うんどうエッセイ「猫なべの定点観測」

おもに運動に関して、気ままに話したいと思います。
のんびり更新しますので、どうぞ気長にお付き合い下さい。

名勝負数え歌Vol.7 「悪夢の鬼門」

2009年08月01日 | 名勝負数え歌
◆サッカー・1990 FIFAワールドカップイタリア大会アジア最終予選
(1989年10月28日 @シンガポール/ナショナルスタジアム)

カタール 2(0-0)1 中国
得点者:カタール)86分 マンスール・スーフィー、88分 マンスール・ムスター
       中国)77分 馬林 


『鬼門』

(1)陰陽道(おんようどう)で、鬼が出入りするとされる、不吉な方角。艮(うしとら)(東北)の方角。
(2)俗に、行くとろくな目にあわない所。また、苦手とする人物や事柄。


【三省堂提供「大辞林 第二版」より】


人間は、古から縁起を担ぐ為に方角に対して大変に敏感です。「北枕」を忌み嫌うなどもそうなのでしょうか。また、方角だけでなく、苦手な人物や過去に嫌な思い出のある場所などに対しても、当然の如く忌み嫌って避けたがります。スポーツも同様で、相性が悪くて苦手としている天敵のような存在や、過去に苦い記憶のある土地や会場に対しては避けたくなるのが人間の習性でしょう。たとえ、選手本人がその経験をしてなくても、歴史を受け継いでいる以上、嫌でも意識せざるを得ないです。

日本のスポーツ界で「鬼門」としている場所は、サッカーで例を挙げれば間違いなくカタールの首都・ドーハでしょう。1993年10月、当地で行われた米国W杯アジア最終予選。初戦のサウジ戦でスコアレスドローのあと、次のイラン戦は1-2で敗北。北朝鮮に3-0で大勝し、今までW杯予選で未勝利だった韓国に1-0とスコア以上の内容で圧勝。そして、誰もが初のW杯本大会出場を期待した最終戦のイラク戦。日本は2-1とリードしていたが、後半ロスタイムにショートコーナーからオムラム・サルランにヘディングシュートを決められてしまい、まさかの2-2の同点に・・・。結果、日本は韓国と勝ち点で並ぶも、得失点差で抜かれてしまい、初の本大会出場を目前にして無念の予選敗退。いわゆる「ドーハの悲劇」です。

「ドーハの悲劇」以降、日本サッカー界はこの地に因縁めいたものを、どうしても感じます。2006年12月6日、北京五輪代表が臨んだ当地で行われたアジア競技大会。日本は2次リーグ最終戦の北朝鮮戦を引き分けでも準々決勝に進出できる展開でした。開始早々の前半4分に洪映早にFKを決められるも、3分後に一柳夢吾が頭で決めて同点に追いつきます。しかし、後半18分、再びFKからキム・ヨンジョンに勝ち越し点を献上。結局、これが決勝点となって北朝鮮に1-2で敗れ、日本は決勝トーナメント進出を逃す失態を犯しました。翌年の2007年10月17日、当地で行われた北京五輪アジア最終予選のカタール戦。日本は前半終了間際にCKから青山直晃が先制点を奪うも、後半はカタールが徐々にペースを取り戻し、後半32分にハッサン・アルヘイドスのヒールキックで同点に追いつかれます。そして、後半ロスタイム、伊野波雅彦が自陣ペナルティエリア内で痛恨のハンドを犯し、このPKをカタールに決められてしまい、1-2でまさかの逆転負け。日本は結果的に北京五輪の出場は果たしますが、この敗戦で最終予選で苦境に立たされる事になりました。

ただし、この地は決して悪い思い出だけではありません。昨年2008年11月19日の南アフリカW杯アジア最終予選のカタールとのアウェー戦では、岡田ジャパンを結成してから最高の内容で3-0と圧勝を飾りました。意外にも、この白星が日本の対カタール戦の初勝利でした。また、1994年秋に当地で行われたU-16アジア選手権(現・AFC U-16選手権)で初優勝を飾った時の代表チームには、小野伸二、高原直泰、稲本潤一など多くの才能が選出。後に彼らは「黄金世代」と称され、日本を背負うことになります。1995年4月に行われたワールドユース選手権(現・U-20W杯)では、中田英寿や松田直樹らを擁して史上初めてアジア予選を勝ち抜き、本大会でもベスト8に進出。準々決勝でブラジルに敗れるも、1-2と善戦しました。だが、因縁めいたこの地で日本が試合をする時は、どうしてもあの悲劇を意識せざるを得ないです。これこそが、この地を日本が鬼門としてる証拠なのでしょう(再来年のアジア杯はカタール開催なので大丈夫なのかな?)。

