透水の 『俳句ワールド』

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芭蕉の発句アラカルト(9) 高橋透水

2022年03月20日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史
ばせを植てまづにくむ荻の二ば哉  芭蕉

 「李下、芭蕉を贈る」の前書きがあるが句の表記に幾通りかあり句作年代も諸説ある。
  芭蕉植ゑてまづ憎む荻の二葉かな 芭蕉
 一般的な解釈は「李下から贈られた芭蕉を植えて、その成長繁茂を楽しんでいると、思いもよらず荻の二葉が芽を出してはびこりだした。毎日眺め、芭蕉の成長を願うにつけて、なんだかこの荻の二葉を憎む気になったことよ」くらいだろう。
 芭蕉庵に入った時期は、古来より説が多いが、延宝八年(一六八0)冬とするのが、ほぼ定説になっているようだ。したがって、この句は延宝九年春の作と推定してよいだろう。
 また草庵のあった場所については推定するしかないが、『知足斎日々記』貞享二年四月九日の条に「江戸深川本番所森田惣左衛門御屋敷」とある。この屋敷がどこにあるかが問題だが、現在の芭蕉記念館近くの、芭蕉稲荷神社付近と考えられている。延宝八年の『江戸方角安見図』に「元番處」の名がある。小名木川と隅田川の合流点にあたるところで、これは関東郡代伊奈半十郎の屋敷に接している。つまり森田惣左衛門御屋敷はこの近くだったと推定される。
 芭蕉がなぜこの屋敷内に住むようになったか不明であるが、ひとつの仮定として芭蕉はかつて世話になった藤堂家の何らかの任務を担っていたのではなかろうか。ここでは詳しく述べられないが、草庵に出入りする人物から推測して、単なる隠棲とは考えられない。(芭蕉庵が火災などにより、場所は幾度もこの近辺に変わっていることとは別問題である)
 李下については詳しい資料は残っていないが、其角・杉風系だったらしい。『芭蕉を移す詞』(元禄五年作)の文中に、「いづれの年にや、栖を此の境に移す時、芭蕉一本を植う。風土芭蕉の心にやかなひけむ、数株の茎を備へ、その葉茂り重なりて庭を狭め、萱が軒端もかくるばかりなり。人呼びて草庵の名とす。」とある。これが桃青からやがて芭蕉と号し、草庵を芭蕉庵と称する所以である。

季語散歩・東風(こち) 高橋透水

2022年02月16日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史
 のうれんに東風吹くいせの出店哉  蕪村

 東風といえば菅原道真の〈東風吹かば匂ひおこせよ梅の花あるじなしとて春を忘るな〉を思い起こすが、春に吹く東の風のこと。一般に春を知らせる風あるが、春の東風から夏の南風へ、秋の西風から冬の北風へ、風の向きは時計回りに季節とともに変わる。
 道真の歌以来、東風は「春を告げる風」「凍てを解く風」「梅の花を咲かせる風」という感じが固定され、春の季語ともなった。
 この言葉はもともと瀬戸内海沿岸を主として各地で用いられる海上生活者の言葉で、生活に密着した言葉だったが、やがて本意を離れ雅語へと変化がみられるようになった。
  路あまたあり陋巷に東風低く 草田男
  噴水や東風の強さにたちなほり 汀女
  嘶きてはからだひからせ東風の馬 林火
 東風は時代と共に本来の季語の意から離れて季感だけの句、二物衝撃的な句も多くみられるようになった。
  夕東風のともしゆく灯のひとつづつ 夕爾
  嘶きてはからだひからせ東風の馬  林火 
 東風は色々な語と結び付けやすく、朝東風、夕東風、強東風、荒東風などの形で用いられる。

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清水ながるる―遊行柳  高橋透水

2022年02月06日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史
 田一枚植て立去る柳かな  芭蕉

