うんどうエッセイ「猫なべの定点観測」

おもに運動に関して、気ままに話したいと思います。
のんびり更新しますので、どうぞ気長にお付き合い下さい。

赤いユニフォームでW杯予選を戦った横山全日本(上)

2011年06月17日 | サッカー(全般)
今から22年前の1989年6月。同月3日には、1979年にイスラム革命を指揮したイランの最高指導者のホメイニ師が死去。翌4日には、中国で民主化運動を政府が武力弾圧して多数の死者を出した「天安門事件」が発生。18日には、ポーランドで事実上の自由選挙が実施されて共産主義政権が崩壊。平和裏に民主化への移行がなされて、後の東欧革命の端緒となります。まさに、現代史の視点においても激動の月となりました。

世界が大きく揺れ動いていた同じ頃、この時点ではまだW杯本大会の出場経験が無かったサッカー日本代表は、イタリアW杯アジア予選に臨みました。22ヶ国が参加した1次予選は6組に分かれ、各組首位のみが秋に行われる最終予選に進出。最終予選の上位2位までが本大会の出場権を獲得出来るレギュレーションでした。この4年前のメキシコW杯で初めてアジア最終予選まで進出した日本は、イタリアW杯アジア1次予選では北朝鮮・インドネシア・香港と同じF組に入りました。なお、前回メキシコ大会の予選では、北朝鮮とは1次予選、香港とは2次予選で対戦し、それぞれ勝利を収めてます。さすがに、この当時の日本は、1970~1980年代前半頃の暗黒時代は脱しており、4年後の1993年には国内リーグのプロ化を表明してました。選手も少しずつ揃いつつありました。

ただ、1980年代末頃は、韓国が1988年ソウル五輪の為に非常に強化されていたので、アジアの中では断トツで強かったです。1986年メキシコW杯では、最終予選で日本にホームとアウェーともに連勝して32年ぶり2度目の出場権を獲得。韓国は2敗1分で1次リーグを最下位で敗退するも、ブルガリアを相手に1-1で引き分けて初めて勝ち点1を挙げ、更には前回優勝国のイタリアを相手に2-3と善戦します。同年秋の自国開催のアジア大会でも韓国は圧倒的な強さで優勝を飾り、1988年12月にカタールで開催されたアジア杯では決勝戦でPK戦の末にサウジアラビアに敗れるものの準優勝します。アジアで頭一つ抜けていた存在の韓国を、中東勢や中国&北朝鮮が追いかける構図でした。アジアのセカンドクラス以下だった日本は、せいぜい香港と同等でした。かなり甘く見積もっても、日本が最終予選で2位以内に入ってイタリア行きの切符を掴める可能性は低く、それどころか1次予選突破すら危ぶまれていたのが大方の見方でした。

しかも、当時の日本代表監督は、あの横山謙三の時代でした。横山は、三菱重工のGKだった現役時代は、1968年メキシコ五輪で銅メダルを獲得するなど、大変な有名選手でした。しかし、監督としては力量にかなり疑問符が付く、曰く付きの人物でした。三菱重工時代は、日本リーグ・天皇杯・JSL杯でそれぞれ2度ずつ優勝経験があります(1978年は国内3冠を達成)。だが、日本代表監督としては、全くといってよいほど指導力を発揮出来ませんでした。要するに、代表監督としての適正に欠いた人物でした。なにしろ、この当時は選手は揃いつつあったのに、選手の良さを活かす戦術が皆無でしたから。横山は、当時世界で流行していた3-5-2システムを導入するも、実態は攻守のバランスを考えずに快速FWを両翼に並べる愚策でした。要するに、システムの本質を全く理解しておらず、舶来崇拝の劣化コピーに過ぎませんでした。監督の指導力に不安があったせいなのか、ヘッドコーチに「日本サッカー界の父」のデッドマール・クラマーが名を連ねてました。

