うんどうエッセイ「猫なべの定点観測」

おもに運動に関して、気ままに話したいと思います。
のんびり更新しますので、どうぞ気長にお付き合い下さい。

男子バレーがアトランタ五輪出場を逃してから14年(上)

2010年05月05日 | 団体球技(室内)
現在、五輪で実施している団体競技(球技)で、日本が五輪本大会に連続出場中の競技はいくつかあります。夏季五輪だとアトランタ五輪から4大会連続で男子サッカー、アテネ五輪から2大会連続で女子サッカーと女子バレーと女子ホッケーです。冬季五輪だと長野五輪から4大会連続で女子カーリングです。なお、ここで定義する団体競技(球技)とは、夏季五輪ではサッカー、バスケットボール、バレーボール、ハンドボール、ホッケー、水球。冬季五輪ではアイスホッケーとカーリングのことを指します。夏が男女合計で12種目、冬が男女合計で4種目です。



▼日本の団体競技(球技)の五輪連続出場記録はこのようになります

・夏季五輪 (2008年北京五輪までの記録です)
男子サッカー:1964年東京五輪と1968年メキシコ五輪の2大会連続
         1996年アトランタ五輪から現在継続中
女子サッカー:2004年アテネ五輪から現在継続中
男子バスケ:1956年メルボルン五輪から1964年東京五輪までの3大会連続
        1972年ミュンヘン五輪と1976年モントリオール五輪の2大会連続
男子バレー:1964年東京五輪から1976年モントリオール五輪までの4大会連続
        1984年ロサンゼルス五輪から1992年バルセロナ五輪までの3大会連続
女子バレー:1964年東京五輪から1996年アトランタ五輪までの9大会連続
        2004年アテネ五輪から現在継続中
男子ハンド:1972年ミュンヘン五輪から1988年ソウル五輪までの5大会連続
男子ホッケー:1960年ローマ五輪から1968年メキシコ五輪までの3大会連続
女子ホッケー:2004年アテネ五輪から現在継続中
男子水球:1932年ロサンゼルス五輪と1936年ベルリン五輪の2大会連続
       1960年ローマ五輪から1972年ミュンヘン五輪までの4大会連続

・冬季五輪 (2010年バンクーバー五輪までの記録です)
男子アイスホッケー:1960年スコーバレー五輪から1980年レークプラシッド五輪までの6大会連続
女子カーリング:1998年長野五輪から現在継続中


注)・ボイコットした1980年モスクワ五輪も記録に含む(女子バレーと男子ハンド)。
  ・女子バスケと女子ハンドと男子カーリングと女子アイスホッケーは連続出場はありません。
  ・女子水球は五輪に出場したことはまだありません。
  ・男子ホッケーは本来なら1972年ミュンヘン五輪の出場権を獲得してましたが、
   日本体育協会と日本オリンピック委員会の手続きミスの為、本大会には参加できませんでした。
  ・五輪競技から除外された野球は1992年バルセロナ五輪から2008年北京五輪まで5大会連続出場。
   (公開競技のロサンゼルス五輪とソウル五輪を含めると7大会連続出場)
  ・ソフトボールは1996年アトランタ五輪から2008年北京五輪まで4大会連続出場。 



五輪連続出場を現在継続中なのは、前述したこの5つの種目だけです。かつて日本のスポーツが強かった1970年代までは、多くの競技で五輪の出場権を獲得し、本大会に出場してない競技の方が少ないくらいでした。しかし、企業アマで競技環境が貧しい日本のスポーツは、1970年代後半から徐々に弱体化。五輪自体も、1980年に国際オリンピック委員会(IOC)会長にフアン・アントニオ・サマランチが就いてから商業主義を導入。そして、プロ選手の参戦を認可したオープン化により、大会のレベルがアップします。

