脈を切る 秋の鞭〉〈蒼空に けらけら嗤うたり 柘榴〉などがある。
 これらの一字空きは単なる切れでない。時間の経過や空間をとることで短兵急な思考の停止を求めているのだ。その分読み手は自由でしかも思考の広い鑑賞ができる。
 では「秋の鬼」とはなんの象徴か。また、「火を焚く」のはなんのために行うのか。おそらく「秋の鬼」は、お盆のころの鬼と考えてもおかしくない。「火を焚く」は、行事としては「迎え火」「門火」「流灯」「火祭」などがあるが、それらを念頭にした赤黄男独自の世界だろう。また鬼は赤黄男自身とすると火を焚くのは戦場でいのちを落した戦友の鎮魂のためとも考えられる。いや自分自身へ火を焚くごとく、赤黄男は戦場へ向かった。
   俳誌『鷗座』2019年10月号より転載


富沢赤黄男の一句鑑賞(7) 高橋透水

2019年12月31日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史
  蝶墜ちて大音響の結氷期 (二)
 
 赤黄男は写生俳句を超えたイメージによる象徴俳句を得意とした。それは時に難解とされ作り物めいた俳句という批判が、ややもすると忌避的な悪評につながったりもした。また「二物が極限にまで離されたのがシュールリアリズムである」とする人達からは、赤黄男の句はあまりにも離れすぎているので、句をなしていないと酷評された。
 「蝶堕ちて」も「大音響」も大仰な表現である。しかしここがこの句の眼目である。蝶の堕ちたくらいのちょっとした音も赤黄男の耳から頭へと大音響になって響いたのだろう。赤黄男は音に敏感だった。たとえば〈木々の芽のしづかなるかな蒼空(そら)の音〉〈切株はじいんじいんと ひびくなり〉(蛇の笛)や〈月の音 あるひは埋没都市の響〉(黙示)
などが挙げられる。
  鑑賞句は、高屋窓秋の〈白蛾病み一つ堕ちゆくそのひびき〉の影響がみられもする。新興俳句の生みの親である水原秋桜子から離れた窓秋であったが、やがて馬酔木にみられない独自の世界を展開した。そうした先駆者のの背をみながら赤黄男も詩としての俳句を模索し展開していった。
  またこれもよく言われることだが、〈爛々と虎の眼に降る落葉〉〈凝然と豹の眼に枯れし蔓〉〈日に憤怒(いか)る黒豹くろき爪を研ぎ〉など、「蝶」のほかに「狼」「虎」「豹」などの動物を題材にした句も多い。ただしいずれも日本にない風景であるが、いずれにせよ赤黄男の内部感情の表出とみてよい。
またこの時期の俳人たちに、想像による戦火想望俳句も試みられ、さらに厭戦句もつくられた。一方で「京大俳句」「土上」などの主要メンバーが治安維持法違反として検挙され、この運動は壊滅に至った。新興俳句運動は、現代俳句の母胎となる画期的な俳句革新運動であり、多くの秀作を残した。しかし赤黄男は「『新興俳句は、流行であるか。それはかなしい「さくら音頭」であるか。刻々の永遠の流行である』と皮肉たっぷりに述べている。 

 俳誌『鷗座』2019年9月号より転載

 

富沢赤黄男の一句鑑賞(6) 高橋透水

2019年12月14日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史
蝶墜ちて大音響の結氷期

 初出は「旗艦」昭和十六年一月号。多少のずれはあろうが、句作は十五年の末ごろと思われる。句集『天の狼』では「結氷期」と題された連作のひとつである。
 初案は「蝶絶えて」であり、また〈冬蝶のひそかにきいた雪崩の響〉と並んで発表されていることから、「蝶」と「雪崩」また「蝶墜ちて」と「結氷期」の取り合わせも頭の中では同床とみてよいだろう。ただ、一般的に「雪崩」の音は機会があれば聞くことできるが、「大音響の結氷期」は難しい。が、詩の世界では可能である。
 結氷期は解氷期の反対でまさに氷ゆく季節だ。どんな大音響でも鎮まりやがて氷つく。
 静→動→静であるが、最初の静と後の静はもちろん異質である。蝶が硬い氷の上に堕ち粉々になる。頭のなかで大音響がおこる。その後はいっぺんに頭が凍り付く結氷の世界である。これらが一瞬にモンタージュ的に頭を過るのである。黒→白→空白になる。
 さらに時代背景を念頭に一つの仮説としてみるこにしたい。つまり背景にあるのは昭和十年代の新興俳句の興隆と、それにともない国から危険視され弾圧や検挙された時代のことである。代表的なものは京大俳句事件であるが、昭和十五年二月に平畑静塔、井上白文地、仁智栄坊ら『京大俳句』の関係者が検挙され、同年五月に三谷昭、渡辺白泉、石橋辰之助らやはり『京大俳句』の関係者が検挙される事件があった。
 これら言論弾圧の重苦しい時代背景を結氷期といったのか。そこへ無抵抗の蝶と化した俳人が次々と堕ちていったと見立てたのか。
ここでの蝶は季語を超えた赤黄男の頭脳に展開された蝶である。赤黄男によれば(蝶はまさに〈蝶〉であるが、〈その蝶〉ではない。)(「クロノスの舌より」)ということか。
 この大音響は警報として外部に放たれたが、他の俳人や文化人は容易く堕ち、また結氷する前に他の安全な場所に転向した。そうして国民は過酷な戦地へと刈り出されたのである。