『おくのほそ道』に関心があれば〈田一枚植て立去る柳かな〉の句を知らない人はないだろう。しかし芭蕉はこの地に立ち寄ったかは疑問である。立ち寄ったにしても田一枚植えるほどの時間をその場にいたのだろうか。
 一般に芭蕉は西行など先人の跡を追い、それらの歌枕を旅したのだが、『おくのほそ道』の文に西行のことは深く触れられていない。ここでも「清水ながるゝの柳…」とだけ紹介されているだけである。「植て立去る」ことから、じっくりと西行を偲ぶというより慌ただしささえ読み取れる。おそらく旅の出発前に「郡守戸部某」に勧めれたので、あたかも遊行柳の地に寄ったように認めたのだ。
 しかしたとえ遊行柳の地の句が虚構としても、文学として多くの研究と解釈がなされていて、句の重要性は認めざるをえない。それにしてもなぜ「田一枚」なのか。これは当時の神事であって田一枚だけ植えて祈りを捧げたからという説がある。
 もちろん、芭蕉が道中で田植え歌を聴き、田植えの風景に出会ったことは十分考えられる。執筆時、道中で眼にした早乙女たちの姿や田植え歌が耳に残っていたのだろうか。
 ではなぜ芭蕉はあこがれの歌枕「清水ながるゝの柳」の地を確認するくらいで通り過ぎたのか。一つは次の目的地の都合で時間的な余裕がなかった。二つ目として、最初から寄る予定になかった。西行の歩いた道は古東山道であり、芭蕉の通ったのは古奥州街道であるからだ。そもそも現代のわれわれの見る遊行柳の地は田んぼに囲まれているところにあり、清水流れる地形ではない。芭蕉の時代でも遊行柳の地は定かでなかった。芭蕉は『おくのほそ道』執筆時に、謡曲「遊行柳」などを頭に置き、脚色創作したものと思われる。
 さらに近年に、芭蕉の真筆と思われるものが見つかり、「田一枚植て」の句の下(張り紙してある下地の文字)から、「水せきて早苗たはぬる柳かな」という句が読み取られ話題になったことがある。紙で貼られた下の元句は、眼前の光景は水を堰き止め「早苗たはぬる」の農民の姿である。「たはむる」は早苗などを「束ねる」のことだろう。これらは早苗を束ねている情景で、田植えをする早乙女は登場しない。改案である〈田一枚植て立去る柳かな〉は考え抜いて作れ、その分後世に問題点をたくさん残したが、芭蕉の代表作のひとつあることは確かだ。

  俳誌『炎環』2022年1月号より転載

家飲みの功罪  高橋透水

2022年01月30日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史
焼酎や清らかに生き死を待てり  透水

 コロナ禍で家で飲んでいる人も多くなったの聞く。仕事帰りならまず生ビールということになろうが、毎日家にいるとそうはゆかない。暑い日オンザロックでもいいが、焼酎のお湯割りが結構いける。
  もともと焼酎は日本の代表的な蒸留酒で、昔は暑気払いに飲まれたが、今は通年愛飲されている。ご存知のように原料はサツマイモ、麦、米、蕎麦などでどれも日本に伝統的な食材だ。いまでは焼酎は酒屋だけでなく、スーパーなどで気楽に買える。ちょっと贅沢したいなら、鹿児島のイモ焼酎、奄美諸島の黒糖焼酎などが近年大人気だそうだ。
 それにしても家飲みは飽きてきた。みんなで俳句談義でもしながら、わいわい飲みたいものだ。




芭蕉の発句アラカルト(8) 高橋透水

2021年08月28日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史
柴の戸に茶を木の葉搔くあらしかな  桃青