「W杯初出場」を目標にすることが、口にするのも憚られたこの時代。当時のサッカー日本代表チームの呼び方は、現在のように「日本代表」とか「代表」ではなく、「全日本」と呼ばれていたのが一般的だったような気がします。現代だと、「全日本」という呼び方はバレーボールぐらいでしょう。ましてや、「岡田ジャパン」や「ザックジャパン」みたいに、「監督名+ジャパン」の呼び方をするのは当時はあまり見かけませんでした。おそらく、その呼び名が世間一般に定着したのは、1992年3月に代表監督に就任したハンス・オフト以降だと思われます。また、「サポーター」という言葉も無く、応援の仕方もチアホーンを吹くのがまだ主流でした。それ以前に、この当時の日本国内においては「ワールドカップ」という大会名自体、サッカーを意味するものではなく、バレーボールのものだと認識されてました。たぶん、五輪よりもW杯の方が規模の大きい大会だということも、世間一般的にはあまり知られてなかったと思われますね。

そして、横山監督時代の代表チームのユニフォームは、現在のように青を基調したものではなく、なんとでした(なお、セカンドユニフォームは白)。また、胸についていたマークが、日の丸から協会の紋章(八咫烏)に変更となりました。もちろん、ユニフォームの色は日の丸をイメージしたのですが、韓国のユニフォームと見間違うほど紛らわしかったです。同じ東アジアの中国と北朝鮮も赤なのに、日本だけが弱かったので、このデザインは個人的には非常に大嫌いでした。それに、この当時は、レプリカのユニフォームを着てスタジアムに応援する人は殆ど見かけない時代でした。さすがに、あのダサいデザインのユニフォームを着るのは、かなり勇気の要ることだと思いますけど。なので、外国のサポーターが、代表チームのユニフォームを国旗や国歌と同じように誇りに思い、それを着て応援する姿は素直にカッコよく思えたし、羨ましくも感じました。国際大会を戦う日本代表は、決して国民全体の関心事ではなく、あくまでもサッカーファンだけの内輪の出来事に過ぎませんでした。応援している人も、W杯に出場できるとは心の底から信じてはなかったです。色々と振り返っても、この当時の日本にとって、W杯とは漫画の「キャプテン翼」の世界であり、現実には遥か遠い別世界の出来事でした。



横山監督時代(1988~1992年)の日本代表のユニフォーム


1989年5月22日、国民の関心そのものが薄かった横山全日本は、決してチーム作りが順調とは言えない中、イタリアW杯アジア1次予選に臨みます。1次予選はH&A方式で行われました。日本は最初の2戦をアウェーで戦いますが、決定力不足が響いて香港とインドネシアを相手になんとスコアレスドローに終わります(なお、この2試合はユニフォームが白)。ちなみに、香港戦は民主化運動の影響で試合日を1日ずらされました。2試合を終わった時点で、首位が1勝1分で勝ち点3の北朝鮮(当時は勝ち点が2点制)。2引き分けの日本はインドネシアと並んで勝ち点2で2位に。深刻な得点力不足でスタートダッシュに失敗した日本はいきなり瀬戸際に立たされました。ちなみに、この2試合はNHKが衛星第1で放送はしてましたが、地上波では放送すらしてません。ましてや、1980年代までは、民放局が日本代表の公式戦を中継すること自体が、殆どありませんでした。翌週の第3戦目で、この組の勝ち抜きの大本命だと思われた北朝鮮を国立競技場に迎え、日本は1次予選最初の大一番を迎えます。北朝鮮の監督は、1966年イングランドW杯のイタリア戦で決勝点を挙げた英雄である朴斗翼でした。

1989年6月4日、国立競技場には約35000人もの観衆が入りました。だが、異様な雰囲気に包まれてました。それもそのはず、日本人よりも、在日朝鮮人の方が多かったからです。それでも、ホームなのに“アウェー”と化した、4年前の1985年3月21日に同じ国立で行われたメキシコW杯1次予選で対戦した時よりかは幾分マシでした。ただ、この当時は安全確保の為に座席を隔離する措置をしておらず、両国の観客が混在する危険な状態だったので、ファン同士による小競り合いが勃発。更には、反日団体の朝鮮総連の指示で動員された在日の連中が、国旗をたくさん振りまくり、ハングル文字で書かれた横断幕をあちらこちらに張りまくり、ブラスバンドで聞き慣れないマーチを演奏し、挙句の果てにはバックスタンドで北朝鮮国旗を人文字で描くマスゲームまで演出。この試合はNHK教育テレビで観てましたが、奴らの我が物顔の振る舞いは、まるで聖地を敵性国家に乗っ取られた気分になったので、強烈な不快感と敵意と反感を抱きました。それ以前に、日本のホームゲームにも関わらず、相手の観客の方が多かったことに、寂しさと悲しさを覚えました。

