中田真秀(なかたまほ)のブログ

研究について、日常について、その他。

2010年度理研シンポジウム ペタフロップス時代のセンターシステム

2011-01-19 11:14:33 | 日記
以下のシンポジウムが 2月16日に開催されます。参加には事前登録が必要となっています。お誘い合わせの上ぜひいらしてください。

2010年度理研シンポジウム ペタフロップス時代のセンターシステム

2012年に運用が開始される「京」の構築が進む中、国内外でペタフロップス規模のシステムの運用が始まっています。ペタフロップスシステムの計画やハードウエア、アプリケーション、運用に関する具体的な取り組みなどついての講演とともに、理研のスーパーコンピュータのRICCの運用状況とより高度な利用のための取り組みをご紹介します。
日時

2011年2月16日(水) 午前10時~午後5時30分
会場

独立行政法人 理化学研究所 和光キャンパス
鈴木梅太郎記念ホール
主催

独立行政法人 理化学研究所
情報基盤センター

ちなみに中田も発表します。

ソフトウェアの自由という利害とフリーソフトウェア運動と日本の利害

2011-01-12 21:01:05 | 日記
リチャードストールマン、この人がGNUをつくり、FSFをつくり、フリーソフトウェア
という概念を作った。この人にはフリーソフトウェア、つまり、ソフトウェアの自由という利害がある。
ソフトウェアは自由でなければならない、そういうことだ。そして利害とは - それが何よりも大切なのだ。繰り返すとソフトウェアが自由であること、それが何よりも、大切なのだ。どういう自由が必要か。それはソフトウェアのユーザに与えられる 4 種類の自由で、その実装がGPLであったり、LGPLであったりする。

あまりにも重要なので、引用すると、

> * 目的を問わず、プログラムを実行する自由 (第 0 の自由)。
> * プログラムがどのように動作しているか研究し、そのプログラムに あなたの必要に応じて修正を加え、採り入れる自由 (第 1 の自由)。 ソースコードが入手可能であることはこの前提条件となります。
> * 身近な人を助けられるよう、コピーを再頒布する自由 (第 2 の自由)。
> * プログラムを改良し、コミュニティ全体がその恩恵を受けられるよう あなたの改良点を公衆に発表する自由 (第 3 の自由)。 ソースコードが入手可能であることはここでも前提条件となります。

である。

意外と単純ではなかろうか。

さて、日本人はソフトウェアが自由でなくて困ったことがあるのだろうか? 自由でなくてはならないのだろうか。ただ単に無料という利害だけであるならば、それは最終的には淘汰されるかもしれない。

歴史的に、我々日本人は自由を求めて戦ったことはあるのだろうか。命をかけたことはあるのか。そして自由を手に入れたことがあるのか。太平洋戦争で、日本人は多くの血を流し、命を失ったが、憲法が自由になるため、命を失った訳ではない。我々は自由とは何かを知らない。だからそのありがたみもわからないのだろう。その必要性すら。

逆に日本人は押さえつけられるのが好きだ。私にはそうとしか思えない。我々はエリート主義や官僚主義が大好きだ。科挙の制度は喜んで古くから受け入れている。現代に至っても例えば国一の官僚、東大卒たちは政治的な力を持つ。上から「ソフトウェアは自由でなければならない」押さえつけるとそれはそれで、意外と自由になるのかもしれない。もちろんこれはまったく冗談でしかないが。

FLOSS(フリー/オープンソースソフト)のプロジェクトは日本で流行ってない

2011-01-12 08:25:40 | 日記
奈良先端大で講義をしたときの縁で、伊原さんと津田さんと大平先生とお話しした。大平さんはSkypeでカナダから参加。意外となんとかなるもんだとびっくり。多岐に渡って、今後どういったFLOSSの発展を促すような研究ができるか、ブレーンストーミングを行った(と私はそう思っている)。