 『続深川集』に収録。前書きに、「九年の春秋、市中に住み侘びて、居を深川のほとりに移す。『長安は古来名利の地、空手にして金なきものは行路難し』と言ひけむ人の賢く覚えはべるは、この身の乏しきゆゑにや。」とある通り、延宝八年、芭蕉(当時は桃青)は深川に移住している。
 またこの句は、『芭蕉翁真蹟拾遺』では、
  冬月江上に居を移して寒を侘
  ぶる茅舍の三句 其の一
  草の戸に茶を木の葉掻く嵐哉
とある。ものの本に、「文芸の世界も金と名誉欲の渦巻く俗世界の江戸市中の生活を捨ててここ深川の草庵に隠棲することを決めた」とあるが、しかし好んで移住したとはいえ、それまでの生活との落差は大きい。芭蕉にとって詫び住まいの生活は自然に溶け込み自然の恵みを素直にうけることだ。
 この句にたいする一般的な解釈は、「柴の戸に冬の激しい風が吹きつけ、落ちたまった茶の古葉がしきりに舞い立っているが、この嵐は、茶を煮る料として茶の古葉を掻きたて、掃きたてて柴の戸に吹き寄せている感じがする」である。また山本健吉は『芭蕉全発句』のなかで、「「木の葉掻く」は散り敷いた木の葉を熊手で搔き集めることで、嵐が吹いて、柴の戸に茶の木の古葉を吹きつける、まるで木の葉を掻き寄せるように、という意」と解説している。
 確かにそうした解釈は間違いでなく芭蕉の心象の一面を表しているが、一読してすぐに理解できる句ではない。時代背景や深川での生活から憶測し解釈するしかない。それに新しい俳諧精神を求め、深川へ移住したというがまだまだ談林の匂いは消えていない。
 果たして深川移転は日本橋の生活に嫌気がさした俳諧改革の動機のみだったのか。もっと別な要因があったのではないかと考えざるを得ないのである。芝の戸というといかにも素朴な草庵というイメージがあるが、実際の生活は想像以上に充足していたのではなかろうか。

芭蕉の発句アラカルト(7)  高橋透水

2021年08月06日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史
枯枝に烏のとまりたるや秋の暮  芭蕉

 延宝八年、芭蕉三十七歳のときの作とされているが、なかなか興味深い句である。これは嘱目吟であろうか、作句場所はどこか、烏は一羽なのか複数なのか。「秋の暮」は文字通り秋の暮なのか、それとも晩秋の意か。はたまた「枯枝」と「秋の暮」などは季重なりで、その上字余りは問題ないのかなどである。古来から議論がたえない一句である。
 一方でこの句は談林俳諧から脱し、蕉風俳諧への転換期へ移行する作品の一つとして評価されている。そんな芭蕉の心境を感じさせるのは、生活の変化を望み、その年の暮に深川に移り住んだことからも想像できる。
 句作の場所は、転居前のおそらく神田川上水の治水任務で訪ねた早稲田、いまの関口芭蕉庵近くの風景と思うが、確証はない。
 『曠野』には〈かれ朶に烏のとまりけり秋の暮〉で収められたが、『東日記』には「枯枝に烏のとまりたるや秋の暮」で載り、これが初案とされる。初案は大幅な字余りであるが、たどたどしいなかに一層の素朴な侘しさがにじみ出ているように思う。
 山本健吉は『芭蕉全発句』(講談社学術文庫)で「水墨画などの画題にいう「枯木寒鴉」ということを、十七音芸術に言い取ったもの。「枯木寒鴉」の翻案なら、この「枯木」は、晩秋の葉のおちつくした枝で、枯死した木の枝ではあるまい」、さらに改案の句は「ただごとに近いものたりなさがある」と述べている。
 ところでこの句の芭蕉俳画が何枚か伝わっており、「枯枝にからすのとまりたるや秋の暮」には複数羽、「かれえだにからすのとまりけり秋のくれ」には一羽の鴉が描かれている。どうも一羽のほうが芭蕉の孤高を象徴しているようだ。そして「烏のとまりけり」は
「とまりたるや」の初案に対し、驚きの感情が和らぎ、淡々と季節の移ろいを受け入れる様が際だつ。鴉と枯枝の取合せなど現代からみればあまりにも付き過ぎの感を受けるが、陳腐な水墨画的枯淡を題材にしたとしても、なお芭蕉の侘しい深層の心が伝わってくる。



芭蕉の発句アラカルト(6) 高橋透水

2021年06月12日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史
発句なり松尾桃青宿の春  桃青

