笑われたっていいじゃないか
馬鹿にされたっていいじゃないか
誰がお前の代わりになれる?
ホラ見た事かよ言わんこっちゃない
ザマぁねえや無様な野郎だ
言うだけだったら誰にも出来る
そう・・・今の世の中、ちょっとでも他人とズレてると後ろ指差されちゃうようなアレな世の中ですから
誰もが誰も「笑われないように」「馬鹿にされないように」生きてるとは思うんですけど、
ただその所為で“本当に面白いもの”が隠れてしまったような気がしてるんです
なんでもかんでもドヤ顔であげあし取られた挙句、
“みんなに気に入られようとするもの”しか通用しなくなってしまった感覚がある
それもまた「今の時代性」と言われれば、そうなのかもしれませんが・・・。
本音を言えば、馬鹿にされたり、或いは無視されたりする事は死ぬほど悔しいし、(自分が)情けなく思える。
だけど、自分を演じる事が出来るのは自分しかいないし、自分に素直になって自分を幸福に出来るのも自分しかいない訳なんですよね。
ぶっちゃけて言うと、誰もが誰も心底自分を嫌ってるはずがない
本当に自分が憎いのなら、まず食べ物を(自分に)与えようとする気すら起こらないはずですよ笑
自分の「好きなもの」で自分を満たそうとするのは少なからず自分を可愛く想う気持ちがなきゃしないですよ。
俺を出来るのは、俺しかいない。
俺で居続けられるのは、俺しかいない。
お前は俺にはなれないし、
お前は俺を出来ない。
当たり前の話ですが、
だからこそ「俺」は俺にとって(本当の意味で)尊い存在なんですね
そんな「当たり前」に気付かせてくれるのがこの「有象無象クソクラエ」という楽曲だと思います
(アルバム「bedside yoshino#4」に収録されています。)
バサリバサリと木々は揺れ
グラリグラリと地も揺れる
四方八方のっぺらぼうが
ニヤニヤ笑うけど
十中八九ナンデモネエよ
好きなだけ言わせとけ
で、例えばそれで「自分の形」を曲げてまで頑張ったとして、
それは自分なのか?って言えば絶対に違うでしょう
当事者じゃないから、好きなだけ言えるだけ
当事者じゃないから、好きなだけ馬鹿に出来るだけ
そんな奴らの言いなりになるだなんて、それこそただの人形だ
他人の声や視線に合わせて形を変えて、それでまともになったつもりでも
そんな形はどこか歪で、無個性で、「自分らしくいる」勇気も与えられない安っぽい妥協に過ぎない
木々が揺れ、地も揺れる~とありますが、
そういう事を気にしてる間って冗談抜きでそこまで心がショックを受けてしまうものなんです
でも、だからって、命を脅かされる事もなければ、「奴ら」が強引に自分に干渉出来るような力があるわけでもない
彼らに人一人の姿勢や生き方を変えるほどの力や権限は一切ない。
俺には関係ない。
俺は俺を、ただただこなすだけ。
それだけでいいじゃないか
そんなシンプルな生き方でいいじゃないか。
そんな風に思います
そして、和風にこだわったメロディラインがまたこの曲の素晴らしさを演出してくれています
ただがなり叫び散らす曲でもなく、サビの練り込まれたメロディラインには確かな芸術性が宿っています
何より、吉野さんが顔真っ赤にしてるようなニュアンスでこういう事を歌ってくれると、
不思議と聴いているこちら側も「・・・うん、そうだよな。」って静かに頷けるようなパワーを貰える感覚がある
吉野さんからしてみれば、“聴き手を勇気付ける”なんてご大層な気持ちでは決して歌ってないんだろうけど、
それと聴き手がどう受け取るかはまた別の話。
個人的には、聴く度に勇気付けられる吉野さんらしい名曲だと感じています
このアルバムだと他にも「朝に生まれて夜に死ぬ」「それに殺される前にあの空を撃て」なんかもこの曲に匹敵するくらいの名曲だと思ってます。
最近、吉野さんの書く歌詞、メロディラインに純粋に力をもらう事が(以前よりも)多いので、
どうしても記述しておきたかった記事でした。