  俳誌『鷗座』2019年8月号より転載

富沢赤黄男の一句鑑賞(5) 高橋透水

2019年11月02日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史
爛々と虎の眼に降る落葉 赤黄男  

 「旗艦」昭和十六年三月号初出。『天の狼』の巻頭句である。
 赤黄男は中支へ出征転戦後に中尉に昇進していた。他の俳人も多く戦場に駆り出されたが、それでも句への情熱は失っていなかった。
国内では銃後の戦争俳句ともいうべき句が各俳誌に載り、『旗艦』も「戦信」を掲載するようなった。掲句はそのころのものだろう。
 この句の「虎の眼に降る」は虎の眼前に落葉が降っているのか、落葉が虎の眼に映っているのが見えるのか、虎と化した赤黄男の眼中に落ち葉が降りしきるのか、読者は行ったり来たりする。いずれにせよ動物の眼を借りることにより、「静止画」が動き出す。この動きを読み手は実際に見ているかに錯覚する。今日の映像技法にもある手段だが、ここにリアリティ感が生じてくる。
 この句には戦場の悲惨さは消されている。結果、作者の悲痛な叫びのようなものは吐露されていない。ちなみに他の俳人の戦場句をみてみると、〈なにもない枯野にいくつかの眼玉〉〈我を撃つ敵と劫暑を倶にせる〉〈屍らに天の喇叭が鳴りやまず〉以上片山桃史。また〈おぼろめく月よ兵らに妻子あり〉〈雪の上にうつ伏す敵屍銅貨散り〉〈大兵を送り来りし貨車灼けてならぶ〉以上は長谷川素逝だが、赤黄男との違いは明らかだろう。
 赤黄男の同時句に〈凝然と豹の眼に枯れし蔓〉があるが、さらに虎の句として、〈日に吼ゆる鮮烈の口あけて虎〉〈冬日呆 虎陽炎の虎となる〉〈密林の詩書けばわれ虎となる〉などが挙げられる。また、〈日に憤怒る黒豹くろき爪を研ぎ〉〈黒豹はつめたい闇となつてゐる〉〈豹の檻一滴の水天になし〉や〈凝然と豹の眼に枯れし蔓〉といった「豹」を詠んだ句がある。
 赤黄男は動物を借りてなにを表現したかったのだろうか。直接的な怒りや悲しみではなく社会の矛盾を感じ孤独感を裡に秘めながらも、あからさまな感情や戦場の悲惨な描写を避けて詩としての俳句表現を志したのである。

  俳誌『鷗座』2019年7月号より転載

鷹羽狩行の一句鑑賞

2019年10月03日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史


蛇よりも殺めし棒の迅きながれ   鷹羽狩行

 昭和五十一年の作で、第五句集『五行』に所収されているが、この
句集には、気になる句が沢山ある。句集の後記で狩行は、「この句集
は昭和四十九年から同年五十一年までの間の作品から、五百二十句
を選んで収録した」とある。年齢でいうと四四歳から四六歳くらい
にあたる。
 この時期にどんな心理的な変化があったのか知らないが、〈空蝉の
なほ苦しみを負ふかたち〉〈生と死の生の暗しや蝌蚪の水〉〈蟻地獄
飢ゑてゐずやと砂こぼす〉等々生き物、小動物を題材にした句が多
くなっている。また動物でないが、〈黴の世の黴も生きとし生きるも
の〉がなどが見られ、〈恐いものみたさ湿地を草の絮〉のように、ず
ばり「恐いものみたさ」という措辞さえ使用している。
 ところで、狩行は掲句の自解のなかで、師である秋元不二男に「〈殺
されて流れきし蛇長すぎる〉があり、この句の根底にあったかもしれ
ぬ」と述べている。また「根源俳句」を唱えたもう一人の師であった
山口誓子の影響が根底にあると評されることもあるが、もうこの時代
での狩行の表現手段としては誓子の影響は希薄になったとみてよいだ
ろう。
 むしろこの句とよく引き合いにだされるのに、高浜虚子の〈流れ行
く大根の葉の早さかな〉がある。さらに虚子の〈蛇逃げて我を見し眼
の草に残る〉の句なども心底にあったのかも知れない。
やはり狩行の句は変幻自在であり、知的な俳人だ。秋元不二男の言
葉でいえば、「バランス・素材選別・決定的把握・関係づけ・構図の取
り方、そういう操作工夫が見事だ」ということになるだろうか

