うんどうエッセイ「猫なべの定点観測」

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サッカーW杯予選プレーオフ物語Vol.2 「地理上のハンディ・後編」

2009年03月13日 | サッカーW杯予選プレーオフ物語
1966年イングランド大会から1982年スペイン大会までは、オセアニアはアジアと合同で予選を戦いました(なお、1966年イングランド大会はアフリカも含めた3大陸合同での予選)。しかし、1986年メキシコ大会以降は、オセアニアは現在に至るまで他大陸との「大陸間プレーオフ」を戦うことを余儀なくされます。しかも、大会ごとにプレーオフの対戦相手が変更。メキシコ大会では欧州(スコットランド)、1990年イタリア大会では南米(コロンビア)が対戦相手になり、強豪地域と戦う羽目になりました。

更に、国際政治情勢も追い討ちを掛けます。1980年代に、複雑な中東の政治情勢や石油危機以降のアラブ産油国の台頭に伴い、イスラエルがアジアのスポーツ界から完全に排除。アジアでもトップクラスだったイスラエルは、1974年9月にサッカー協会がアジアサッカー連盟(AFC)から除名された為、どの大陸の連盟にも所属しない文字通りの“流浪の民”と化します。なんと、メキシコ大会とイタリア大会の2回のW杯予選では、イスラエルは遠く離れたオセアニア予選に回ることになりました。ただ、この措置は、オセアニアにとっては強力なライバルが参戦することを意味しました(なお、イスラエルは1992年に欧州連盟に加盟し、1994年米国大会から欧州予選に編入)。

しかも、イタリア大会の予選では、このイスラエルが豪州とニュージーランドを退けて、“オセアニア代表”として南米の新興国コロンビアと大陸間プレーオフに駒を進めます。イスラエルは1敗1分に終わって20年ぶりの本大会の出場権を逃すものの、進境著しかったコロンビアに健闘しました。ただ、大陸間プレーオフの試合順が、一般的にホーム&アウェー方式では有利とされる、2試合目のホームゲームがオセアニア代表での開催であったのにも関わらず、この2回の大陸間プレーオフでは、オセアニア代表はいずれも敵地での初戦を完封負けを喰らいました(メキシコ大会の豪州はスコットランドに0-2、イタリア大会のイスラエルはコロンビアに0-1でそれぞれ敗北)。つまり、初戦でアウェーゴールを奪えなかったことがモロに響いた格好です。2戦目では、相手は計算ずくでガッチリ守りを固めた為、ホームの優位さを活かして戦う事が出来ず、2大会ともスコアレスドローに終わり、せっかくのチャンスをものに出来ませんでした。



☆メキシコ大会のプレーオフでは、豪州はスコットランドとの初戦で0-2で敗戦
(1985年11月20日 @スコットランド・グラスゴー)



☆豪州はスコットランドとの2戦目のホームゲームでスコアレスドローに終わり、1敗1分でメキシコ行きを逃す
(1985年12月4日 @豪州・メルボルン)



☆イタリア大会の予選では、豪州はイスラエルとの最終戦でドローに終わり、大陸間プレーオフ進出を阻まれる
(1989年4月16日 @豪州・シドニー)



☆“オセアニア代表”のイスラエルは、カルロス・バルデラマやレネ・イギータを擁したコロンビアとの初戦で0-1で惜敗。
(1989年10月15日 @コロンビア・ボゴタ)



☆イスラエルはコロンビアとの2戦目はスコアレスドローで健闘するも、初戦の敗北が大きく響いて1敗1分に終わり、イタリア行きの切符を逃す。
(1989年10月31日 @イスラエル・テルアビブ)




ちなみに、台湾は「中国問題」で1974年にAFCを除名されてました(現在は復帰)。台湾は1975年から1989年までオセアニア連盟(OFC)に加盟していたので、この頃は各種大会でオセアニア予選に参加してました。政治的に取り扱いが難しかった国々の吹き溜まりと化していたオセアニアは、それだけ政治力が弱かった証左なのかもしれません。しかも、離れすぎた国同士のH&A方式なので、時差や移動距離、更には旅費や警備費用も半端ではなかったので、あらゆる面で負担がきつかったと思われます。

