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シリーズ②犬死だった兵隊、戦没者の遺骨はいまだ野晒が半数、戦没者追悼式で美化は捏造

2015-08-16 21:52:43 | 日記

15日、全国戦没者追悼式で安倍首相は「遠い戦場に、斃(たお)れられた御霊(みたま)、戦禍に遭われ、あるいは戦後、遥(はる)かな異郷に命を落とされた御霊の御前に、政府を代表し、慎んで式辞を申し述べます」と慇懃に式辞を述べた。さも、戦地で戦死したかのような美辞麗句だが、とんでもない事実の歪曲と捏造だ。戦没者の大半が餓死しているのだ。「聖戦」「大東亜の解放」の名のもとに、兵士は戦地に追いやられ、敵と戦うこと無く飢え死にした。そして、遺骨はいまだ野晒のまま抛って置かれたままだ。戦争の実態はここにある。さらに、戦争主導者は戦後、年間800万円を超える遺族年金を支給されていたと言う。戦没者遺族をはじめ日本国一般庶民が口惜しいのは、このデタラメではないのか?!

太平洋戦争(大東亜戦争)では、いったい何人が亡くなったのだろう?

 1977年に厚生省援護局があげた数字では、1937年7月以来の、 日本の戦没者は、軍人、軍属、准軍属合わせて約230万人、本土以外の海外での一般邦人死者数約30万人、国内での戦災死亡者約50万人、合わせて約310万人が戦死したーーというのが一般的な理解だ。その内訳は敗戦時、特に統計資料はいっさい焼却または破棄させられ、まとまったものは皆無の状況で、 公式の統計はまったくない。戦後、陸上自衛隊衛生学校が編纂した『大東亜戦争陸軍衛生史』による以外無い状態だ。それも、『衛生史』は 「推定するよしもない」としているほど、資料は乏しい。この衛生史は、戦死と戦病死の割合については、ごく初期の対南方進攻作戦のものをあげるだけで、その後の状況については触れていない、という。従って勢い、類推するしか方法は無い。この方面の労作は藤原彰著「餓死した英霊たち」(一橋大学名誉教授、青木書店 2001年5 月発行)が詳しい。以下要約すると。

「ソロモン群島、東部ニューギニア、インパール、中部太平洋の島々全体として、この地域の戦死、病死の割合は半々とみて、12万3,500人が病死、餓死していたといえる。戦場別でみれば、もつとも多い50万人の戦没者を出したのがフィリピンで、50万人の中の、40万人が餓死者だったとみることができよう」という。「フィリピンに次ぐ大人数の45万5,700人の戦没者が中国戦線で、1937年の上海の戦いや、38年の漢口攻略戦などでは相当数の戦死者を出したが、全体としてみれば、戦線の広がりの割には戦死はそれほど多くはない」ようだ。しかし「栄養失調に起因する、マラリア、赤痢、脚気などによる病死が、死因の3~4割を占めていた。22万7,800人が、栄養失調を原因とする病死であろう」。こうして、沖縄の玉砕は含まずとも、ソ連、旧満州、樺太千島を加え、合計すると「各地域別に推計した、病死者、戦地栄養失調症による広い意味での餓死者は、合計で127万6240人に達し、全体の戦没者212万1,000人の60%強という割合になる。
これを1977年以降の戦没軍人軍属212人万という総数にたいして換算すると、そのうちの140万人前後が、戦病死者、すなわち、そのほとんどが餓死者ということになる」と告発する。

「それが一局面の特殊な状況でなく、戦場の全体にわたって発生したことが、この戦争の特徴であり、そこに何よりも日本軍の特質をみることができる」とし、その原因を「 捕虜の否定と降伏の禁止である。国際法を無視し、日本軍人は死ぬまで戦うべきで捕虜は恥辱であるとする考えが主流となった。 日中戦争やノモンハン事件で捕虜の禁止は定着し、捕虜帰還者は軍法会議で重刑を受けることになった」からだと糾弾する。凄まじい餓死者、病死者の数だ。総務省、厚生労働省などによると、戦没者230万人を戦死、戦病死などの死因別に分類した公的な記録は存在していないという。敗戦の混乱を差し引いてもあまりに杜撰、というより、犬猫扱い以下だったのだ。しかし、これが実態だった。今日ではそれらを知らぬ顔をして隠し覆そうとしている。

もう15年ほど以前のことになるが、ダイエーの名誉会長・中内功(正確には功でなく作りが刀)氏が戦時中の苦い、苦しい思い出があると語ってくれたことがある。「眠ることは出来へんかった。なんぼ眠とうても眠れへんかった」という。ルソン島リンガエン湾の守備についていたが、「眠とったら殺される」と言うのだ。飢餓が極限に達し「人肉」すら、食った戦友がいたらしい。隣りの戦友に「殺されて喰われる恐怖から眠れなかった」と。戦場ではこんな飢餓が常態化していたのだ。補給路を考えない、”作戦を敢行”したのだ。つまり”名誉の戦死”を強いたのだが、敵と戦うことすら叶わず、餓死状態で戦場をさまよう以外無かったのだ。投降は軍紀違反と「戦陣訓」で洗脳されていたし、上官の目と銃口が光っていた。

長くなってしまった。

戦没者の遺骨は「御霊(みたま)」というなら、キチンと収集され、祀られているのか。愛国者として敬われているのかーーだが、それすら、戦時中同様、戦後70年たった今日ですら捨て置かれている。一方、すでに述べたが戦死した戦争指導者は年間800万円もの軍人恩給を支給されていた。こうしてみると、一般庶民にとって「日本の太平洋(大東亜)戦争とは犬死戦争」と言う以外無い、厳然たる事実がある。

遺骨収集の現状については次回触れることにしよう。

 

 

 

厚生労働省などによると、日中戦争を含めた太平洋戦争での民間人の戦没者数は約80万人。うち国内で亡くなった約50万人の半数以上が空襲による犠牲者とみられる。


調査不十分の結果もあり、敗戦直後の1945年9月の
第88臨時議会に東久邇内閣が報告した数字は、太平洋戦争の戦没者陸海軍人50万7000人、一般国民の死者24万1,000人、合計74万8,000人という少ないものであった。
その後調査がすすむにつれて数は増えつづけている。
1945年8月15日、太平洋戦争の集結から今年70年の節目を迎える。本土以外の戦没者は約240万人。そのうち、半数近い113万柱の遺骨が海外で眠ったままとなっている。「平和ボケ」と批判する輩こそ平和ボケだ!