『ここまで自分を育ててくれたのは
両手両足のないこの身体なのだ』
これは両手両足のない方の、そのままの悟った言葉です。
私(自我)が、長年あえぎ苦しみ抜いた結果です。
これにより「思考自我」から永遠に開放されたのですね。
しかしこの私(思考)は、両手両足のある何不自由のない
有り難さに感謝もしないで、まだ何かが足りないと
何かを求めているのです。(笑)
ですからこの私(自我)が、頭の中から消え去るまで
弛まぬ“只なる実践”の持続です。
今の心が出てきたら心眼で只、只見続けるということです。
「そんな事で苦悩が消え去るのか!」と言っている
私(思考)ですが、元々苦悩など無いのですから、そんな
戯言をほざいている私(自我)が消え去れば
“お気楽な人生”になるのです。
すべて、この「思考自我」の創作で“神仏”なる人間を
覆い隠しているのです。
ですから、弛まぬ“只なる実践”の持続で、それを
明かにして穏やかな安らぎのある“絶対安心”の境地を
得てください。
両手両足のないこの身体なのだ』
これは両手両足のない方の、そのままの悟った言葉です。
私(自我)が、長年あえぎ苦しみ抜いた結果です。
これにより「思考自我」から永遠に開放されたのですね。
しかしこの私(思考)は、両手両足のある何不自由のない
有り難さに感謝もしないで、まだ何かが足りないと
何かを求めているのです。(笑)
ですからこの私(自我)が、頭の中から消え去るまで
弛まぬ“只なる実践”の持続です。
今の心が出てきたら心眼で只、只見続けるということです。
「そんな事で苦悩が消え去るのか!」と言っている
私(思考)ですが、元々苦悩など無いのですから、そんな
戯言をほざいている私(自我)が消え去れば
“お気楽な人生”になるのです。
すべて、この「思考自我」の創作で“神仏”なる人間を
覆い隠しているのです。
ですから、弛まぬ“只なる実践”の持続で、それを
明かにして穏やかな安らぎのある“絶対安心”の境地を
得てください。