しかし、この間に、豪州は1981年と1993年のワールドユース選手権(現・U-20W杯)を2回開催。1991年のポルトガル大会と1993年の地元大会では連続して4位に入賞を果たしました。1992年のバルセロナ五輪では、オランダとの大陸間プレーオフをホームで1-1、アウェーで2-2と成績が並びましたが、「アウェーゴールルール」の規定によって強豪を降し、ベスト8に進出した前回の1988年ソウル五輪に続いて2大会連続で本大会の出場権を獲得。そして、本大会でも、1次リーグでデンマークとスウェーデンを倒して史上最高の4位に入賞するなど、若年層での世界大会では好成績を残します。国を挙げての若手の育成が着々と進みました。かつては、移民選手の輸入国だった豪州でしたが、多くの若き有能な選手が欧州のクラブに移籍して活躍するなど、すっかり輸出国に変貌。その効果が少しずつフル代表にも還元されていきました。のちに、イタリア代表として活躍するクリスチャン・ビエリも、少年時代には豪州で育ってます。



1994年米国W杯大会は、オセアニア予選の勝者はまず北中米第2代表と大陸間1次プレーオフを戦ったあと、南米予選A組2位のチームと2次プレーオフを戦わなければならなかったので、オセアニアにとっては今までで最も厳しい予選方式でした(つまり、出場枠が0.25)。豪州はオセアニア予選で圧勝し、大陸間1次プレーオフで北中米第2代表のカナダと対戦。このラウンドは、2戦ともホームチームが2-1で勝利した為、2戦合計スコアが3-3と並びますが、結局30分間の延長戦でも決着がつかず、PK戦にまで縺れ込みます。だが、この第2戦がシドニーでの開催だったことが、豪州に幸運をもたらします。地の利を活かした豪州がPK戦を4-1でものにし、最後の大一番に辿り着きます。ちなみに、このPK戦で2本止めた豪州のGKが、あのマーク・シュワルツァーです(なお、この当時のシュワルツァーは、まだマーク・ボスニッチの控えでした)。しかし、米国行きを賭けた本大会最後の24枚目の切符を賭けた大一番である、大陸間2次プレーオフでは思わぬ強敵と対戦することになりました。

その相手とは、過去にW杯を2度制し、前回イタリア大会の準優勝国のアルゼンチンです。アルゼンチンは、南米予選A組ではカルロス・バルデラマ、フレディ・リンコン、ファウスティーノ・アスプリージャなどを擁して当時絶頂だったコロンビアに地元で0-5で惨敗し、まさかのプレーオフに回ることを余儀なくされました。しかし、アルゼンチンはこの大一番で、最後の切り札として英雄ディエゴ・マラドーナを復帰させて、プレーオフに臨みました。残念ながら、豪州はアルゼンチンに1敗1分で敗れて、あえなく阻まれます。しかし、豪州は内容的には世界の強豪国を大いに苦しめて互角に渡り合い、むしろその健闘ぶりが高く評価されました。オセアニアは次回の1998年フランス大会の大陸間プレーオフの相手が、アジア第4代表に変更になったことが、それを物語ってます。



☆まだ20歳のマーク・シュワルツァーが大活躍した米国大会予選のカナダとの第2戦
(1993年8月15日 @豪州・シドニー)



☆アルゼンチンとの初戦は先に失点をするも、アウレリオ・ヴィドマーの同点弾で1-1で追いつく
(1993年10月31日 @豪州・シドニー)



☆ブエノスアイレスでの第2戦はバティストゥータのクロスが、アレックス・トビンの足に当たる不運な得点で0-1で敗れるも、強豪相手の善戦が評価される
(1993年11月17日 @アルゼンチン・ブエノスアイレス)




