うんどうエッセイ「猫なべの定点観測」

おもに運動に関して、気ままに話したいと思います。
のんびり更新しますので、どうぞ気長にお付き合い下さい。

赤いユニフォームでW杯予選を戦った横山全日本(中)

2011年06月21日 | サッカー(全般)
1989年6月11日、横山全日本はインドネシアをホームに迎えて、イタリアW杯アジア1次予選の第4戦を戦いました。だが、W杯予選という最も重要な公式のタイトルマッチであるにも関わらず、なんと高校&大学サッカーで御馴染みの西が丘サッカー場が試合会場に宛がわれました。この当時で大規模なスタジアムは、国立競技場か神戸ユニバー記念競技場の2つぐらいしかありませんでした。おそらく、この2会場が他のイベントで使われていたので、西が丘になったと思われます。ただ、驚くべきは、収容人員が1万人にも満たないスタジアムなのに、満員になりませんでした。更には、西が丘のピッチの芝は殆どが剥げており、赤茶けた土まで露出。試合当日は雨だったので、まるで重馬場のようなでした。

このピッチ状態に怒ったインドネシアのモハメド・バスリ監督から、「一体、本番はどの会場でやるんだ?」とか「日本は競馬場でサッカーをやるのか?」などクレームを散々言われる始末。1989年当時の日本は、「東京23区を売れば米国全部が買える」とか「日本を売れば米国を3つ買える」と実しやかに言われたほど、実体が全く伴わない鰻上りの地価を背景としたバブル経済の絶頂期でした。決して経済的に豊かだとは言えないインドネシアが、自分達よりも遥かに豊かな経済大国の日本に乗り込みながら、まさかこんな粗末な扱いをされるとは夢にも思わなかったでしょう。ちなみに、インドネシアには8万人収容出来る天然芝のセナヤン・スタジアム(現在の名称はゲロラ・ブン・カルノ・スタジアム)というアジアでも屈指の立派な競技場があります。ピッチの中のレベルはともかく、一体どちらがスポーツに理解があるのかは一目瞭然でしょう。だけど、これが1989年当時の日本の現実でした。

究極の“地の利”を手に入れた横山全日本は、泥濘状態のピッチのせいで技術が減殺されて苦しんだインドネシアを横目に、試合序盤から圧倒。前半5分の堀池巧の得点を皮切りに、今までの得点力不足が嘘のようにゴールラッシュとなり、5-0で圧勝。「アウェーの洗礼」というより、理不尽な仕打ちを受けたインドネシアは、試合後の記者会見で再びバスリ監督が「このグラウンドは本当にFIFAの公認を受けているのか?」と言い残して帰国の途に就きました。当時の日本スポーツ界のお寒い状況を象徴していたこの試合は、勝利の爽快感よりも、虚しさの方が上回りました。

F組の首位に立っていた横山全日本は、翌週の6月18日、“同格”の香港を神戸に迎えてホームゲームを戦います。しかし、守備を固めた相手を攻め倦み、またしても決定力不足が響いてスコアレスドローに終わります。香港は、この4年前のメキシコW杯予選アジア2次予選では2連勝した相手でした。奇しくも、同じ神戸でのホームゲームでは3-0で快勝を収めてました。日本は、引き分けが多くて勝ち点を落とし過ぎていただけに、この結果は極めて痛恨でした。というのも、日本は翌週に平壌で北朝鮮との最終戦を控えていたからです。5戦を終えて2勝3分で勝ち点7を挙げた日本は、2位北朝鮮に勝ち点で4差を付けて首位に立ってました。しかし、北朝鮮はビザ発給が遅れた原因で、香港とインドネシアとのホームゲーム2試合分を7月に延期してました。なので、日本が自力で1次予選を突破する為には、敵地でのこの一戦を絶対に勝利する必要が生じました。

前回のメキシコW杯アジア1次予選に続いて平壌で北朝鮮と大一番を戦うことになった日本。
過去2度戦って引き分けたかの地で、運命を委ねることになりました。

(以下、次号へ)


・関連記事
赤いユニフォームでW杯予選を戦った横山全日本(上)
赤いユニフォームでW杯予選を戦った横山全日本(下)



☆日本vsインドネシアのダイジェスト(1989年6月11日 @東京・西が丘サッカー場)



☆日本vs香港のダイジェスト(1989年6月18日 @神戸ユニバー記念競技場)




最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
ある意味‘国辱’ですね (こーじ)
2011-06-22 22:42:33
 当時私もスポーツニュースで見て‘何で西が丘?’と驚愕したものです。

 あんな会場で勝っても釈然としませんでしたし、その流れが神戸での香港戦のスコアレスドローにつながるのでしょうね。

 ちなみに この年の8月7日に‘サッカーフェスタ’として代表チームがマンUと神宮球場で対戦したので、他に用事がなかったので観戦に行ったのですけど人工芝でのサッカーは酷いものでしたよ。

 なにせ細かいパスワークが持ち味の日本のパスが人工芝で全く通らず、マンUのハイクロスで
圧倒され0-1とはいえ内容的には惨敗でした。

 こんな会場で試合をやっている間はW杯出場など未来永劫無理と思った当時でした。
返信する
コメントありがとうございます (猫なべ)
2011-06-23 19:16:22
こんばんは、こーじさん

ちなみに、当時の西が丘のベンチは、メインスタンド側(ホームチーム)とバックスタンド側(アウェーチーム)に分かれてました。
つまり、野球場と一緒で、1塁側と3塁側のような感覚の構造でした(笑)。
更に言うと、電光掲示板が無く、なんと手書きの看板でした。
(しかも、スペースの関係で名字だけでした・笑)

神宮でのマンU戦は覚えてます。もうこの当時から監督はファーガソンでしたね。
今考えると「赤い悪魔」に対して失礼な行為ですよね。
日本は秋の最終予選の強化の為に、同時期にエバートンとボカジュニアーズも呼びましたね。
ただ、当初の意味は全く無くなり、ただの観光旅行のついでの試合になりましたけど(苦笑)。
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。