安倍の私的諮問機関「21世紀構想懇談会の報告書」が6日安倍首相に提出された。これは、戦後70年安倍談話の下絵で、談話は14日にも予定されていると言う、安倍談話はほぼそれを踏襲したものになるだろう。
この中で日露戦争について「近代化を達成した日本が日露戦争に勝利し、西欧諸国の植民地になっていた多くの国の人たちに勇気を与えた」と評価している。確かに日露戦争の勝利(私は必ずしも”勝利した”とは認識していないが)はアジアの植民地の被圧迫民族を「白色人」に勝利した、民族独立運動を鼓舞したことは疑いようが無い。しかし、手放しで喜べる勝利でもない。朝鮮半島の支配をロシアや列強諸国に認めさせたのは、以降その路線上にある満州事変や盧溝橋事件に道を開いたと認識しているからだ。戦費をほとんどイギリスのシティーから調達した日露戦争は辛うじて勝ったが、実質はどうか?領土や賠償金を獲得しえたかどうか、ではない。一般庶民にとって”戦勝”といえるのかーーだ。
歴史を振り返ってみるなら、解釈は山ほどできる。だから「視点」に目を凝らし耳をそばだてなければならない。視点は「一般庶民にとって」どうだったのかーーだ。徳富蘇峰が何を吠えても、大法螺を吹いても、彼は戦場に兵士として出征するわけではない。揚げたての厚いビフテキをつついて大言壮語している。
だから騙されてはいけない!「自存自衛のやむを得ざる戦争」は日本はしたことが無かった。「戦争とは何か?」ではなく「戦争とはどういうものだったのか?」が、最初の問題設定として正しい。これは次回書くことにして、私は「坂の上の雲」は日本人に希望を与えたものではなく、坂に登っててみたら頭上に会ったのは雲は雲でも”妖雲”だったのではないかーーと思っている。近・現代史が正確に、庶民の立場で綴った通史が求められてる。サトウハチローの「だけど、足んねえものがある。兄さの薪割る音がねえ」の立場だ。
朝鮮日報が「懇談会報告」に、「反省と謝罪なし」と、批判している。韓国併合は日露戦争の結果日本指導者が韓国から奪ったものだから当然だろう。争点は「反省」と「謝罪」にあり、ピンボケのフリをして欺くのは安倍流だとはいえ、あまりに姑息だ。姑息に、しかし強権的に、民意を無視して進めているのは「安保法制」だけではない。