 延宝七年(1679)、芭蕉三十六歳の歳旦句。前年に俳諧宗匠として立机していて、「桃青」という看板を下げて初めて迎えた新春だ。当時としてははや中年であるが、意気すこぶる軒昂である。曲がりなりにも一戸・一門を構えたという自信があってのことか。
 これは知足の筆録によって延宝七年の歳旦吟ということだが、脇・第三は残っていない。宿とあるが自分の家、自宅のこと。ただし今でいう持ち家という意味でない。
 すでに三十四歳のとき芭蕉は職業的な俳諧師になっている。この年、もしくは前年の春に俳諧宗匠として立机、つまりプロの俳諧師になっていて、立机披露の万句興行を催している。翌年、京都から江戸に来ていた信徳、江戸の信章との三吟百韻を『桃青三百韻 付両吟二百韻』と題して刊行する。
 川口竹人の『芭蕉翁全傳』宝暦12年(1762)によれば芭蕉は、「薙髪して風羅坊とも號し、又禾々軒桃青とも呼ふ。江戸の杉風といふ者(後衰杖)此翁を師として仕へて、小田原町に住しめ、後は深川に庵を結ふ。」とある。このことからも芭蕉は日本橋小田原町の小沢太郎兵衛(卜尺)宅に店子として住んでいたことがわかる。
 ところで延宝六年に、神田の蝶々子亭に招かれたときの四吟歌仙がある。
  実(げに)や月間口千金の通り町 桃青
  爰に数ならぬ看板の露 双葉子
 以下略すが、これは『江戸通り町』に収録されたものである。通り町とは室町・日本橋・京橋など江戸の最も賑やかな目抜き通りで、とくに日本橋あたりは「間口千金」と言われるくらい地価の高いところである。なお双葉子は蝶々子息である。
 そんな賑やかな環境であったが桃青の生活はまだまだ安定せず、杉風などに頼っていた。それでも自分にあるのは「発句なり」と自負し、冷静に世間を眺めつつ宗匠になった喜びと自負を世間に向け詠ったとみてよいだろう。


  俳誌『鷗座』2021年6月号より転載

芭蕉の発句アラカルト(6) 高橋透水

2021年06月12日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史
発句なり松尾桃青宿の春  桃青

 延宝七年(1679)、芭蕉三十六歳の歳旦句。前年に俳諧宗匠として立机していて、「桃青」という看板を下げて初めて迎えた新春だ。当時としてははや中年であるが、意気すこぶる軒昂である。曲がりなりにも一戸・一門を構えたという自信があってのことか。
 これは知足の筆録によって延宝七年の歳旦吟ということだが、脇・第三は残っていない。宿とあるが自分の家、自宅のこと。ただし今でいう持ち家という意味でない。
 すでに三十四歳のとき芭蕉は職業的な俳諧師になっている。この年、もしくは前年の春に俳諧宗匠として立机、つまりプロの俳諧師になっていて、立机披露の万句興行を催している。翌年、京都から江戸に来ていた信徳、江戸の信章との三吟百韻を『桃青三百韻 付両吟二百韻』と題して刊行する。
 川口竹人の『芭蕉翁全傳』宝暦12年(1762)によれば芭蕉は、「薙髪して風羅坊とも號し、又禾々軒桃青とも呼ふ。江戸の杉風といふ者(後衰杖)此翁を師として仕へて、小田原町に住しめ、後は深川に庵を結ふ。」とある。このことからも芭蕉は日本橋小田原町の小沢太郎兵衛(卜尺)宅に店子として住んでいたことがわかる。
 ところで延宝六年に、神田の蝶々子亭に招かれたときの四吟歌仙がある。
  実(げに)や月間口千金の通り町 桃青
爰に数ならぬ看板の露 双葉子
 以下略すが、これは『江戸通り町』に収録されたものである。通り町とは室町・日本橋・京橋など江戸の最も賑やかな目抜き通りで、とくに日本橋あたりは「間口千金」と言われるくらい地価の高いところである。なお双葉子は蝶々子息である。
 そんな賑やかな環境であったが桃青の生活はまだまだ安定せず、杉風などに頼っていた。それでも自分にあるのは「発句なり」と自負し、冷静に世間を眺めつつ宗匠になった喜びと自負を世間に向け詠ったとみてよいだろう。