日本のサッカーがプロ化された1993年に起きた「ドーハの悲劇」を知らない人は、たぶん少ないと思います。だが、その4年前に行われたイタリアW杯アジア最終予選を知っている方は、おそらくサッカーファン以外ではあまり少ないだろうと思われます。今回はこの最終予選で悲劇を味わったチームの鬼門に纏わる話をいたします。


                           *  *  *  *  *


1981年秋に開催されたスペインW杯アジア最終予選。中国・クウェート・ニュージーランド・サウジアラビアの4ヵ国が参加。H&A方式で行われ、2位以内に入れば本大会の切符を獲得できるレギュレーションでした。1978年に国際サッカー連盟(FIFA)に復帰後、初めてのW杯予選の挑戦となった中国は、1次予選で日本と北朝鮮を下し、最終予選でも一躍注目の的となりました。一足早く日程を終了した中国は、得失点差などを考慮しても、既に首位通過を決めたクウェートともに最終予選の勝ち抜きが有力視されてました。

ところが、最終節でNZが敵地リヤドでサウジに5-0で圧勝した為、中国と成績が全て並びました。そして、1982年1月10日に中立地であるシンガポールで、スペイン行きの最後の24枚目の切符を賭けたプレーオフでNZと戦う事になりました。華人が多いこの地は中国サポーターが圧倒的に多かったが、如何せん熱帯なので厳冬期の中国より南半球で真夏のNZの方が気象条件では当然有利に傾きます。これがモロに響いてしまい、中国はプレーオフで1-2でNZに敗れてしまい、鳶に油揚げをさらわれる格好となりました(→詳細はこちら)。



中国は1984年12月のアジア杯では、本大会出場3回目にして初めて決勝戦に進出。史上初のアジア制覇まであと一歩まで迫ります。だが、決勝で対戦したサウジは、1980年代以降は無尽蔵なオイルマネーを活用し、世界中から優れた指導者を掻き集めたり、アフリカから黒人選手を“輸入”するなど、物凄い勢いで強化してました。中国は健闘虚しく、“砂漠のペレ”と称された中東屈指の好選手のマジェド・アブドラーを擁するサウジに0-2で敗れて軍門に降り、アジア初制覇の野望は潰えました。奇しくも、このアジア杯の開催地もシンガポールの地でした。

その後、中国は、1987年秋に行われたソウル五輪アジア最終予選で、国立競技場での最終戦で日本を2-0で完勝。1949年に共産主義体制となって以降、本大会の出場権を初めて獲得しました。本大会の1次リーグではチュニジアにスコアレスドロー以外は、実質B代表だった西ドイツとスウェーデンに無得点で完敗。ただ、同年12月にカタールで開催されたアジア杯では4位入賞を果たします。イタリアW杯1次予選でも、アジア杯3位の強豪イランと激しい競り合いの末に勝ち抜いて、秋の最終予選に進出を決めました。中国はW杯出場の有力候補と見なされました。



1989年10月12日、イタリアW杯アジア最終予選が開幕しました。参加国は、韓国・中国・北朝鮮・サウジ・UAE・カタールの6ヶ国でした。セントラル方式(集中開催方式)で1回戦総当りのリーグ戦を実施し、2位以内に入れば本大会の出場権を獲得できました。試合会場は中立地でしたが、中国にとって因縁の地だったシンガポールでの開催でした。前々回のスペインW杯予選はNZとのプレーオフで敗れて初のW杯出場を逃し、5年前のアジア杯ではサウジに敗れて初の大陸王座の獲得に失敗するなど、中国にとっては忌まわしい土地です。

10月25日の第4戦を終えた時点の成績では、当時アジアで断トツの最強国だった首位の韓国が3勝1分で勝ち点7になり、残り1試合を残して2位以内を確定し、前回のメキシコ大会に続いて2大会連続3度目の本大会の出場を決定。また、前年のアジア杯を制して大会2連覇を果たしたサウジは、2敗2分で勝ち点が僅か2点だけしか獲得出来ず、最終節を残して脱落が決定。残り1枚の切符を巡って、2位UAE(1勝3分・勝ち点5)、3位中国(2勝2敗・勝ち点4)、4位北朝鮮(1勝2敗1分・勝ち点3)、5位カタール(1敗3分・勝ち点3)の4チームで激しく争う展開となりました(なお、当時はまだ勝ち点2の時代)。