また、世界的な競技の普及により、相対的に地盤沈下。アジアにおいても、1979年の中国のIOCへの復帰や、地元五輪開催に伴う韓国の台頭。極めつけは、1980年モスクワ五輪のボイコットのダメージも重なります。1980年代以降の五輪では、日本は団体競技の連続出場が途切れるだけでなく、本大会の出場権を獲得することすら困難になりつつあります。現在のオープン化した五輪は、メダルを獲るのはもちろんのこと、予選を勝ち抜いて出場すること自体がとても大変ということです。そして、団体球技は五輪の連続出場が一旦途絶えると、復活するのは容易ではないです。

ちなみに私は、上記の2大会以上連続出場している種目の中で、五輪の連続出場記録が途絶えた瞬間をリアルタイムで知っているのは3つあります。その3種目とは、1992年バルセロナ五輪出場を逃した男子ハンドと、1996年アトランタ五輪出場を逃した男子バレーと、2000年シドニー五輪出場を逃した女子バレーです。男子ハンドに関しては以前書きましたので、どうぞこちらをご覧になって下さい(→詳細はこちら)。どの種目にも共通してますが、連続出場の記録が途絶えた瞬間は、何とも言えない喪失感とやり場の無い怒りを覚え、放心状態に陥ります。

そして、今回取り上げるのはアトランタ五輪出場を逃した男子バレーです。今から14年前のことなので、まだ覚えている人は多いと思います。自分も含めたバレーファンにとっては、このアトランタ五輪の予選敗退は忌まわしい悪夢です。しかも、予選突破の確率が高かったのにも関わらず、自滅に等しい形で無残に砕け散りました。なので、自分が知っているこの3種目の中で、この男子バレーこそが最も憤慨しました。ただ、鯉幟が揺れるゴールデンウィークの頃になると、どうしてもフラッシュバックのように蘇るので、あえて思い出したくない記憶を紐解きながら今回書かせて頂きます。



アトランタ五輪の男子バレーの出場資格は、それ以前の大会からレギュレーションを変更しました。なお、バルセロナ五輪の出場資格は、開催国と前回五輪優勝国と1989年W杯優勝国と1990年世界選手権優勝国の4チームは、自動的に五輪出場権を獲得。それ以外の国は、五輪前年の各大陸選手権優勝国(5枠)→1991年W杯最上位国(既に五輪出場権を獲得した国以外で1枠)→世界最終予選(2枠)の順で予選を行いました。だが、アトランタ五輪以降の大会だと、五輪開催国以外は、五輪前年のW杯上位3ヶ国→五輪年の春に開催された各大陸予選1位国(5枠)→大陸予選で敗退した国による世界最終予選(3枠)へと変更しました(なお、ロンドン五輪も同じ予選方式です)。このレギュレーションの変更が日本に微妙に影響します。

1990年代半ば頃の日本は、アジアではトップレベルを誇ってました。五輪はロサンゼルス五輪から3大会連続出場。バルセロナ五輪では予選リーグで米国に“判定勝ち”して、順位決定戦ではEUN(旧ソ連)に勝って6位入賞。1994年世界選手権は9位に終わりますが、優勝したイタリアに唯一の黒星をつけます。同年秋の広島アジア大会では中韓を倒して優勝。翌1995年のアジア選手権では全勝優勝。同年秋のW杯では、中韓だけでなく、キューバやアルゼンチンにも勝利し、7勝4敗で12チーム中5位入賞と健闘。なお、この時の代表チームを率いた監督は、ミュンヘン五輪金メダリストの大古誠司でした。

前回までの予選方式だったら、五輪前年のアジア選手権優勝国に五輪出場権を与えられました。もし、1995年のアジア選手権が五輪予選と兼ねていたら、地力に勝る日本が高い確率でアトランタ行きを決めていたと思われます。実際にこの大会で日本は優勝しましたから。また、監督の大古はチームを率いて5年目でしたし、選手もエースの中垣内祐一、荻野正二、青山繁、大竹秀之、南克幸ら蒼々たる顔ぶれが揃ってました。予選方式が変更したとはいえ、この時点では日本男子のアジアにおける優位性は高く、五輪本番でもメダルは困難でしたが上位入賞は可能と思われたチームでした。