 俳誌『鷗座』2021年6月号より転載


三橋敏雄の一句鑑賞

2021年06月06日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史

●一句二人散歩  高橋透水

戦争にたかる無数の蠅しづか 敏雄


 敏雄は一九四三年、招集を受け横須賀海兵団に入団するが、船乗りの経験から戦後は運輸省所属の練習船事務長として日本丸、海王丸などに勤務した。しかし一貫して戦争に対する嫌悪感は持ち続けた。〈戦争と畳の上の団扇かな〉や〈あやまちはくりかへします秋の暮〉などの代表作はあるが、鑑賞句はより戦争の本質を語っていないだろうか。
この句の蠅は何と「戦争」に集っている。その数えきれないほどの蠅が音も立てずに静かになにかを待っている。無気味な静謐。この静謐を装っている蠅こそ狡猾で危険一杯な生き物なのだ。戦争を潜り抜けた敏雄は直感的に戦争への危機を感じたのだろう。軍需産業を後ろ盾にした政治家だけでなく、欺瞞的な宗教家だっている。そしてなによりも戦争を仕掛ける武器商人だ。敏雄は戦場の死体に集る蠅の姿と、平和主義を唱えながら戦争の勃発を静かに待つ政治家や暗黒を舐めて豊満になる武器商人の姿と重ねたのである。

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★三橋敏雄の文を紹介します★
「戦争は憎むべきもの、反対すべきものに決まってますけれど、<あやまちはくりかへします秋の暮>じゃないけれど、何年かたって被害をこうむった過去の体験者がいなくなれば、また始まりますね。昭和のまちがった戦争の記憶が世間的に近ごろめっきり風化してしまった観がありますが、少なくとも体験者としては生きているうちに、戦争体験の真実の一端なりとせめて俳句に残しておきたい。単に戦争反対という言い方じゃなくて、ずしりと来るような戦争俳句をね。『証言・昭和の俳句 下』(聞き手・黒田杏子/角川書店)」

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芭蕉の発句アラカルト(1) 高橋透水

2021年05月17日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史
春やこし年や行けん小晦日  芭蕉

 寛文二年、芭蕉十九歳のときの作である。多少の異論があるものの、作成年次の判っている中では最も古いものだが、芭蕉の生地である伊賀上野で立春の日に詠んだという。
 この句は一読では解釈が難しい。というのも「春やこし」「年や行けん」「小晦日」と暦・季節を並べただけの単純な内容だが、現在から考えると矛盾と思わないでもない。春が来て年が行ってしまい、きょうは小晦日というなんだかややこしさがあるが、そうでもないことが裏にありそうだ。前書きに『廿九日立春ナレバ』とあることから、現在から考えると不自然だが、暦上は歳末前に立春があってもおかしくない時代であったのだ。
 後世、俳聖などといわれる芭蕉の初期の句を紹介しましたが、『芭蕉の発句アラカルト』は今回が第一回目であるので芭蕉の生い立ちに少し触れたいと思う。
 芭蕉(一六四四~一六九四年)は伊賀国阿拝郡の育ちだが、生誕地は上野城下の赤坂町(現在の伊賀市上野赤坂町)と上柘植村(現在の伊賀市柘植町)との二説がある。当時の伊賀の歴史と江戸初期の藤堂藩との関係が複雑に絡んでいるので、これらは後々に検証してゆくことにしたい。
 芭蕉は、若くして伊賀国上野の侍大将・藤堂新七郎良清の嗣子・主計良忠(俳号は蝉吟)に仕えたが、その仕事は厨房役もしくは料理人だったといわれている。二歳年上の良忠とともに京都にいた北村季吟に師事して俳諧の道に入り、掲句は寛文二年の年末に詠んだ句というが実際のことは不明である。しかし季吟の影響が大きかったことは間違いない。
 この句について山本健吉の『芭蕉全発句』によれば「年内立春の句で、連俳では冬季とされる。年内立春に感興を発することは、古今集巻頭の歌、〈年の内に春は来にけりひととせを去年とは言はむ今年とは言はむ〉(在原元方)に始まる」と紹介している。
 芭蕉は藤堂家に仕える前の十歳前後から俳諧に親しんだが、紹介はまたの機会にしたい。