ま、FLOSSプロジェクトは日本では流行ってないよな~というのが皆の一致点の一つで、わかっていながらもすこしゲンナリした。正直OpenOffice.org日本語プロジェクトはまだ流行っている方である。

ものすごく社会の認知度が無い。だから開発者が殆どなく、単にダウンロードするだけ、というのがあるんだろうな。利用者と、貢献者の立場が全然違うのを悲しく思う。利用者はほぼ確実に上から目線だ。「使ってやっている」が根底にある。firefoxと比較されてもこまるのが、Mozillaは資金が潤沢にあって羨ましい。これだけ企業も行政もコミット無しに、OpenOffice.orgを永続的に使う、というのには限界があるだろう。情けないと思うのは、行政がほぼ、個人ボランティアに依存している現実さえ理解してないということだ。行政は公共のことをすこし考えたほうが良いだろう。

我々OpenOffice.org日本語プロジェクトはリリースする責任はないし翻訳する責任もない。我々があるのは、日本語版をリリースをしたい、英語のまま、は嫌だ、翻訳したい、という人たちをなんとかどうにかして、受け入れて、リリースしたり、翻訳できるようにしたい、ということだけである(それ以外について一切やりたくないのか、というのは、やりたいがやれない、ということで、置いておく)。最悪、英語まじりのユーザーインターフェースやヘルプのままリリースもありうるし、下手すればセキュリティホールがある旧バージョンを使いつづけることになるかもしれない。だれもそのプロジェクトにその目的のため、お金を出しているわけではないからだ。これはLibreOfficeになってもそんなに状況は変わらない。誰かがタダ働きし続けるというのがあれば、ともかく。


これをふまえても、アシストの立場もよくわからない。これだけQAに参加しないと新バージョンがリリースされませんよ、セキュリティ対策はまずいのでは(それを顧客に薦めるというビジネスをしている点で)、といっても参加する気配は殆どない。毛井さんという方が参加されており、それはそれでありがたいが、そこまで本腰が入っているようには見えない。まぁ横浜市でもOpenOffice.org評価検証支援業務委託 (公募型指名競争入札)については、アシストが、たった半年で115万1500円で落札しているので、これでは人件費も出ないだろう。普通SEを雇っても月115万でもおかしくはないだろう。今後談合でもしない限り値段は上げられないのではないか。無料のOpenOffice.orgとともに、タダだということで、買い叩かれているのは事実だろう。

いずれにせよ、アシストが悪いという気も毛頭ない。ただ単に、OpenOffice.orgの日本での社会認知度はそれくらい、ということだ。嘘と思うならば科学技術と比較すれば良い。知的好奇心は大学や研究所という社会組織まで発展し、税金がでる。社会にそれが必要だとコンセンサスができているのだが、オープンソースプロジェクトにはそういうものがない。その上で使うというに無理があるのだ。

一つ疑問に思うのが、日本語圏の人たち、(おもに日本人)OpenOffice.orgの日本語訳は日本語圏でやりたいと思っているのだろうか。それともOracleがやってくれたほうがいいと思っているのだろうか。ソフトウェアを作りたいとは思っているのだろうか、思ってないんだろうな~というのが私の答えである。ただOpenOffice.orgは重要なのでやっているが、発展も少ないだろう。LibreOfficeなってもそう変化は無いとおもわれる。

池田信夫氏が、twitterで、OpenOfficeでPPTファイルを開くと、旧漢字がでてくるバグは、いい加減に直してほしい。 といっているが、ま~直らんだろ(こういう風に大々的にでると直るかもしれないが、他の多くの課題はそこまでいかない。バブルを作り出すのはとても重要...なのか(?))。使ってくれているのにはびっくり。ちょっとうれしかった。

できればGoogleが、私の認識を変えてほしいところだ。FLOSS開発者や博士号を持った情報系の研究者を多く雇っている。FLOSSをやってよいキャリアパスになる、そういう見本を見せてくれているのが素晴らしいし、そこには一定の期待を寄せている。