ところが、その後、代表チームを取り巻く状況が暗転。なんと、予選3ヶ月前の1996年1月に、監督の大古が女子代表監督の小島孝治とともに突然の辞任を発表。前年末に、日本バレーボール協会会長の松平康隆が金銭に纏わる醜聞で辞任するなど、協会内の人事抗争が表面化。おそらく、大古の後ろ盾になっていた松平が辞任に追い込まれたことが、代表監督の人事にまで波及したと思われます。男子はコーチを務めていた辻合真一郎(女子は吉田国昭)が内部昇格する形で後を継ぎました。この混乱は、順調に強化をしていた代表チームに暗い影を落としました。



1996年4月12日にアジア予選が開幕。出場国は日本、韓国、中国、豪州の4ヶ国。予選方式はソウルと東京の2ヶ所でそれぞれ総当りのリーグ戦を行い、6戦合計の首位チームが五輪出場権を獲得。それ以外の3チームは世界最終予選に回るレギュレーションでした(なお、この当時はまだサイドアウト制です)。突然の監督交代の為、当初優位だった日本に不安がありました。

だが、蓋を開けてみれば、日本はソウルラウンドを3戦全勝で折り返します。内容も素晴らしく、失セットがゼロの完勝。中でも、最初の天王山だった宿敵韓国とのアウェー戦では日本のアタックやブロックが悉く決まり、全セットを一桁失点に抑える最高の形で勝利を収めました。日本は4月19日から国立代々木競技場で開催の東京ラウンドで、初戦の中国戦と2戦目の豪州戦でストレートで連勝すれば首位が確定し、最終戦の韓国戦を待たずに五輪出場権を獲得出来ました。圧倒的に日本が優位な立場のはずでした・・・。

ところが日本は、初戦の中国戦でまさかの敗戦を喫します。しかも、12-15、10-15、12-15とストレートで完敗。中国はこの試合に勝てば五輪出場の芽が復活するので底力を発揮。第1セットの7-7の場面から、日本は3連続ブロックなどで7連続失点を喰らいます。中垣内と泉川正幸の単純な攻撃が中国の高いブロックに悉く捕まり、この日の日本はブロックだけで相手の2倍の22点も失うなど、攻守に精彩を著しく欠きます。

「出足で走られ、あわててしまった。韓国の1回戦に勝ち、日本でも楽勝できるという気持ちがあったのかも・・・」(1996年4月20日付の朝日新聞)とエース中垣内がコメントしているように、明らかに慢心だった日本は相手を見くびって足元を掬われました。翌日の豪州戦で辻合監督は、エースの中垣内を下げるショック療法を施し、3セット合計で相手に15点しか許さずにストレートで完勝。五輪切符の行方は、最終戦の韓国戦の結果に委ねられました。



そして、4月21日の運命の日韓戦。アイドルを起用した場違いな黄色い声援が会場を包み込みました。一度死んだはずの韓国は、この日の為にとっておきの秘策を駆使します。まず、サウスポーのスーパーエース・金世鎮を外して、日本の作戦を探る為に林度憲を起用。いつもと異なる布陣で日本を撹乱。そして、もうひとりのエースで右利きの申珍植の強打で滅多打ちに。日本がリズムを取り戻し始めた時に金を投入して、二本柱で目先を変える算段でした。この罠に日本はまんまと嵌ります。

第1セットは絶対に勝たなくてはいけない韓国が15-10で取ります。第2セットは逆に日本が優勢に展開。佐々木太一のジャンプサーブや中垣内の強打で韓国の守りを乱して14-7とセットポイントを握り、このまま日本がこのセットを奪うのかと思われました。ところが、猛反撃を仕掛けた韓国がジワジワと迫ります。15-14の時に、中垣内のスパイクがマーカーに当たったと不利なジャッジを受け、更に日本は浮き足立ちます。なんと、日本は第2セットのセットポイントを14度も握りながらものに出来ず、逆に粘った韓国が17-16で第1セットに続いて連取(なお、この当時のデュースは最大17点までです)。鬼の形相をした申珍植に、この日だけで49本ものスパイクを決められます。