10月28日、最終節は3試合とも別会場で同時刻でキックオフされました。華人が多く在住して最も集客が見込まれる中国vsカタール戦は収容能力が一番の大きいナショナルスタジアムが宛がわれました。奇しくも、この試合会場は、過去2度、中国が苦杯を舐めたあの忌まわしいスタジアムでした。両チームともW杯出場の可能性があったせいなのか、中々得点を奪うことが出来ず、スコアレスのまま試合が進行します。一方、当面のライバルである2位のUAEは、既に本大会の出場を決めていた韓国とマレーシアのクアラルンプールで対戦。前半にお互いに1点ずつ取り合った後は、両者とも膠着状態に陥ります。消化試合だった韓国はあまり無理をせず、守備が強かったUAEが攻め倦む展開でした。

UAEは第4節終了時点での成績は、1勝3分・勝ち点5・得失点差+1でした。一方、中国は、2勝2敗・勝ち点4・得失点差が0。UAEは勝てば、他の試合に関係なく自力でW杯出場が決定。最終節で両チームとも引き分けに終わった場合は、勝ち点で上回るUAEが本大会の出場権を獲得。UAEが負けた場合、中国は引き分け以上でW杯出場でした。もし、このまま2試合がドローで終わった場合はUAEの出場となります。UAEの試合を考慮すると、中国が悲願達成の為には目の前の試合に勝つことが絶対条件でした。



後半に入っても、中国はカタールの守りに手を焼いて攻め倦みます。だが、後半32分、中国のパワフルなゴールハンターの馬林が混戦状態から相手ゴールに押し込み、ついに待望の先制点。馬林はこの試合の2年前に行われたソウル五輪アジア最終予選で、日本を苦しめた選手としても有名です。もし、このまま試合が終わると、中国は3勝2敗で勝ち点6・得失点差+1となり、UAEと並びます。ただし、今大会は勝ち点で並んだ場合、①全体の得失点差→②総得点差→③当該対戦成績の順番で順位を決定します。なので、中国とUAEは勝ち点では並びますが、総得点では中国が5点になり、UAEの4点を上回って順位で逆転し、中国が逆転でW杯本大会の出場権を獲得となります。UAEにもこの状況は伝えられているはずでしたが、どうしても得点を奪えません。このまま試合を終えれば、中国にとっては8年越しの悲願達成となるはずでした・・・。

ところが、試合は終了が近づくにつれて思わぬ展開となります。まだ、微かに可能性があったカタールは執念の反撃を敢行。残り時間が僅か4分間になった頃、カタールは右サイドからのクロスをマンスール・スーフィーが決めて同点に追いつきます。完全に気落ちした中国は守備が決壊。2分後にはマンスール・ムスターに逆転弾まで奪われます。そして、このままタイムアップの笛。中国は試合終盤でカタールにまさかの連続失点を喰らって1-2の逆転負け。結局、2勝3敗で勝ち点が4に留まり、韓国戦を1-1で終えて勝ち点を6に伸ばしたUAEを上回る事が出来ませんでした。それどころか、痛恨の逆転負けを喰らったカタールにまで順位で抜かれてしまい、4位で予選敗退が決定。またしても、鬼門シンガポールで歴史が繰り返されました。最終的に、UAEがタナボタでイタリアへの切符が転がり込みました。

ちなみに、韓国と共に出場権を得たUAEは1勝4分の成績で勝ち抜きました。この当時の勝ち点がまだ2点制だった事も、UAEには幸運に働きました。もちろん、金鋳城や崔淳鎬などを擁し、自国開催だったソウル五輪に向けて強化して、当時アジア最強の地位を築いていた韓国にとって、このUAE戦が消化試合だったこともUAEには結果的に有利に作用しました。「恐韓症」の中国はこの最終予選では韓国に1-0と負けてますから尚更です。そして、UAEにとって一番大きかったのは、最終予選で挙げた貴重な白星が、直接のライバルである中国に勝った事です。しかも、中国戦は残り2分間で挙げた逆転勝利です。つまり、中国は大事な試合であともう少し辛抱できたら夢が叶ってたのです。UAE戦とカタール戦のどちらかで守備陣が持ちこたえていれば、間違いなく中国は悲願のW杯出場を果たせました。



