うんどうエッセイ「猫なべの定点観測」

おもに運動に関して、気ままに話したいと思います。
のんびり更新しますので、どうぞ気長にお付き合い下さい。

赤いユニフォームでW杯予選を戦った横山全日本(下)

2011年06月25日 | サッカー(全般)
今からちょうど22年前の1989年6月25日、イタリアW杯アジア1次予選F組の最大の大一番となった北朝鮮vs日本は、平壌を流れる大同江の中洲に浮かぶ天然芝の羊角島競技場で挙行されました。前回のメキシコW杯アジア1次予選でも両国は対戦しましたが、その時の試合会場はマスゲームで御馴染みの人工芝の金日成競技場でした。4年前は、不慣れな人工芝に苦しんだ日本は北朝鮮の圧倒的な猛攻の前に防戦一方の展開を強いられますが、何とか無失点で凌いでスコアレスドローに持ち込み、1次予選突破に大きく前進する貴重な勝ち点1をもぎ取りました。しかし、今回は4年前よりもハードルが高かっただけに、かなり厳しい展開が予想されました。

日朝両国にとって、この平壌での一戦は極めて重大な戦いのはずだったのですが、なんと日本では生中継を実施せず、NHK総合テレビで深夜0時に録画中継でした(なお、NHK衛星第1は4時間半遅れの21時半から録画中継)。別に、地上波で生中継を見送ったのは、技術的に不可能だった訳ではなく、ただ単に需要が少なかったのが原因でしょう。なにせ、この試合はテレビ中継自体が元々予定すらされてませんでした。試合当日の昼になって、NHKが急遽予定を変更して、録画放送をしてくれました。というのも、熱心なサッカーファンの方がNHKに試合を中継するように、たくさん電話をされたからです(→詳細はこちら)。一方、北朝鮮もこの試合はたぶん生中継しなかったと思われます。というのも、かの国は閉鎖的な独裁体制なので、都合の悪い結果を隠蔽するからです。

もし、いま同じような状況で北朝鮮と対戦したら、政治的な関心や興味本位でメディアが不必要に煽ることが容易に予想されます。北朝鮮にしても、国内情勢や外交関係が極度に悪化しない限り、試合を開催すると思われます。なぜなら、経済が破綻した北朝鮮にとって、合法的に外貨を稼げる絶好の機会だからです。6年前のドイツW杯アジア最終予選の北朝鮮対日本戦は、観客の暴動の影響で最終的に中立国のタイで無観客試合となりましたが、当初北朝鮮当局は日本人サポーターを数千人規模で受け入れる計画がありました。だから、体制に影響しない範囲内で、日本人サポーターやメディアを受け入れるのではないのかと思われます。ただ、1989年当時の日本国内においては、W杯には大して関心が無く、そもそもサッカーの試合の為に外国へ旅行する発想も無かったです。ましてや、国交の無い国だから尚更です。北朝鮮にしても、メリットが無いから特派員以外は受け入れるつもりは無かったのでしょう。理由は全く異なりましたが、お互いに殆どの国民がリアルタイムで観られなかった中、日朝両国は1次予選最大の大一番に臨みました。

35000人もの観衆が駆け付けた羊角島競技場は、通路にも人が埋まるほど立錐の余地も無い状態でした。ただ、通常の国際試合とは全く異なり、ほぼ100%北朝鮮の群衆が競技場全体を包囲する異様な光景でした。しかも、殆どが男だらけ。もちろん、彼らは支配政党である朝鮮労働党によって“選ばれた人”なのは言うまでもないです。彼らは、北朝鮮が攻めている時には大声で騒ぎ、逆に日本がボールを持った時は沈黙を貫きました。極めて単純な応援方法でしたが、かえって脅威かつ不気味でした。横山全日本にとって、まさに四面楚歌の状況の中、夕方の17時に主審がキックオフの笛を鳴らしました。東京の時とはユニフォームの色が逆で、アウェーの日本が白で、ホームの北朝鮮が赤でした。試合開始3分、日本は信藤克義(現在は健仁)からのスルーパスを受けた長谷川健太が抜け出して、GKと1対1の決定的な場面をいきなり作ります。だが、シュートはGKに弾かれて絶好機を逃します。以降は、3週間前とは全くの別人に変わっていた北朝鮮は、“赤い稲妻”の如く試合開始直後から猛攻を仕掛けます。無間地獄に陥った日本は終始劣勢を強いられます。