もうこうなると流れは完全に韓国に傾きます。第3セットこそ日本が15-13で奪い返しますが、第4セットは強打を炸裂した韓国が逆に15-13で奪い取り、セットカウント3-1で韓国が奇跡の勝利。「今の今まで、世界最終予選のことなど考えていなかった」(1996年4月23日付の朝日新聞)と中垣内が声を絞って語るように、中国戦で油断し、韓国の戦術変更に対応できなかった日本は、掴み掛けたアトランタの切符を手のひらからするりとこぼれました。鳶に油揚げをさらわれた日本は、史上初めて五輪出場権を失ったモスクワ五輪以来、2度目の世界最終予選に回る羽目になりました。

(以下、次号へ)

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2 コメント

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これには腹が立ちました (こーじ)
2010-05-06 00:04:40
 モスクワの時は世代交代に失敗していたので‘仕方ないか’とも思ったのですが、アトランタの時は本当に腹が立ちましたよ。

 松平さんに言わせると‘バルセロナで上位に
進出し、アトランタでメダルを狙う’という事でしたし、実際アメリカと(ロスで苦杯を舐めた)カナダに2セットダウンから逆転勝ちして
ベスト8に入り順位決定戦でもEUNにフルセットの死闘の末に勝った大古ジャパンには期待してました。

 ただプロ化を提唱した松平氏が金銭スキャンダルを燻し出されて辞任に追い込まれたという
話を聞いてますが、まさかそれが原因で大古監督が辞任するとは思わなかったしアジア予選で
敗退するとは信じられませんでしたよ。

 しかもソウルラウンドでは全勝だったのに。
 この敗戦以降アジアでも勝てなくなってしまいましたね。

 松平氏が健在でプロ化への移行がスムーズに行き、大古監督が続投していたらこんな事にはならなかったのですけどね。

‘特に男子はプロ化しないとメダルはおろか、五輪への出場権すら取れなくなる’と松平氏は
プロ化推進のコメントを出してましたけど、まさかアトランタ以降その予言が当たるとは思いもしませんでした。
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コメントありがとうございます (猫なべ)
2010-05-06 01:20:35
こんばんは、こーじさん

今でも覚えてますが、私は黒鷲旗の試合で大古の顔を観た瞬間に、
怒りのあまりテレビに向かって物を投げつけましたよ(笑)。

この予選敗退を一言で表現すれば、間違いなく「自堕落」です。
全力を出し切って負けたのなら納得できます。
だけど、この予選敗退は内紛の末に自滅でしたから、非常に後味が悪かったです。

試合展開からすると、アジア予選でまさかの逆転負けを喰らった事に
ショックを受けた人は多いと思います。
中でも、中国戦の完敗は痛恨でした。
ただ、個人的には世界最終予選の方が遥かに衝撃的でした。

もちろん、欧州勢とは体格差はあります。
だけど、それ以上に体制の差(=プロ化)を痛感させられました。
この予選で対戦した欧州の中堅国と比較しても明確に差がありましたから、
五輪のメダルなんて絵に描いた餅だと思い知らされました。

90年代までは弱小国だった豪州が、アジアのトップクラスになったのも、
優れた体格だけでなく、選手の殆どが欧州のプロ選手なので
彼らの躍進には納得できます。

更に、いつもホームのヌルい環境で戦っている日本は、
一歩外に出ると全く力を発揮できないひ弱さも痛感させられました。

冷静に考えると、勝てる戦いを自堕落で負けて、
世界の潮流に背をそむけた日本男子が、長い空白期間を生み出したのも
やはり当然だと思いますね。
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