そして4年後、豪州はイングランドの名将テリー・ベナブルズにチームを託して、1998年フランス大会の予選に挑みます。豪州はオセアニア予選は順当に圧勝し、アジア第4代表であるイランとのプレーオフに駒を進めます。両チームがW杯予選で対戦するのは、アルゼンチン大会の予選以来、実に20年ぶりでした。1997年11月22日、12万8千人もの男だらけの大群衆が押し掛けたアザディ・スタジアム(テヘラン)でのイランとのプレーオフの初戦。まずハリー・キューウェルが前半19分に先制点を決めて、豪州がリードを奪います。しかし、その後、地元のイランが前半39分にコダダド・アジジの得点で同点に追いつき、結局そのまま1-1で試合終了。豪州は圧倒的に有利な状況でホームゲームを迎えました。

1週間後の11月29日、第2戦の会場となったメルボルン・クリケット・グラウンドには85,022人もの大観衆で埋め尽くされました。地元の豪州が優勢に試合を進めるものの、ジョホールバルでの日本戦でも有名となったイランのGKアーマド・レザ・アベドザデーの攻守もあって、なかなか得点を奪えませんでした。だが、前半32分にキューウェルが待望の先制点を奪い、遂に豪州がリード。更には、後半3分にもアウレリオ・ヴィドマーが押し込み、リードを2点に広げます。この時点で2戦合計で3-1となり、豪州の24年ぶりのW杯出場はほぼ確実視されました。

しかし、後半の半ば過ぎあたりから、劣勢だったイランが突如反撃の狼煙を上げます。後半26分、右サイドからアジジがマイナス気味のグラウンダーのクロスを送り、それをカリム・バケリが倒れながらも右足で執念で押し込み、1点差に迫ります。その4分後、英雄アリ・ダエイのスルーパスに瞬時に反応して抜け出したアジジがGKボスニッチの動きを冷静に読んで流し込み、瞬く間にイランに2-2の同点に追いつかれてしまいます。その後、豪州が交代選手3人を投入して猛反撃するものの、長いロスタイムのあと試合終了のホイッスル。

この結果、2戦合計で3-3と並びますが、敵地での得点数がイランより1点少なかった為、「アウェーゴールルール」の規定により、豪州の予選敗退が決定。この試合の豪州は、イランに対してボール支配率で完全に上回り、シュート数も38-4と圧倒。フランスへの切符をほぼ手中に収めてましたが、「メルボルンの悲劇」によって寸での所でイランにさらわれました。豪州の選手は欧州のクラブに大勢在籍してましたが、まだこの当時はレギュラークラスの選手が少なくて経験が浅かったこともあり、1試合を通してのペース配分や、状況に応じた戦い方が稚拙だったのが敗因だと言われてます。豪州にとっては、オセアニア地区予選と大陸間プレーオフを通じて、全8試合を6勝2分と無敗のままでの予選敗退でもありました。


☆初戦は1-1の同点に追いつかれるも、ハリー・キューエルの貴重なアウェーゴールで豪州が優位に立つ
(1997年11月22日 @イラン・テヘラン)



☆2戦目は試合を支配した豪州が先に2点リードを奪って圧倒的に優位に立つも、後半に追いつかれてしまい、まさかの予選敗退。中でも、アジジが決めた2点目が、両国の運命を大きく左右した。
(1997年11月29日 @豪州・メルボルン)




4年後の2002年日韓大会では、オセアニアの大陸間プレーオフの相手が再び南米に戻されました。オセアニア予選を当然の如く勝ち抜いた豪州は、南米予選5位のウルグアイと大陸間プレーオフと対戦。2001年11月20日、メルボルンで行われた第1戦。4年前のイランとのプレーオフと同じ会場であるメルボルン・クリケット・グラウンドには、84,646人もの大観衆が集まりました。序盤から試合を支配した豪州が幾度と無く攻め立てるものの、なかなか得点が奪えませんでしたが、終了11分前のケビン・マスカットのPKで1-0で辛勝。ちなみに、W杯出場権を直接賭けたプレーオフで、豪州が初戦を勝利するのは意外にもこれが初めてでした。そのせいなのか、豪州国民は悲願達成に向けて大いに期待しました。だが、初戦を優位に進めながら追加点を取れなかったことが、2戦目で大きく響くことになります。

