うんどうエッセイ「猫なべの定点観測」

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「史上最大の日本タイトルマッチ」から今日でちょうど12年

2010年03月29日 | ボクシング
今からちょうど12年前の今日、1998年3月29日。日本J・ライト級タイトルマッチ10回戦コウジ有沢vs畑山隆則戦が東京の両国国技館で開催されました(なお、現在の同階級の名称はS・フェザー級です)。「世界挑戦者決定戦」と銘打たれたこの試合は、国内の同階級を代表する実力者同士で行われ、試合前からボクシングファンだけでなく世間一般にも注目を浴びました。おそらく、日本タイトルマッチでこれほど盛り上がりったのは、1989年1月22日に後楽園ホールで行われたマーク堀越vs高橋ナオト戦以来でしょうか。

挑戦者の畑山の戦績は21戦20勝(16KO)1分。畑山は、1996年3月18日に東洋太平洋同級王座決定戦で崔重七(韓国)を2回TKOで倒して王座を獲得。同王座を3度防衛に成功。そして、1997年10月5日、両国国技館でWBA世界J・ライト級タイトルマッチで王者の崔龍珠(韓国)に満を持して世界初挑戦。しかし、12回引き分けで初の世界挑戦は失敗に終わりました。畑山はデビューした1993年度には全日本新人王に輝くなど、日本のホープとしてそれまでは順調にキャリアを積みましたが、プロ入りして初めて挫折を味わいました。

通常なら世界挑戦に失敗した後の復帰戦は勝ち味を思い出させる為に、いわゆる“咬ませ犬”の相手をどうしても選びがちです。だが、畑山はフィリピンや韓国の咬ませ犬相手では、気持ちが全く奮い立ちませんでした。なので、モチベーションを極限まで高められる舞台として考えたのが、当時の日本王者だったコウジ有沢へのタイトル挑戦でした。

しかし、コウジ有沢は決して易しい相手ではありません。コウジは今でいうイケメンですが、風貌とは裏腹に戦績は18戦全勝15KOのハードパンチャー。この時点で12連続KO勝利中で、日本王座も5連続KO防衛に成功。逆転KO勝利が多かったコウジは勢いに乗ってました。この時点では世界ランキング入りしてなかったコウジは、近い将来世界挑戦を見据えてました。コウジにとっても、畑山との6度目の防衛戦は過去のキャリアの中で極めて重大な一戦でした。なので、世界ランカーの畑山にとっては危険なマッチメークでした。

ただ、ボクシングファンからすれば、公式記録とは裏腹に、格では王者のコウジよりも挑戦者の畑山の方が上だと思われました。やはり、畑山は元東洋王者であり、世界ランキング3位に入っていたからです。前年の世界戦では、終盤のガス欠で崔に猛反撃を許して王座獲得に失敗したとはいえ、世界王者と対等に渡りあったことも高い評価の根拠でした。なので、この一戦は王者であるコウジが、挑戦者の畑山が持つ世界ランクを奪いにいく構図なのが、衆目の一致する見方でした。

そして、この両者の試合は、日本タイトルマッチとしては極めて異例の興行規模でもありました。会場が後楽園ホールではなく、日本タイトルマッチとしては珍しく両国国技館を使用。夕方4時の薄暮の時間帯だったとはいえ、フジテレビが日本タイトルマッチでは異例の生中継を実施。また、両者のファイトマネーは双方500万円ずつ支給。この額は通常の日本タイトル戦ではかなり高額です。さらに勝者には、もう500万円+三菱パジェロ1台がプレゼントされるなど、破格の厚遇。いつしか、この一戦は「史上最大の日本タイトルマッチ」と呼ばれました。



そして、両選手がリングに入場。なんとこの一戦の試合前は、日本タイトルマッチとしては異例の国歌吹奏まで実施しました。12連続KO勝利中の26歳の日本王者が王座を死守するのか? それとも、無敗で世界王者に挑んでドローに持ち込んだ22歳の挑戦者が王座奪取するのか? お互いに噛み合うタイプだと思われただけに、好ファイトが期待されました。そして、日本中のボクシングファンが固唾を呑んで試合開始のゴングを見守りました。

