うんどうエッセイ「猫なべの定点観測」

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サッカーW杯予選プレーオフ物語Vol.3 「政治の荒波に翻弄されて」

2009年03月14日 | サッカーW杯予選プレーオフ物語
2002年日韓大会。日本は決勝トーナメント1回戦で、消極的な姿勢とフィリップ・トルシエ監督の奇策で0-1の無念の敗退を喫した忘れもしない相手が、この大会で3位に入ったトルコです。トルコは、W杯には1954年スイス大会に初出場を果たしてます。しかし、長年欧州のお荷物扱いだったトルコは、世界最高レベルの欧州サッカー連盟(UEFA)に所属しているがゆえに、常に列強の踏み台にされました。W杯はスイス大会から約半世紀に渡って、世界への道を閉ざされることになります。

ただし、トルコは狂信的ともいえるサポーターが多数存在するなど、サッカーへの情熱は決して世界の列強に劣りません。スイス大会は1次リーグで敗退するも、アジア予選で日本を破った韓国に7-0で圧勝。同じイスラム圏の隣国のイランや、かつてアジアサッカー連盟(AFC)に加盟していたイスラエルもアジアのトップクラスだったことを考えると、仮にトルコがAFCに所属していたら、間違いなく現在においてもアジアのトップに君臨している事が予想されます。

トルコは、長い間日の目を見ることが出来ませんでしたが、国内リーグの改革もあって、1999-2000年シーズンのUEFA杯ではガラタサライがトルコのクラブとして欧州のクラブタイトルを初制覇するなど、クラブレベルでは成果を収めてました。また、代表チームも、ドイツ生まれの同胞をピックアップするなど着々と強化し、ついに1996年の欧州選手権には自力で予選を突破して本大会に初出場を果たします。4年後の2000年欧州選手権ではベスト8に進出するなど、着実に成果が表れました。ただ、W杯予選だけは、なかなか「欧州の壁」を破れませんでした。

日韓大会の予選では、トルコは欧州予選4組で快調に勝ち点を挙げて、2001年9月5日にスウェーデンをホームに迎えて大一番を迎えます。トルコは、スウェーデンとの直接対決では敵地ではドローでしたが、全体の順位ではスウェーデンに勝ち点2差で2位だったので、是が非でもこの一戦はものにしたいところでした。試合は、膠着状態でしたが、後半5分過ぎに大黒柱のハカン・シュクルがダイビングヘッドで先制点を挙げて、W杯への切符が大きく近づきトルコ国民の誰もが狂喜しました。

ところが、試合終了の残り2分前に、スウェーデンはヘンリク・ラーションの得点で追いつきます。さらに、ロスタイムではアンドレアス・アンデションのゴールで逆転を許し、地元のトルコは1-2でまさかの敗北を喫します。この結果、1試合を残してスウェーデンは首位が確定してW杯本大会出場権を獲得。ロスタイムで悪夢を味わったトルコはダメージが深く、意気消沈の状態でプレーオフを戦わなければなりませんでした。



☆トルコがロスタイムでスウェーデンに悪夢の逆転負け
(2001年9月5日 @トルコ・イスタンブール/アリ・サミ・イェン・スタジアム)




しかし、この後トルコに思いがけない幸運が舞い込みます。それは、プレーオフの対戦相手がオーストリアになったことです。オーストリアの入った欧州予選7組は、スペインがぶっちぎりで強く、楽々と首位でW杯出場権を獲得。オーストリアはイスラエルとプレーオフ進出を賭けて激しく2位の座を争ってました。オーストリアは、敵地テルアビブで行われるイスラエルとの最終節では、引き分けでもプレーオフ進出できる状況でした。

ところが、2001年9月11日の米国同時多発テロ事件の影響で、多くのオーストリアの主力選手が治安に不安を抱えるテルアビブでのアウェーゲームを戦うことを拒否。この結果、クロアチア人のオットー・バリッチ監督と主力選手が対立し、修復不可能な状態に。緊迫した政治情勢の為、試合も10月6日から10月27日に延期になり、戦力が落ちたオーストリアは苦戦が予想されました。

試合当日、会場のラマト・ガン・スタジアムは満員の観衆に埋め尽くされて、異常なまでのハイテンション状態でした。アジア代表として初出場した1970年メキシコ大会以来、32年ぶり2度目のW杯出場を狙ったホームのイスラエルは絶対に勝利が必要だったので、序盤から試合を優勢に支配。イスラエルは、後半11分にシモン・ガーションがPKを決めて、待望の先制点をゲット。オーストリアはいよいよ崖っぷちに追い詰められます。

しかし、オーストリアは試合終了間際のロスタイムに、ベテランのアンドレアス・ヘルツォークが起死回生の同点FKを決めて、辛うじて1-1でドローで終えて、オーストリアは2位の座を死守。イスラエルでは「テルアビブの悲劇」と呼ばれたこの一戦を制したオーストリアは、土壇場で踏み止まって士気も高まりました。



☆テルアビブの悲劇
(2001年9月5日 @イスラエル・テルアビブ/ラマト・ガン・スタジアム)