5日後の11月25日の第2戦では、豪州がウルグアイに入国の際、通関で選手の荷物を全部開けられて徹底的にチェックさせられる嫌がらせに遭うなど、「アウェーの洗礼」を受けます。しかし、これはまだ序の口でした。空港で待ち構えていた50人もの相手サポーターとの乱闘騒ぎに巻き込まれたり、サポーターがホテルの周辺で大騒ぎして選手の睡眠を妨げられたりするなど“手荒い歓迎”をたっぷりと受け、豪州はまともな調整が出来ませんでした。そして、試合も前半14分、メルボルンの初戦で負傷欠場していたダリオ・シルバに先制され、2戦の合計得点で追いつかれてしまい、豪州は完全に敵地の雰囲気に呑まれて我を失います。

そして、後半25分、アルバロ・レコバのフリーキックをリカルド・モラレスが頭で押し込んで、遂に2戦合計スコアが逆転。完全に気落ちした豪州は、またしてもモラレスに駄目押しをされて0-3で完敗。2戦合計スコアも1-3となり、豪州はまたしても大陸間プレーオフの壁を破ることが出来ず、ぬか喜びに終わりました。なお、豪州にとって、米国大会のアルゼンチンとの大陸間プレーオフ(第2戦)以来、実に8年ぶりのW杯予選での敗北でもありました。欧州組が不在でも、目を瞑ってでもオセアニア予選で圧勝できる豪州とは対照的に、ウルグアイは1年半もの長期間に渡って厳しい南米予選を18試合も戦ってきたその差が、大一番で顕著になった試合でもありました。



☆初戦は終了11分前にケビン・マスカットがPKを決めて、まず豪州が1-0で辛勝
(2001年11月20日 @豪州・メルボルン)



☆2戦目は地元のウルグアイが優位に戦い、モラレスの3点目が勝利を決定付ける
(2001年11月25日 @ウルグアイ・モンテビデオ)




2003年には、OFCが2006年ドイツW杯本大会のオセアニア単独枠を国際サッカー連盟(FIFA)に主張し、一旦は認められます。しかし、南米連盟(CONMEBOL)の強硬な反対に遭い、この構想が頓挫。やはり、オセアニアの実績の無さが、決定が覆る根拠となりました。長年に渡って大陸間プレーオフで負け続けてきた豪州は、もうこれ以上OFCに在籍のままだと自国の未来が開けないと判断。レベルが低くて島嶼国が多いオセアニアだと、レベルアップを図るには自ずと限界があるからです。ついに豪州は、2005年を最後に比較的実力が同等のライバルが多く存在するAFCに転籍することを表明します(他に商業的な理由もあります)。

オセアニアで戦う最後の大会となったのが2006年ドイツ大会でした。豪州はオセアニア予選を難なく通過しますが、ここで豪州サッカー連盟は大きな決断を下します。それは、大陸間プレーオフの為に、2005年7月に名将フース・ヒディンクをPSV(オランダ)との兼任監督として招聘したことです。豪州は南米予選5位のウルグアイと最後の切符を賭けて、前回日韓大会に続いて大陸間プレーオフで再戦。試合順を抽選で決めることになり、豪州は目論見通り2試合目のホームゲームを引き当てます。

豪州は前回の過ちを繰り返さない為に、初戦のウルグアイとの試合前の調整は、隣国のアルゼンチンでじっくり調整した後に、ギリギリでウルグアイに入国。もちろん、空港では相手サポーターとのトラブルを避ける為に、特別の玄関口を使ったのは言うまでもないです。前回の日韓大会のプレーオフと同様に、第1回W杯決勝戦の会場であるエスタディオ・センテナリオで第1戦が行われました。試合は、前半37分、レコバからのフリーキックをダリオ・ロドリゲスの頭で挙げた得点が決勝点となり、ウルグアイが1-0で先勝。またしても、豪州はプレーオフの初戦での弱さを露呈。しかし、ヒディンクにとってはこの結果は許容範囲内でした。