富沢赤黄男の一句鑑賞(4)高橋透水

2019年09月14日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史

 戛々とゆき戛々と征くばかり 赤黄男

 『戦艦』昭和十二年十一月号初出。赤黄男が陸軍少尉として中国へ出征した折の句である。「戛々」は固い物が触れ合う音で兵隊・軍馬・砲車などが広大な荒野をあてどなく行軍している様子を連想させるが、この場合はそうした実景というよりむしろ未知の大陸を行軍するときの、何かに追われるような心的な描写であろう。行けども見えない戦場に向かう緊迫感が「戛々」のリフレーンで表われている。
 昭和十二年五月、生活の困窮が続く赤黄男に招集があったが、病気のためすぐに解除されている。しかし間もなくその年の九月には支那事変の動員が下り、香川県善通寺の工兵隊に入隊した。三十五歳のときである。さらに十一月に中支へ出征し、転戦の日々を過ごすことになるが三十の半ばといえば決して若くなく、体力の負担は大きかったろう。
 昭和十三年、日野草城は「『旗艦』に於ける事変俳句」について書いた。この頃から俳壇に戦争俳句が流行し、赤黄男は『旗艦』八月号に、〈落日をゆく落日をゆく真赤い中隊〉を発表し好評を得た(ただし句集に載せなかった)。このころ赤黄男は中尉に昇進している。
 昭和十四年、軍事郵便で送られてくる赤黄男の前線俳句が、しばしば『旗艦』に載るようになった。『ランプ』と題し「潤子よお父さんは小さい支那のランプを拾つたよ」と前書きのある連句は、単に戦闘や戦場の悲惨な様子を描写した前線俳句でなく、むしろ情緒的な句である。何句か挙げると、
  落日に支那のランプのホヤを拭く
  やがてランプに戦場のふかい闇がくるぞ
  靴音がコツリコツリとあるランプ
  灯をともし潤子のやうな小さいランプ
  このランプ小さけれどものを想はすよ
など。最後の二句は愛娘の潤子に呼びかけたもので、家庭を想う父親像が窺われる。しかしまた一方では〈鶏頭のやうな手をあげ死んでゆけり〉のような句がある。赤黄男は戦士たちの悲惨な死をまざまざと見たのである。

  俳誌『鷗座』2019年6月号より転載

富沢赤黄男の一句鑑賞(3) 高橋透水

2019年08月10日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史
秋風の下にゐるのはほろほろ鳥 赤黄男 

 『旗艦』昭和十一年十二月号に初出。
 「秋風」そして「ほろほろ鳥」、それだけで物悲しい赤黄男の心情が伝わってくる。秋風の下にいるほろほろ鳥は鳴いていなかったかもしれない。しかしこの句を読むと、秋風の中にけたたましくも哀し気なほろほろ鳥の声が聞こえてくるのだ。
 同時代の〈落日の巨岩の中に凍てし鴉〉も落日のなかの鴉がなんとも哀れに浮かぶ。ほろほろ鳥も鴉も赤黄男の内面の影のようだ。
この頃の赤黄男の生活をみてみよう。
 昭和十年、日野草城の俳誌『旗艦』創刊と同時に、赤黄男は同誌の同人となり新興俳句の作り手として頭角をあらわすことになる。先人としての高屋窓秋に傾倒し、また「俳句は詩である」と宣言するなど新興俳句の理論的展開も担った。当時の句日記に、「本当に俳句をやりたくなった。旗艦が創刊せられる事は現在の僕には初めて俳句を心からはじめる気を起さしめる」と俳句への情熱と並々ならぬ決意を記している。
 他方で私生活は不安定な状態が続き、昭和十一年二月に妻の実家が経営する酒造会社に入社するも、その年の十二月に退社する。間もなく病気の父を残して大阪に向かい、水谷砕壺の世話を受けながらも苦しい生活が続く。砕壺は赤黄男のよき理解者としてその後も物心両面から援助を受けることになる。
 昭和十一年四月に父が死去し、赤黄男自身も肺炎にかかるなど生活はどん底を迎えた。
 そのころの生活環境を窺わせる句がある。
〈さぶい夕焼である金銭借りにゆく〉や〈金銭貸してくれない三日月をみてもどる〉などである。(ただし金銭は「かね」と読む)。
 父の死後、生活苦のため義母は赤黄男たちから離れた。そうした困窮に喘ぐ赤黄男一家に金を貸してくれるものは誰もいなかった。
 ついに祖父の代からの土地を手放し、年の暮れに砕壺の世話で大阪に家を借りた。そこで職に就くも、勤務は長続きする性格でなかった。まさに秋風の身に沁みる生活が続いた。

