青色発光ダイオードの赤崎勇教授、天野浩教授、中村修二教授がノーベル賞をとった、ということで日本人にとっては嬉しいニュースだったが、中学生の頃三洋電機の新商品として父(Nakata Toshitake)が自らが開発したもの持ってきたのを見たことがあった。青と白の光は子供心に綺麗に見えた。その後、日亜から青色LED実用化といわれた。すでにやっていたはずでは、と思っていたし、三洋が開発続けていると思っていた(が実際は辞めていた)。いずれにせよ世界初めてのフルカラーLEDランプの開発をしたのは三洋電機だった。そしてその開発の中心にあったのは父だった。そのことはほとんど知られていない。もちろん三洋のLEDは発光輝度についてはSiCを用いているため、GaNに比較して二桁くらい小さい。従ってレーザー発信などには使えないため、GaNに及ぶべくもない。ここで言いたいのは名前くらい触れられててもいいんじゃない、程度のことである。
三洋が青色LEDとフルカラーLEDランプを開発し、アナウンスしたのは1989年のことで、中村修二氏が開発を始めたときと合致する。つまりその頃にはおそらく知っていたはずである。ただ、彼らはSiCではなくGaNを用いたところにあるし、SiCは間接遷移、GaNは直接遷移によって発光することで、輝度が二桁違うことはある。
文献は
がある。特にI/Oの1989年6月号には綺麗な写真載っており 興奮と驚きをもってSiC青色LED、フルカラーLEDが見られていたことはよくわかる。
残念ながら父はこの報道の直後イオン工学研究所に出向し(組合活動について、と太陽電池との派閥争いなどがあったらしい)、青色発光ダイオードの開発はやめさせられ、事実上開発はストップした。父が開発の中心にいたというは、客観的に見ても三洋からはその後まともに論文が出ていないことからもわかる。ただ、LEDには興味を持っていたようで、青色LEDはどこまで可能か?--SiCで実用化,他材料でも挑戦つづく (マルチメディア・情報通信時代のキーデバイス--94年のディスプレイ革命<特集>) 新名 達彦, 松下 保彦 エレクトロニクス 39(3), p60-63, 1994-03 が出版されている。
だが、「青色LEDはどこまで可能か」がでた1993年は新名さん、松下さん、三洋にとっては悪夢だっただろう。
日経産業新聞が徳島支局発のニュースとして,日亜化学工業が青色LEDの開発に成功したことを報道したのは1993年末だからだ。
三洋もイマイチ何をしたいのかわからなかった。青色LEDの開発のキーパーソンを出向させ、開発をストップさせた。もしかしたら父がいればGaNにはかなわなかっただろうが、SiCであと十倍くらいの輝度はできたのではなかろうか。それにGaNについても輝度が高いはずというのは解っていたから、もし三洋に残って研究を続けていれば、実用化という意味では中村さんに先駆けて開発できてたかもしれない...その後、サンヨーはパナソニックに吸収され、その歴史を閉じた。
父のCREEへの転職話もあった。単身赴任または家族での移住の決断は難しかったようだ。母は英語が苦手であるし、アメリカにはいい思いを持っていない(祖父は朝鮮総督府で働いていたそうで、戦後命からがら鹿児島に引き上げてきた)。そして、その後の身の振り方もあまり上手ではなかったように思える(何年もやさぐれてた)。博士号もとってない(阪大で公聴会まで決まってたのに横やりが入ったらしい)。地方国立大くらいに公募にだしたら研究は続けられたんじゃなかろうか。あの頃はバブルでポストも今より潤沢だったので、何かしらあっただろう。
重要なテーマは競争が激しい。社会や会社で生きてゆくのも難しい。栄光をつかむには能力だけでなく様々なものが必要なのだろうなと思わされた。ただ、科学者、工学者、彼らの名誉、そういった意味では、青色LEDの歴史の中で一言、名前くらいは触れられても良いだろう! 僕も研究において、歴史修正主義者にずいぶん悩まされた。いずれにせよ、父の話は成功したわけでもなく、ちょっとうまくいきかけたが、色々あってうまくいかなかった、みたいなしょっぱい話である...