前半36分、北朝鮮は右CKから頭で折り返したボールをキム・プンイルが頭で押し込み、ついに均衡が破れます。前半はCKすら皆無だった日本は、後半は細かくパスを繋いで反撃を試みますが、迫力不足で得点に至りません。逆に、後半39分にカウンターからリ・ヒョクチョンに止めを刺されて、万事休す。結局、横山全日本は0-2で無念の完敗。北朝鮮は4年前の雪辱を果たしました。この時点では、日程の関係で北朝鮮は日本よりも2試合少なかったので、まだ日本の予選敗退は確定してませんでした。ただ、北朝鮮が残していた2試合はいずれも平壌でのホームゲームでした。横山全日本は、まるで生命維持装置を取り付けて辛うじて生かされているのと等しい状態でした。既に予選敗退が決定した香港と、ほぼ望みが絶たれたインドネシアに一縷の望みを託しますが、北朝鮮が順当に2連勝を収めます。結局、横山全日本は最終予選にすら進めずに、1次予選で敗退が決定。8度目のW杯予選挑戦はあっけなく失敗に終わりました。ただ、サッカーファン以外ではセンセーショナルに語られることは無く、新聞の片隅に記事が小さく載っていた程度でした。

せっかく、メキシコW杯とソウル五輪で本大会出場にあと一歩のところまで進んだのに、この早期敗退でまたも振り出しに戻されてしまい、大いに幻滅させられました。ちなみに、日本を1次予選で破った北朝鮮は、同年10月にシンガポールで開催された最終予選では1勝3敗1分で最下位に終わってます。韓国とUAEが本大会の出場権を獲得しますが、両国とも本大会では3戦全敗と無残な結果に終わってます。アジアにとって世界はまだ遠い時代でした。なので、仮に日本が最終予選に進出したとしても、当時の実力ではアジアの強豪国を倒してイタリアへの切符を掴むのはかなり困難でした。なにせ、日本は前年の1988年12月にカタールで開催されたアジア杯は、史上初めて予選を勝ち抜いて決勝大会の出場権を得たのにも関わらず、なんと大学生選抜を派遣させて、フル代表の強化の機会を自ら放棄する愚行を働きましたから(ちなみに、同年4月の予選も実は大学生選抜だった)。ただ、日本が最終予選に進出していたら、たとえ最下位だったとしても、アジアの強豪国との真剣勝負を通じて厳しい経験を積めていたので、4年後の次回の米国W杯予選に活かされていた筈でした。その意味では、1次予選での敗退は失ったものがあまりにも大きく、極めて痛恨事でした。

そして、本当に迷走するのはこの後です。横山全日本は、W杯1次予選敗退した直後に無意味な南米遠征をした後、帰国してから国内で海外のクラブを招聘して親善試合も数試合実施。ちなみに、南米遠征ではブラジル代表と国際Aマッチで初めて対戦(試合は1-0でブラジルの勝利)。ただし、ブラジルは同年7月のコパアメリカに優勝したばかりなので、やる気が殆ど無く、観衆も約2000人だけでした。なお、この試合で決勝点を挙げたのが、後にJリーグで活躍するビスマルクで、監督はジーコの兄のエドゥでした。日本はこの“慰安旅行”から翌1990年7月のダイナスティ杯まで、なんと約1年近くも代表活動が休眠状態となります。1990年に至っては、国内での国際Aマッチ開催が皆無でした。更には、同年7月のダイナスティ杯(東アジア勢に無得点で3戦全敗)と10月の北京アジア大会(バングラデシュに勝つも、サウジアラビアとイランに敗北)の両大会で惨敗したのにも関わらず、協会は横山の進退を不問に。こうした無責任体制に対して、ついにサポーターの怒りが爆発。1991年1月には、横山解任を求めた署名運動にまで発展します。

しかし、一部のメディアや専門誌こそ取り上げられましたが、世間一般にはあまり知られることはありませんでした。サポーターの悲痛な思いを無視した日本協会は横山をそのまま続投させます。それどころか、協会は横山の進退を問う意味で、なんと五輪代表の監督まで兼任させ、結果的に時間を無為に過ごしました。やはり、世間やメディアが無関心だったことが、協会の不可解な人事や無策を助長させ、のちの「ドーハの悲劇」の発生の遠因となったとも言えなくもないです。

現時点では、W杯と五輪を通じて、日本がアジア最終予選の手前のラウンドで敗れたのは、このイタリアW杯が最後となってます。日本が世界の舞台で戦うことが当たり前の認識となっている平成生まれの方には、きっと理解出来ないであろう今回の話。忌まわしい記憶しか残らなかった赤いユニフォームとともに、もがき苦しんでいたあの頃をふと懐かしく感じることは時々ありますが、絶対に2度と戻りたいとは思わないです。ただ、同じ過ちを繰り返さない為にも、決して風化させてはいけないとも思います。



▼イタリアW杯アジア1次予選の日本代表の詳細の成績
(アジア予選には22ヶ国が参加、本大会の出場枠は2)