俳誌『鴎座』2019年5月号より転載

富澤赤黄男の一句鑑賞(2)高橋透水

2019年06月28日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史
恋びとは土竜のやうにぬれてゐる 赤黄男

 「旗艦」昭和十年七月号初出。これは赤黄男の自作の短詩が元になっているようだ。同年四月十八日の「句日記」には『土竜』とあり、
    男は
      乳のしたたりに
    女の胸の中で、
    土竜のやうに濡れてゐる
と記されていることから推測できよう。読み方によってはエロチックであり、男女の営為を連想させもする。さらに「恋びと」は女性というより男性、いや赤黄男自身のことだろうとも推測できる。
 土竜はほんとに濡れる動物なのかなどと問うのはいらぬ詮索で、土竜のイメージから連想して鑑賞すればよいだろう。日野草城の連作、「ミヤコ ホテル」十句が昭和九年「俳句研究」四月号に発表されたが、エロチシズムはそんな影響があったか。
 またこれは赤黄男のエディプスの現れともとれる。作句時の赤黄男は三十三歳であるが、十二歳のときに下の妹田鶴子をまた十六歳のときに母ウラを亡くしている。赤黄男七歳のとき、母は妹粽を出産後に病気になった。エディプスコンプレックスになったのは母を慕うそんな要因があったのだろう。同時期に〈南国のこの早熟の青貝よ〉などの作があるが、これはどちらかというと自己愛的な作品といってよい。また他方では、〈マスクして主義捨て去りし身を痩せぬ〉〈春怨のつむれる瞳(まみ)とペルシヤ猫〉など自画像や生活を詠んだ句も散見でき、作柄は多様である。
 この頃は日野草城の影響を思わせる句の他、モダニズムの手法もみられ、まだまだ赤黄男は思索や模索の時代であったといってよい。
それにしても、〈けふも熱き味噌汁すすり職を得ず〉〈妻よ歔いて熱き味噌汁をこぼすなよ〉などの句をみると、鑑賞句のような体感的な世界との差異に驚かざるをえない。これはその後頻出するが、心情を外在のもの、特に動物などで象徴する句作の萌芽だろう。

 俳誌『鴎座」2018年4月号より転載

富澤赤黄男の一句鑑賞(1) 高橋透水

2019年06月01日 | 俳句の鑑賞・俳句の歴史
波の上に佐田の岬の霞みけり 赤黄男

 赤黄男は明治三十五年、愛媛県保内町川之石村(現・八幡浜市保内町)に長男として生まれている。父は地元の開業医であった。
 鑑賞句は俳号を蕉左右(しょうぞう)と名乗っていた昭和七年三十歳ころの作。佐多岬は赤黄男の郷里に近い。久し振りの帰郷で波の上の霞を懐かしんだのだろう。赤黄男らしさがでるのはもっと後年のことになり初期のころはまだまだ一般的な定型句である。
 さて今月号より赤黄男の一句鑑賞をはじめるにあたり、その経歴や社会的位置づけ、また初期の俳句の特色などみてみたい。
 俳句を始めたのは二十一歳のころからである。家業の医師を継ぐことを嫌い、早稲田大学の政治経済学部に進学した。大学生時代に、松根東洋城門下の俳人に勧められ、それをきっかけに『渋柿』へ投句をはじめた。
 大正十五年、早稲田大学を卒業し就職したものの、その年広島工兵隊に入隊。昭和二年除隊されて職場に復帰するが、間もなく大阪に転勤。昭和三年、二十六歳のとき結婚して城東区生野町に新居を持った。
 昭和五年、職を辞し郷里川之石に帰る。医師をやめて木材の会社を始めた父を手伝うも、事業は失敗し、借財のみ残ることになる。
 同じ昭和五年ころ、川之石の俳句グループ「美名瀬吟社」の仲間になった。上田白桃の紹介で山本梅史の主宰する『泉』に入り、本格的に俳句を始める。〈団栗を拾ふことなどなつかしき〉〈炬燵から山を眺めてばかりかな〉の二句が『泉』に初入選し、その年末に八幡浜で親睦句会を開いたときに「赤黄男」と改号した。当時、年末になると川之石に柿市が立つがそれに因んだものらしい。
 昭和十年代に新興俳句運動が盛んになるが、日野草城は『旗艦』を創刊した。赤黄男もそれに参加し、評論や時評を発表している。こうして新興俳句の動きに巻き込まれつつも、戦地での生活やマラリアの罹患などが句作に変化をもたらした。やがて句集『天の狼』に見られる赤黄男俳句が形成されていった。


俳誌『鷗座」2019年3月号より転載