三洋が青色LEDとフルカラーLEDランプを開発し、アナウンスしたのは1989年のことで、中村修二氏が開発を始めたときと合致する。つまりその頃にはおそらく知っていたはずである。ただ、彼らはSiCではなくGaNを用いたところにあるし、SiCは間接遷移、GaNは直接遷移によって発光することで、輝度が二桁違うことはある。
文献は
- SiC青紫色発光ダイオ-ドの製法と特性(1989)
- Single Crystal Growth of 6H-SiC by a Vacuum Sublimation Method, and Blue LEDs(1989)
- 高光度SiC青色LEDの開発とフルカラーLEDランプへの応用(1989)
- Fabrication of SiC Blue LEDs Using Off-Oriented Substrates (1990)
- フルカラー発光ダイオード&青紫色LED I/O 1989年6月号
- RGBマルチカラーLEDディスプレイの開発 : 発光型ディスプレイ関連 : 情報ディスプレイ (1993)
- 青色発光ダイオードと世界初のフルカラーLED ランプを開発(パナソニック社からサンヨーの社史より、1981とあるが1989の間違いだろう)
がある。特にI/Oの1989年6月号には綺麗な写真載っており 興奮と驚きをもってSiC青色LED、フルカラーLEDが見られていたことはよくわかる。
残念ながら父はこの報道の直後イオン工学研究所に出向し(組合活動について、と太陽電池との派閥争いなどがあったらしい)、青色発光ダイオードの開発はやめさせられ、事実上開発はストップした。父が開発の中心にいたというは、客観的に見ても三洋からはその後まともに論文が出ていないことからもわかる。ただ、LEDには興味を持っていたようで、青色LEDはどこまで可能か?--SiCで実用化,他材料でも挑戦つづく (マルチメディア・情報通信時代のキーデバイス--94年のディスプレイ革命<特集>) 新名 達彦, 松下 保彦 エレクトロニクス 39(3), p60-63, 1994-03 が出版されている。
だが、「青色LEDはどこまで可能か」がでた1993年は新名さん、松下さん、三洋にとっては悪夢だっただろう。
日経産業新聞が徳島支局発のニュースとして,日亜化学工業が青色LEDの開発に成功したことを報道したのは1993年末だからだ。
三洋もイマイチ何をしたいのかわからなかった。青色LEDの開発のキーパーソンを出向させ、開発をストップさせた。もしかしたら父がいればGaNにはかなわなかっただろうが、SiCであと十倍くらいの輝度はできたのではなかろうか。それにGaNについても輝度が高いはずというのは解っていたから、もし三洋に残って研究を続けていれば、実用化という意味では中村さんに先駆けて開発できてたかもしれない...その後、サンヨーはパナソニックに吸収され、その歴史を閉じた。
父のCREEへの転職話もあった。単身赴任または家族での移住の決断は難しかったようだ。母は英語が苦手であるし、アメリカにはいい思いを持っていない(祖父は朝鮮総督府で働いていたそうで、戦後命からがら鹿児島に引き上げてきた)。そして、その後の身の振り方もあまり上手ではなかったように思える(何年もやさぐれてた)。博士号もとってない(阪大で公聴会まで決まってたのに横やりが入ったらしい)。地方国立大くらいに公募にだしたら研究は続けられたんじゃなかろうか。あの頃はバブルでポストも今より潤沢だったので、何かしらあっただろう。
重要なテーマは競争が激しい。社会や会社で生きてゆくのも難しい。栄光をつかむには能力だけでなく様々なものが必要なのだろうなと思わされた。ただ、科学者、工学者、彼らの名誉、そういった意味では、青色LEDの歴史の中で一言、名前くらいは触れられても良いだろう! 僕も研究において、歴史修正主義者にずいぶん悩まされた。いずれにせよ、父の話は成功したわけでもなく、ちょっとうまくいきかけたが、色々あってうまくいかなかった、みたいなしょっぱい話である...