・1次予選 (F組)
1989/05/22 △0-0 香港<A>      @香港(香港政府大球場)
1989/05/28 △0-0 インドネシア<A>  @ジャカルタ(セナヤン・スタジアム)
1989/06/04 ○2-1 北朝鮮<H>     @東京(国立競技場)
1989/06/11 ○5-0 インドネシア<H>  @東京(西が丘サッカー場)
1989/06/18 △0-0 香港<H>      @神戸(神戸ユニバー記念競技場)
1989/06/25 ●0-2 北朝鮮<A>     @平壌(羊角島競技場)

・イタリアW杯アジア1次予選F組の結果 ※当時は勝ち点2点制
           T  W  L  D  得   失    勝
1位北朝鮮    6  4  1  1  11 - 5    9 (最終予選に進出)
2位日本       6  2  1  3   7 -  3    7
3位インドネシア 6  1  2  3   5 - 10    5
4位香港      6  0  3  3   5 - 10    3
〔日本は2勝1敗3分で2位に終わり、1次予選で敗退〕


・イタリアW杯アジア1次予選日本代表メンバー (所属チームは当時)  【監督】横山謙三
【GK】森下申一(ヤマハ)、松永成立(日産自動車) 【DF】梶野智幸(ヤンマー)、信藤克義(マツダ)、柱谷哲二(日産自動車)、堀直人(全日空)、堀池巧(読売クラブ)、井原正巳(筑波大学) 【MF】水沼貴史(日産自動車)、森正明(フジタ)、名取篤(三菱重工)、佐々木雅尚(本田技研)、大榎克己(ヤマハ)、草木克洋(ヤンマー)、平川弘(日産自動車)、池ノ上俊一(松下電器) 【FW】吉田光範(ヤマハ)、望月聡(日本鋼管)、前田治(全日空)、長谷川健太(日産自動車)、黒崎久志(本田技研)


・関連記事
赤いユニフォームでW杯予選を戦った横山全日本(上)
赤いユニフォームでW杯予選を戦った横山全日本(中)
男子サッカーがバルセロナ五輪出場を逃してから、今日でちょうど18年
覚えていますか? 1988年アジア杯カタール大会
名勝負数え歌Vol.7 「悪夢の鬼門」

イタリアW杯アジア1次予選の詳細の記録
イタリアW杯アジア1次予選の詳細の記録(wikiより)
国際サッカー連盟(FIFA)の同予選の詳細の記録



☆北朝鮮vs日本のダイジェスト(1989年6月25日 @北朝鮮・平壌/羊角島競技場)




最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
無関心が いかに増長させるかですね (こーじ)
2011-06-26 00:17:42
 今から13年前の11月に釜山に旅行に行くと男子バスケットの試合が全チャンネルでOAされていて‘盛り上がってるな’と思っていたら翌日のスポーツ紙は見開き1面を含めて4面をバスケットの試合に当ててました。

 これを見たときに‘日本の男子バスケが五輪に出るのは無理だな’と思いました。

 やはり代表の試合がスポーツ紙の1面を飾るぐらいでないと国民は注目せず、国民の厳しい目なくして代表は強くならないという事でしょうね。

 以前記したように89年の時点ではW杯1次予選よりもラグビーの宿沢ジャパンがスコットランドに勝った記事の方が大きく扱われてましたからね。

 今こんな事を協会がやったならメディアから
大きく叩かれるのは必至ですし、なぁなぁでやる無責任なアマチュアリズムの限界を露呈してましたね。

 それと同じようなメンバーでオフトが監督をすると全く違ったチームになったわけで、これを見ても監督の力がいかに大事かと痛感したものでした。
返信する
コメントありがとうございます (猫なべ)
2011-06-26 22:53:44
こんばんは、こーじさん

本当に仰るとおりですね。
12月~2月まではプロ野球のオフシーズンにもかかわらず、スポーツ新聞の一面が他の競技を差し置いて、ストーブリーグや、ぺえぺえの新人の話題で飾るようでは、本当に寂しい限りですね。

この1980年代当時のサッカー界は、「丸の内御三家」や学閥がまかり通っていた時代でした。
監督としての資質や能力よりも、本来なら全く関係ない政治力学で代表監督の人事を決めることを優先したので、結果が出ないのは当然ですね。
それに、世間やメディアも無関心だったことが拍車を掛けてます。
然るべき立場の人間が誰も彼らの行為に異を唱えなかったので、悪弊に疑問を抱くことなく、無責任体制がいつまでも続いたと思いますね。

なお、この6年後の1995年末に、加茂監督の去就を巡る「腐ったミカン事件」が発生します。
選手はプロになっても、協会幹部は未だにアマチュア体質なのを露呈したので、体質改善は決して容易ではなく、むしろ根は深いんだなと思わされました。
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。