  俳誌『鷗座』2021年1月号より転載

芭蕉を移す詞(元禄5年8月)

2020年11月04日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史

「芭蕉翁絵詞伝」(義仲寺所蔵)

芭蕉を移す詞           芭蕉
 菊は東雛に栄え、竹は北窓の君となる。牡丹は紅白の是非にありて、世塵にけがさる。荷葉は平地に立たず、水清からざれば花咲かず。いづれの年にや、住みかをこの境に移す時、芭蕉一本を植う。風土芭蕉の心にやかなひけむ、数株の茎を備へ、その葉茂り重なりて庭を狭め、萱が軒端も隠るるばかりなり。人呼びて草庵の名とす。旧友・門人、共に愛して、芽をかき根をわかちて、ところどころに送ること、年々になむなりぬ。一年、みちのく行脚思ひ立ちて、芭蕉庵すでに破れむとすれば、かれは籬の隣に地を替へて、あたり近き人々に、霜のおほひ、風のかこひなど、かへすがへす頼み置きて、はかなき筆のすさびにも書き残し、「松はひとりになりぬべきにや」と、遠き旅寝の胸にたたまり、人々の別れ、芭蕉の名残、ひとかたならぬ侘しさも、つひに五年の春秋を過ぐして、再び芭蕉に涙をそそぐ。今年五月の半ば、花橘のにほひもさすがに遠からざれば、人々の契りも昔に変らず。なほ、このあたり得立ち去らで、旧き庵もやや近う、三間の茅屋つきづきしう、杉の柱いと清げに削りなし、竹の枝折戸やすらかに、葭垣厚くしわたして、南に向ひ池に臨みて、水楼となす。地は富士に対して、柴門景を追うて斜めなり。淅江の潮、三股の淀にたたへて、月を見るたよりよろしければ、初月の夕べより、雲をいとひ雨を苦しむ。名月のよそほひにとて、まづ芭蕉を移す。その葉七尺あまり、あるいは半ば吹き折れて鳳鳥尾を痛ましめ、青扇破れて風を悲しむ。たまたま花咲けども、はなやかならず。茎太けれども、斧にあたらず。かの山中不材の類木にたぐへて、その性たふとし。僧懐素はこれに筆を走らしめ、張横渠は新葉を見て修学の力とせしなり。予その二つをとらず。ただその陰に遊びて、風雨に破れやすきを愛するのみ。


富沢赤黄男の一句鑑賞(12)  高橋透水

2020年06月11日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史
  偶然の 蝙蝠傘が 倒れてゐる 赤黄男

 句集『黙示』(昭和三十六年・俳句評論社)に収録。初出は『薔薇』(昭和二十九年二月号)である。
 「偶然に」でなく「偶然の」であるという存在の不安。戦後この時期になっても赤黄男に生活不安と精神不安はなくなってはいない。そうした日常的な根強い不安のほかに、外因的な傷害に悩まされた。内的な必然でなく、外的な偶然ゆえの不安や恐怖ほど大きい。
 だがその恐怖は赤黄男には必然だったとは認め難い。押し込まれてくるものを押し返す精神力がなく、ゆえに直接の意識として表出せず沈静化している。唯一の手段は俳句という詩であった。
「神は死んだ」とニーチェはいった。神がいないことで、人類は新たな不安や恐怖を抱え込んだ。
 すべての必然が偶然となったのである。己がいまこの世いるのも偶然、ここを歩いているのも偶然。病気も死も偶然である。
 神がいるときは己の不幸を神に祈り、罪わ贖罪すれば救われたような気になれた。神がいれば「蝙蝠傘が倒れる」ことも神の計画のなかにあったのだ。
 己が置かれた環境も神の思召すまま、宇宙の運営のなかに必然的におかれたのだ。この環境を何とかしたい。脱出したい、祈りを捧げて楽になりたい。だから神に祈ればよかった。ところが神のいない世界に投げ出された。人間が人間を見つめる世界がやってきた。
 赤黄男自身「鏡にうつったわたしは、必然であらうか。偶然であらうか」(モザイック詩論)とあるが、赤黄男もそんな世界を生き抜かねばならなかった。
 偶然に投げ出された傘の存在、本来の雨を避ける目的である傘から、人間の意図した目的から外れ倒れている。この虚無の世界は赤黄男が決して求めた世界ではないが、世に投げ出された存在である。目の前の事象は偶然か必然か。いずれにせよ、人知の及ばない世界である。