冷たい雨の中で行われた4年前とは打って変わって、澄み切った青空の下、15時過ぎに運命のキックオフ。この日のユニフォームは4年前とは逆で、日本は上下とも赤で、北朝鮮は上下とも白でした。汗ばむ夏のような暑さの中で行われたこの試合は、下馬評が有利だった北朝鮮が失点を恐れたのか、意外にも消極的な戦いに終始し、前半は一進一退の展開が続きます。しかし、後半26分、日本は左サイドの裏を衝かれ、空いたスペースを駆け上がった北朝鮮がクロスを上げます。それを、のちに同国のフル代表監督となるユン・ジョンスが頭で決めて、北朝鮮に先制を許します。得点シーンの瞬間、東京で開催しているとは全く思えないほど、アウェーであるはずの北朝鮮応援団から大きな歓声が上がりました。

だが、その3分後、左サイドを駆け上がった佐々木雅尚が上げたライナー気味のクロスを、水沼貴史がダイレクトで鮮やかなボレーシュートを決めて日本が同点に追い着き、形勢が一気に逆転。その後、日本は何度も攻め立てるも中々追加点を奪えず、このままドローに終わるのかと思われました。だが、試合終了2分前、左サイドを攻め上がった長谷川健太がゴール前で待ち構えていた吉田光範を目掛けてクロスを上げますが、なんとそれをオ・ヨンナムが誤って自分のゴールに決めてしまいます。結局、この自殺点が決勝点となり、何とか日本が2-1で執念の逆転勝利を飾りました。第3戦を終えた時点で、日本は1勝2分で勝ち点4を挙げ、勝ち点3の北朝鮮を抜いてF組の首位に立ちました。

翌週の6月11日、横山全日本はアウェーで引き分けたインドネシアをホームに迎えて第4戦を戦います。
しかし、この試合は、北朝鮮戦とは全く違った意味で驚くべき光景を目にすることになります。

(以下、次号へ)


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赤いユニフォームでW杯予選を戦った横山全日本(中)
赤いユニフォームでW杯予選を戦った横山全日本(下)



☆香港vs日本、インドネシアvs日本のダイジェスト



☆日本vs北朝鮮のダイジェスト(1989年6月4日 @東京・国立競技場)




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2 コメント

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アウェーのインドネシア戦の時は (こーじ)
2011-06-19 13:03:09
 この時は蒲田で働いていたのですがアウェーのインドネシア戦の結果が載った時はラグビーの宿沢ジャパンがスコットランドに28―24で勝った記事がスポーツ紙の1面を飾ったのに対し、サッカーのW杯予選は結果のみでメンバーも日本選手の名前しか載らず詳細も殆どなし。

 北朝鮮戦はスポーツニュースを何気に見ていたら日本のユニが赤と知らなかったし場内の応援も北朝鮮の方が郵政だったで‘ありゃ、逆転?’と一瞬勘違いしたぐらいです。

 やはり国内の盛り上がりが こんなだと代表は決して強くはなりませんよね。
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コメントありがとうございます (猫なべ)
2011-06-19 22:02:25
こんばんは、こーじさん

ラグビーのスコットランド戦の金星が、インドネシアとのアウェー戦と同じ日だというのは、今気付きました(苦笑)。

たしかに、1980年代はサッカーよりもラグビーの方が人気が高かったですよね。
この頃はまだ自宅に衛星放送のチューナーを取り付けておらず、残念ながら地上波でしか観られませんでした。
なので、最初の2試合はニュース映像でしか観てなかった記憶があります。
ちなみに、インドネシアとのアウェー戦だけはユニフォームの色は覚えてないです。

それにしても、W杯予選をNHK教育テレビで中継したり、在日の方に国立をジャックされるなど、
今では考えられない環境ですよね。
とても、Jリーグ開幕の4年前とは思えない出来事ですね。
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