中国は2002年日韓W杯では、名将ボラ・ミルティノビッチに率いられたチームがアジア予選を見事に勝ち抜き、W杯予選に初挑戦した1958年のスウェーデン大会から数えて44年越しの悲願を達成します(なお、本大会は無得点9失点で3戦全敗)。ただし、この大会のアジア予選は、日韓両国が開催国の為に予選を免除されていたので、かなりの幸運に恵まれてました。また、アジア最終予選の組み合わせを決めるシード順位も、なぜか実績のあるイランよりも、UAEを高く評価させてイランのシード順位を落とし、結果的に中国は恩恵を受けた格好でした。当時、W杯のチケット販売に苦しんでいた韓国が、地理的に近い中国の観客を当て込んでました。その為、中国を本大会に出場させる為に、国際サッカー連盟(FIFA)副会長だった韓国の鄭夢準が政治力を遺憾なく発揮して、“裏工作”を実行した噂があります。

ただ、中国は日韓W杯予選を除いて、最後の試合でひっくり返される同様のパターンを、あらゆる大会で繰り返します。1992年1月にマレーシアのクアラルンプールで開催されたバルセロナ五輪アジア最終予選(6ヶ国が参加、出場枠は3)。中国は最終戦の韓国戦で1-3と大敗を喫し、得失点差でクウェートに逆転されて五輪出場権を逃してます。2004年11月17日のドイツW杯アジア1次予選では、中国は最終戦で香港に7-0で圧勝するも、肝心なところでPKを失敗。このミスが大きく響き、同時刻でキックオフして6-1でマレーシアに大勝したクウェートに、勝ち点、当該対戦成績、得失点差で並ぶものの、総得点で僅か1点及ばず、痛恨の1次予選敗退。前回の2007年のアジア杯東南アジア大会でも、中国は1次リーグ最終戦のウズベキスタンを引き分けでも決勝トーナメントに進出できたが、0-3で惨敗を喰らい、1次リーグ敗退の憂き目に遭いました。

考えると、バルセロナ五輪アジア最終予選と前回のアジア杯は開催地がマレーシアだったから、中国にとっては、シンガポールの隣国のマレーシアも鬼門なのかもしれません。真剣勝負では、ここ一番で当面のライバルを確実に倒す勝負強さが求められます。同時に、鬼門のジンクスを乗り越える事も大切です。

ちなみに、このイタリアW杯アジア予選の日本は、最終予選で最下位に終わった北朝鮮に敗れて、1次予選であっけなく敗退。世界はまだまだ遠い時代でした。そして、中国がシンガポールで悪夢を味わったちょうど4年後の1993年10月28日に、あの「ドーハの悲劇」を味わう事になります。



▼イタリアW杯アジア最終予選の全成績
                                  T  W  L  D   得  失  勝
1989/10/12 UAE 0-0 北朝鮮      1位韓国    5  3  0  2   5 - 1  8 (W杯出場権獲得)
1989/10/12 中国 2-1 サウジ      2位UAE     5  1  0  4   4 - 3  6 (    〃    )
1989/10/13 韓国 0-0 カタール     3位カタール  5  1  1  3   4 - 5  5
1989/10/16  カタール 1-1 サウジ    4位中国    5  2  3  0   5 - 6  4
1989/10/16 韓国 1-0 北朝鮮      5位サウジ   5  1  2  2   4 - 5  4
1989/10/17 UAE 2-1 中国        6位北朝鮮  5  1  3  1   2 - 4  3
1989/10/20 韓国 1-0 中国
1989/10/20 北朝鮮 2-0 カタール
1989/10/21 サウジ 0-0 UAE
1989/10/24 UAE 1-1 カタール
1989/10/24 中国 1-0 北朝鮮
1989/10/25 韓国 2-0 サウジ
1989/10/28 UAE 1-1 韓国
1989/10/28 サウジ 2-0 北朝鮮
1989/10/28 カタール 2-1 中国


イタリアW杯アジア最終予選の詳細の記録
イタリアW杯アジア最終予選の詳細の記録(wikiより)
国際サッカー連盟(FIFA)の同予選の詳細の記録


【参考文献】後藤健生著・ワールドカップの世紀(文藝春秋社刊)



☆UAEが最終予選で唯一の勝利を挙げた中国戦のダイジェスト
(1989年10月17日 @シンガポール/ナショナルスタジアム)



☆中国は最終節でカタールに先制点を奪うも、終了間際に逆転を許して1-2で敗れ、またしてもW杯出場に失敗
(1989年10月28日 @シンガポール/ナショナルスタジアム)



☆UAEは最終節で既に出場を決めていた韓国と1-1で引き分けて初のW杯出場権を獲得
(1989年10月28日 @マレーシア・クアラルンプール)



☆ドイツW杯アジア1次予選の中国とクウェートの攻防

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。