  俳誌 『鷗座』 2020年2月号より転載


『俳句の広場・3P』□天の河はどこに横たわったか□□高橋桃水

2020年05月05日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史
   荒海や佐渡に横たふ天の河  芭蕉

 「おくの細道」によると、芭蕉は思い出深い酒田を後にし、いよいよ北陸道に足を向けた。越の国にはいり、暑さと雨に祟られ、体調不良が続いた。しかも宿を断られたりで、欝憤は最高潮となった。しかしどこかで心境の変化があったらしい。七月六日昼頃鉢崎を立ち、今市(直江津)に宿泊しているが、古川屋で〈文月や六日も常の夜には似ず〉を発句に句会が開かれた。
 とは言え、〈荒海や佐渡によこたふ天の河〉までの文は短く不満の連続だ。芭蕉はなぜ急いで新潟を通過したか、その理由で考えられることは、(1)芭蕉の病気説(2)おくの細道の構成上(3)宿で歓迎されなかった、などが考えられるが、私は天候の悪化はさることながら、芭蕉の病気(持病)説をとりたい。曾良日記には芭蕉の体調の記述がないので、構成上とみる説が多いが、とかく芭蕉は都合が悪くなると持病より天候の所為にしがちな面があるからだ。
 さて〈天の河〉の句は、新潟県の出雲崎に泊まった時に読んだものとされているが、「おくの細道」では出雲崎や佐渡については触れていないので定かでない。今町では句座を開いて風雅に親しんだことは先ほども触れたが、それ以前に〈荒海や〉の句はできていた。雨が続いたが、四日は夕方から晴れ、芭蕉は夜になって宿先に戻った。これには「書留」がのこっているので、〈天の河〉の句はこの晩のことと思われる。つまり事前にできた句を直江津(高田説あり)で披露したのである。
 なお芭蕉筆の『銀河の序』では「北陸道に行脚して、越後の国出雲崎ちいふ所に泊まる」とあり、窓を押開くと、「日既に海に沈で、月ほのくらく、銀河半天にかかりて、星きらきらと冴たるに、沖のかたより、波の音しばしばはこびて、たましいけづるがごとく、腸ちぎれて、そぞろにかなしびきたれば、草の枕も定らず、」とあり〈あら海や佐渡に横たふあまの川〉の句を載せている。
 私などは、日本海で荒海というと冬の荒海を連想するが、芭蕉の眼にした荒海はどんな状況だったのか。一つ考えられるのは少し早いが台風の影響でないかと推測する。
 また「横たふ」は自動詞だ他動詞だの議論もあるが、これも「虚」というより、今市で観た銀河をもとに、頭のなかで銀河を佐渡に横たわせたのだろう。まさに「虚実一体」となった雄渾の世界を醸し出したのである。