オーストリアはトルコとのプレーオフでは下馬評が不利だったので、戦力を上げる為には造反した選手との和解は不可避な状況でした。もちろん、国内でもその機運も高まりました。だが、バリッチ監督は自身のプライドを優先した為、己に反旗を翻した選手との和解を拒否し、とうとう招集しませんでした。結局、オーストリアは主力不在の状態のまま、トルコとのプレーオフを戦う羽目になりました。

もうこうなると、流れは完全にトルコに傾きます。ただでさえ、躍進著しい相手に対して、戦力がガタ落ちしたオーストリアは、地元ウィーンで0-1、敵地イスタンブールで0-5と続けて落とし、2戦合計スコアも0-6と成す術も無く大敗。トルコは、48年ぶりの悲願の本大会出場を果たしました。予選の大一番では、ロスタイムで明暗を分けた両者でしたが、予期せぬ国際情勢のおかげで、再び両者の形勢が一変することになるとは、あまりにも残酷です。

その後のトルコは、2004年欧州選手権ではラトビアに、2006年ドイツW杯ではスイスに、それぞれプレーオフで敗れてしまい、またしても大舞台に踏めませんでした。ただ、トルコは昨年の欧州選手権では奇跡の準決勝進出を果たし、一時期の不調から脱しました。やはり、たとえ実力国であっても、レベルが高くて層も分厚い欧州予選を勝ち抜くのが、いかに困難なのかがよく分かります。



☆オーストリアvsトルコのプレーオフ第1戦
(2001年11月10日 @オーストリア・ウィーン/エルンスト・ハッペル・シュターディオン)



☆トルコvsオーストリアのプレーオフ第2戦
(2001年11月14日 @トルコ・イスタンブール/アリ・サミ・イェン・スタジアム)




もうひとつW杯予選プレーオフで、政治の荒波に翻弄された末に、世界への切符を手にしたいわく付きの国があります。それは、1974年西ドイツ大会に出場したチリです。

チリは、南米予選3組でペルーを倒しましたが、この組の勝者は欧州予選9組の勝者であるソ連との大陸間プレーオフを制しなければ、本大会に進出できない仕組みでした。チリは、1970年9月の大統領選挙で、世界で初めて民主的な自由選挙によって誕生した社会主義政権である、サルバドール・アジェンデが率いる人民連合政権でした。

しかし、議会の主導権を右派が握り、政権内部も一枚岩ではなかった為、政権運営が上手くいかず、物不足とインフレが発生して経済的にも苦境に陥りました。また、同国最大の主要産業である銅山を国有化によって、利権を掌握していた米国との関係が極度に悪化。米国は、保有してた銅の備蓄を放出する事によって、銅の国際価格を下げる手段を行使してチリ経済に打撃を与えるなど、アジェンデ政権打倒の動きを強めました。また、国内でも反共テロ組織が暗躍するなど、政情不安が日増しに高まりました。

そして、1973年9月11日、米国中央情報局(CIA)の全面支援の下、アウグスト・ピノチェト将軍が主導した軍事クーデターによって、アジェンデ政権が打倒されました。しかし、アジェンデ大統領は最後まで降伏を拒否。自ら自動小銃を手にして大統領宮殿であるモネダ宮殿に篭城しましたが、同日に壮絶な銃撃戦の末に戦死を遂げました。

不穏な政治状況でしたが、同年9月26日にモスクワで両者は第1戦を行い、スコアレスドローに終わりました。11月21日、チリの首都サンチアゴのナショナルスタジアム(1962年に自国開催のW杯決勝戦の会場)で第2戦を迎える予定でしたが、ソ連がこのスタジアムでの対戦を拒否することを表明。実権を掌握したピノチェト軍事政権が大規模な左翼狩りを行い、このスタジアムを政治犯の収容所として使用されていたことが、ソ連の拒否した理由です。

アジェンデ政権を支持していた左翼の総本山であるソ連は「多くの左派系市民が投獄されて、拷問や虐殺で血塗られた会場での試合をする訳にはいかない」と主張。ソ連は、この試合を第3国で対戦することを国際サッカー連盟(FIFA)に要求するものの、最終的に受け入れられませんでした。

結局、ソ連はチリとのプレーオフを対戦拒否したので、FIFAはソ連に5000スイス・フランの罰金を科して、チリにW杯出場権を与えました。第2戦が行われる予定だった日に、チリ代表チームはナショナルスタジアムのピッチに登場し、キックオフをしてキーパ不在のソ連のゴールにシュートを決める“儀式”を行って勝利を祝いました。

ちなみに、チリは翌年の本大会では、ソ連や東ドイツが会場として使用することについて反対していた、東西に分断中の西ベルリンのベルリン・オリンピアシュタディオンで、共産主義国の東ドイツと対戦するという偶然が重なりました。



☆主審のキックオフの笛と同時にチリの選手が無人のソ連ゴールにシュート
(1973年11月21日 @チリ・サンチアゴ/ナショナルスタジアム)




このように振り返ってみても、思いがけない幸運を手にしたチーム(もしくは不運に泣かされたチーム)は己の力ではどうにも出来ない国際政治の荒波に翻弄されました。

この2つの出来事が、ともに「9・11」に関連しているのがとても奇遇に感じます。

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