ついに試合開始のゴング。まず畑山が右をオープニングヒット。1分40秒過ぎに赤コーナーにコウジを追い詰めます。対するコウジは2分30秒過ぎに右ストレートで応戦。2回、畑山は序盤から出入りの激しいボクシング。そして、左を多彩に繰り出します。2分30秒過ぎ、畑山は左フックでコウジをロープ際に釘付けにしてアッパー放ちます。この日の畑山は距離の取り方やフットワークが優れており、この試合の鍵となりました。

3回、序盤から両者足を止めて打ち合い。1分過ぎからはお互いにリードパンチを出します。お互いに単発ながらも強打をヒットさせます。4回、序盤は互いに中間距離での戦い。畑山の圧力の前にコウジがロープ際に追い詰められますが、逆にパンチを出して応戦。2分10秒過ぎには畑山がボディを突破口にコウジを赤コーナーに追い詰めて連打。しかし、コウジも一歩も引きません。終盤はお互いに激しい打撃戦に。

5回、2分ぐらいまで接近戦でのパンチの交換。2分過ぎから距離を取った畑山はジャブを繰り出し、再三コウジの顔面をヒット。スロースターターのコウジは、ポイントの上ではこれまで劣勢に立たされ、手数が少なく苦しい展開に。6回、1分近くまでは、畑山は前のラウンドと同様に距離を取ってジャブを多用。2分過ぎには飛び込んでいきなりの左フック。畑山は変幻自在の戦いを披露。しかし、コウジも1分30秒過ぎには左から得意の伸びる右ストレートを畑山の顎に強烈にヒット。その後、ラウンドの終了ゴングまで激しい打撃戦に。

7回、序盤は畑山は距離を取ってジャブを繰り出します。しかし、1分過ぎあたりから前のラウンドまで苦戦を強いられたコウジが反撃。右フック、右アッパーの強打を畑山に再三浴びせます。対する畑山も応戦。2分25秒過ぎには畑山は左アッパーからの連打でコウジをロープ際に追い詰めます。しかし、コウジも一歩も引かずに応戦。このラウンドはハッキリとコウジが取りました。8回、序盤から接近戦の打ち合いでしたが、出入りの激しいボクシングで畑山は次第に優勢に展開。畑山は左フックを突破口に終盤に連打を浴びせますが、コウジも真っ向から打ち合います。

そして、運命の9回。疲れの見えたコウジは序盤はボディブローで反撃。しかし1分過ぎ、畑山は強烈な左ボディブローを浴びせ、コウジの腰を落として体はくの字に折れます。そして、右フックを浴びたコウジは体が泳いだ後、畑山の左右の追撃打を喰らってついにダウン。カウント8で何とかコウジは立ち上がるものの、好機を見逃さなかった畑山はコウジをニュートラルコーナーに追い詰めて一気呵成の集中砲火。コウジはクリンチして逃れようとするが、畑山は振りほどいて再びパンチを雨あられの如く浴びせます。そして、主審が2人の間を割って入り、試合終了を宣告。9回1分44秒TKOで畑山が日本J・ライト級王座を獲得。新王者となった畑山が世界挑戦権をもぎ取りました(なお、畑山はその後、世界挑戦の準備の為に同王座を返上)。

6度目の防衛に失敗して世界戦線から大きく遠のいたコウジにとっては、前座で双子の兄のカズ有沢も五月女利晴に7回KOで負けたこともあり、つらい一日となりました。しかし、勝利者インタビューで新王者は「(一度引き分けた)崔より強い。今まで僕の中で最強の相手だった」と敗者を賞賛。強敵の挑戦に怯むことなく戦ったコウジの勇気と根性も称えられ、決してボクシングファンの評価も落ちませんでした。



その後、畑山は同年9月5日、両国国技館で崔と再戦して12回判定勝利で雪辱して悲願の世界王座を獲得。この王座は1度防衛した後、翌年6月27日にラクバ・シン(モンゴル)に5回TKOで敗れて王座を失い、畑山は一旦引退します。しかし、畑山は引退を撤回。翌2000年6月11日、復帰初戦でいきなりの世界再挑戦。WBA世界ライト級王者ヒルベルト・セラノ(ベネズエラ)に挑戦し、5度のダウンを奪って8回KO勝利で王座奪取。日本人4人目の2階級制覇の偉業を達成します。同王座を2度防衛に成功。中でも、初防衛戦となった2000年10月11日の坂本博之戦の死闘は伝説として語り継がれます。2001年7月1日の3度目の防衛戦でジュリアン・ロルシー(フランス)に12回判定負けで王座を失い引退します。