そして、4日後の2005年11月16日。82,698人の大観衆が集まったシドニーのテルストラスタジアム(現在は命名権によりANZスタジアム)での第2戦。前半35分、マーク・ブレッシアーノが執念で押し込んで、豪州が1-0で勝利し、2戦合計で1-1と並びます。その後、30分間の延長戦では両チームとも無得点のまま終わって決着が付かず、PKにまで縺れ込みます。豪州は、PK戦が得意のGKシュワルツァーが2本止め、最後はジョン・アロイージがきっちりと決めて、PK戦を4-2で制して遂に死闘に決着。皮肉にも、オセアニアで戦う最後の予選で、豪州は悲願の2度目のW杯本大会出場を果たしました。ちなみに、W杯予選のプレーオフで、PK戦で決着したのはこれが史上初めてです。32年前に初出場を果たした同じ地であるドイツなのも、何かの運命を感じます。



☆初戦は地元ウルグアイが1-0で勝利するも、豪州は被害を最小限に食い止める
(2001年11月25日 @ウルグアイ・モンテビデオ)



☆W杯史上初めてPK戦の末に本大会出場を決めたウルグアイとの第2戦
(2005年11月16日 @豪州・シドニー)




選手がセミプロ主体で、成績も2敗1分の無得点5失点と順当に1次リーグ敗退した32年前とは異なり、競技環境が飛躍的に向上したドイツW杯本大会では、ご存知の通り豪州は好成績を収めます。初戦では、途中出場したティム・ケーヒルが2得点を挙げる大活躍で、アジア王者の日本を3-1で逆転勝利を収めて念願の大会初勝利を挙げます。次戦の前回王者ブラジルには0-2で敗れるものの、クロアチアとの最終戦は粘り強く戦い、キューウェルの執念の同点ゴールで2-2のドローに持ち込み、出場2回目にして見事に1次リーグを突破を果たしました。決勝トーナメント1回戦では、後半ロスタイムにフランチェスコ・トッティに与えたPKで敗れたものの、この大会で24年ぶりに優勝することになるイタリアを相手に最後まで苦しませて堂々と渡り合ったのは立派でした。



AFCに所属してから初めて臨むアジア予選では、豪州は無失点で現在快調に最終予選で首位を走ってます。今までは、世界で最後に本大会出場権を賭けて大陸間プレーオフを戦ってましたが、ひょっとしたら最終予選の結果次第では世界で最初に出場権を獲得するかもしれません。豪州は、ただでさえ体格に恵まれて個人能力が高く、欧州のクラブでレギュラーとして活躍してる選手が多数も代表で中核を形成しているので、チーム力自体は欧州の中堅国とほぼ同等との評価もあります。

それだけに、豪州が長年もがき苦しんだ過去を振り返ってみると、フル代表だけでなく、各年代別の代表チームやクラブや女子部門においてアジアの強豪国と真剣勝負を常時こなしたら、数年先には国全体でサッカー界が強化されて、今以上に強くなりそうな気がします。4年に1度のアジア杯で、多数の欧州組を招集してまとまった期間を利用してチームの強化が可能になったことは、豪州にとっては間違いなくプラスに働くでしょう。

もし、来年6月の南アフリカ大会で、アジア代表の成績が不振でアジアの本大会の出場枠が減らされた場合、今後豪州は我々にとって巨大な壁になると思います。少なくとも、本当にプレッシャーが掛かる試合が大陸間プレーオフの2試合だけしか無く、持てる力を十分に発揮出来なかったOFCに在籍していた頃に比べれば、豪州の取り巻く環境は相当改善されたと思います。ただ、AFCに転籍しても、地理的には欧州から遠く離れていることには変わりは無いので、選手の招集や体調管理には苦しむのは避けられないと思います。

それにしても、この地域で断トツに強かった豪州が抜けたオセアニアは一体どうなっでしまうのでしょうか? 現状だと、今秋のアジア第5代表とオセアニア(今回はNZ)との大陸間プレーオフは、アジアはどのチームが出場しても、NZには勝てそうな気がしますけど。

そのうちOFCはAFCに吸収合併でもされるのでしょうか・・・

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