  俳誌『炎環』より

「蛙はどこに飛び込んだか」 高橋透水

2020年04月28日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史
 芭蕉の禅的な宇宙感
 
 数年前になるが、ある句会の吟行で名勝・清澄庭園から深川の芭蕉所縁の地を訪ね、『芭蕉記念館』で句会を行った。
 清澄庭園で〈古池や蛙飛び込む水の音〉という句碑に出会い、また芭蕉稲荷神社では大小の蛙のオブジェと対面し、『芭蕉記念館』では芭蕉遺愛の石蛙とも対面した。
 芭蕉というと誰もが知っているこの〈古池や蛙飛び込む水の音〉であるが、これは貞享三年(一六八六)、芭蕉庵で『蛙の二十番句合』が興行された際の作であることが知られている。蛇足になるが、上五を弟子の其角が「山吹」にしたらどうかと師に進言した。古今集の序に「花に鳴く鶯、水に住む蛙の声聞けば生きとし生けるもの、いづれか歌を詠まざりける」が前提にあったろうし、同じ古今集の〈蛙なく井出の山吹ちりにけり花の盛りにあはましものを〉(詠人しらず)が念頭にあってのことだろう。が、芭蕉は「古池」こそこの句に相応しいという其角の進言を退けた。
 では一体この「古池」とはどこにあったのか。蛙でなく河鹿でないのか。いや蛙としても一体何匹だったのかと議論は尽きないが、私なりに整理してみると次のようなことが考えられる。まず、飛び込んだ場所であるが、
  一、一般的な田圃・沼・川など
  二、鯉屋(杉山)杉風の生簀。あるいは芭蕉庵近くにあった古池。
  三、眼前や近くにある池でなく、架空・想像上の池。(芭蕉の脳裏にのみ存在した)
 次に蛙は作句時に実在したかであるが、
  A、存在は十分考えられる。当時蛙などどこにでもいた。
  B、芭蕉庵の近く。蛙合せの席で芭蕉も弟子も蛙の声を実際に聞いていた。
  C、そもそも蛙など存在せず、芭蕉の頭のなかで飛んだのだ。
 Cの説が観念的であるが、鑑賞する上で共感できる。古池は芭蕉の頭の中の宇宙であり、ふと現れた想像上の蛙がその宇宙へと飛び込んだのではなかろうかと思うのだ。
 また蛙は一匹だったのか複数だったのかの議論では一匹説が圧倒的に多い。もちろん複数説も一度に何匹というのでなく間歇的な状態だろうとし、共通しているのは静寂→音→静寂の世界を表現したとしていることだ。
 私は二、三匹の蛙が連続的に次つぎに飛び込んだのではと考える。そのほうが協和音の効果があり、静寂感も一層広がるのではと思う。それにこの句は「古池へ」でも「古池に」でもなく、まして「古池の」でもない。これも芭蕉の禅的な宇宙感を感じさせる。いずれにせよ、芭蕉はそれまでの鳴く蛙から飛ぶ蛙へと俳諧に新世界を開拓して見せたのだ。芭蕉のいう「新しみは俳諧の花なり」が十分発揮された句と私は思う。

飯島晴子の一句鑑賞  高橋透水

2020年04月22日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史
孔子一行衣服で赭い梨を拭き 晴子 

 晴子俳句を読み明かすには、使用されている語彙を解析しなければならない。
 実景でないが経験からでた句、あるいは写生を組み替えた句が多い。したがってシンボルの解析し、表現された虚と実を読み取ることが必須だ。言い換えれば晴子俳句の鑑賞には、言葉の使い方に十分な注意が必要で、より慎重にならねばならないのだ。
 さて、掲句も存分に造形の世界が広がった作品である。晴子の自句自解によれば、原稿の締め切りが迫っていたとき、世界地図を広げ、目に留めた中国から連想したイメージから絞り出して俳句にしたという。
 孔子は魯に仕えたが容れられず、諸国を歴遊して治国の道を説いたというが、そんな時の光景を想像したのだろうか。「孔子一行」というから、数人の同行者がいて梨を手に寛いでいる一時だろう。
 歴遊の途中、ふと手にした梨、喉の乾いていた孔子一行は衣服で梨を拭きそれを食する。まるで水墨画を観るようで、薄汚れた孔子の衣服に梨のみ赭く色付けされた一幅の絵を脳裏に浮かべてしまう。机上でのイメージ句であるが、晴子の日頃の取材を兼ねた旅行、産みの苦しみから出来た、傑作といってよいだろう。