一方、コウジ有沢は1998年12月11日、日本同級王座決定戦でパンサー柳田と戦って10回判定勝利して王座奪還。連続6度の防衛に成功します。2001年3月12日、7度目の防衛戦で10回判定でキンジ天野に敗れて王座を失います。3年後の2004年1月10日、本望信人の保持する同王座に挑戦するものの、10回判定で敗れて3度目の王座奪取に失敗。翌年末に現役を引退しました。残念ながらコウジは世界挑戦は実現出来ませんでしたが、国内の強豪と名勝負を繰り広げ記憶に残るボクサーとしてファンの間に語り継がれてます。



12年前に国内最強を賭けて鎬を削って戦ったこの一戦は、日本タイトルの価値を見直させただけでなく、国内有力者同士の対決を待ち望んでいたファンの願いを叶えたこともあり、日本ボクシング界にとっては大変意義深い一戦でした。この1998年は、この一戦だけでなく、国内有力者同士の好カードがたくさん実現した年でもありました。畑山とコウジの同じ階級では、三谷大和と平仲信敏と長嶋建吾がそれぞれ東洋太平洋王座を賭けて三すくみで対戦(最終的に長嶋が勝ち残ります)。S・フライ級では、10月25日に日本王者の名護明彦と元世界王者の山口圭司がタイトルを賭けて対戦(名護の10回判定勝利)。12月19日には、後の世界王者の徳山昌守が元2階級王者の井岡弘樹と対戦。5回TKO勝利した徳山にとって出世試合となり、負けた井岡にとってはラストファイトとなりました。

近年の日本のボクシング界は、実力差がハッキリとした日本人同士の世界戦が乱発してます。無謀な世界挑戦や、世界とは名ばかりの中身が薄っぺらな水増しタイトルマッチよりも、国内の有力者同士が日本や東洋王座を賭けて戦ったり、もしくはノンタイトル戦で鎬を削ったサバイバルな戦いの方を、まっとうなボクシングファンなら観たいはずです。あの伝説の一戦から干支が一回りしましたが、国内の人気と実力を兼ね備えた有力者同士が対戦する機運が再び生まれてほしいものです。


☆試合前の煽り映像(ナレーションは立木文彦さん)



☆1998年の年間最高試合(1998年3月29日 @両国国技館)

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2 コメント

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名ライター・佐瀬稔氏が (こーじ)
2010-03-29 13:39:10
 直腸ガンにおかされていた名ライター・佐瀬稔氏が病院を抜け出して最後に取材した試合でもありまして、この試合の約2ヵ月後に亡くなってます。

 これほどの素晴らしい試合が九州では残念ながらOAされずに憤慨したのを未だに忘れる事が
できません。

 この頃までは日本のボクシング界には しっかりしたモラルがあったのですけどね。

 佐瀬氏だけでなく郡司信夫氏や白井義男氏ら
キッチリ筋を通さない試合は舌鋒鋭く批判をする方々がいましたが、彼らが鬼籍に入られてからチンピ○一家のようなボウフラが湧いてしまい日本人から負ける事を念じられるようなロク
でもない選手が出てくるハメになりました。

 だから内藤-亀1号の試合などは日本タイトルマッチでやるべきだったと思っていますよ。
 
  
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コメントありがとうございます (猫なべ)
2010-03-29 18:43:19
こんばんは、こーじさん

この試合を中継されなかったのは、本当にお気の毒だと思います。
佐瀬稔さんが最後に取材をされた試合だったのは、初めて知りました。

畑山は世間一般的には坂本戦の方が高く評価されてますけど、
私は日本タイトルを賭けたこのコージ有沢戦こそがベストファイトだと思います。

この年は国内の有力者同士の対戦が多かったので、
このよい機運が後に続いてくれること願ったのですが・・・
残念ながら増えたのは日本人同士の実力差がハッキリとした世界戦ですね。

現在のフライ級の世界王座は日本とタイで回しているのだから、
せめて日本国内だけでも有力者同士の対戦をして
ボクシング界を盛り上げてもらいたいものです。

だけど、“フライト”級のあのチ○ピラ一家は、
難癖をつけて逃げまくると思いますが(笑)
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