只の道…淡々と歩く

無いものを在るとする…ゆくゆくは苦悩となる
無いものは無いのです。

一瞬一瞬の“真実世界”に身を任せるのです。

2018-01-26 08:20:25 | 日記
今まで絶対絶命の中で、生き抜いてきた自信、
この自信こそ慢心の正体なのだ


この言葉も苦闘の中で体得されたものですね。

「慢心」とは、おごり高ぶりいい気になる私(思考)のことを
指しているのです。

「自信」は、本来には無くて私(自我)から生まれて
くるのです。

私はこの事には「自信」がある、しかしあれには「自信」が
無いと言う様に幻想ですね。

ですから「慢心」を捨てることで気が楽になり、
何もかもが“無い”と気が付くのです。

例えば億万長者になってやると、私(思考)は途轍もなく
大きいことを言いますが、これこそが「慢心」であり
気苦労の元であります。

そんなどこにも無い億万長者に夢想していたら、
精神に障害をもたらしてしまうのです。

ですから、そんな障害をもたらしてしまう「思い込み」は、
頭の中から捨てに捨てて“空っぽ”にしようとするのが
只なる実践”の持続です。

夢想から目覚めて“お気楽な人生”を歩んでいきましょう。

本来に“目覚める”ことが生きる目的です。

2018-01-25 08:26:14 | 日記
毎日今、今とブログを書いていると、私(思考)は
飽きが出て来るのですね。(笑)

でも、飽きが出て来ても“只なる実践”の持続ですから、
私(自我)の居場所が無くなって来るのです。(笑)

こうなれば“しめたもの!”で、これから更に徹底的に
私(自我)忘じていく“実践”です。

繰り返し述べていますが、私(思考)は自己中心で
なんやかんやと問題を必ず起こすからです。

例えば、他人から意見を言われれば、「何だ!それが」と
我見が出てきて喧嘩にまでなるのです。

また言い返すことが出来なければ、ジーッと我慢という
ものが出てきて、積もり積もり重なって精神や身体に
異常をきたすのです。

“只なる実践”を実行している人は、他人も自分も
ひとつ”ということを知っていますから、
あっ、そう”で瞬間に終るのです。

そこに我見が出るとか、我慢するという様な残照は
さらさら“何も無い”のです。

ですから我見が出るとか、我慢するという様なものは
「思考自我」ですから、“只なる実践”で削りに削って
エネルギーを極小に落として“く”のです。

そして通常の生き様は、穏やかな安らぎのある
絶対安心”の境地が本来であるとわかるのですね。

寒いときは寒いです、その他はありません。

2018-01-24 11:01:55 | 日記
ここまで自分を育ててくれたのは
 両手両足のないこの身体なのだ


これは両手両足のない方の、そのままの悟った言葉です。

私(自我)が、長年あえぎ苦しみ抜いた結果です。

これにより「思考自我」から永遠に開放されたのですね。

しかしこの私(思考)は、両手両足のある何不自由のない
有り難さに感謝もしないで、まだ何かが足りないと
何かを求めているのです。(笑)
  
ですからこの私(自我)が、頭の中から消え去るまで
弛まぬ“只なる実践”の持続です。

今の心が出てきたら心眼で只、只見続けるということです。

「そんな事で苦悩が消え去るのか!」と言っている
私(思考)ですが、元々苦悩など無いのですから、そんな
戯言をほざいている私(自我)が消え去れば
“お気楽な人生”になるのです。

すべて、この「思考自我」の創作で“神仏”なる人間を
覆い隠しているのです。

ですから、弛まぬ“只なる実践”の持続で、それを
明かにして穏やかな安らぎのある“絶対安心”の境地を
得てください。

くさらず慌てず、日々淡々とが“実践” です。

2018-01-23 08:27:33 | 日記
『人は知恵や能力、努力だけでは救われない
 その無力さを知り、自然のあるがままの姿を
 本性に身を委ねた時、はじめて人は救われる』 

この様に、幻想世界では救われることがないと
仰っています。

私(思考)は、当たり前のことが当たり前に出来ない
からです。

「そんなことは無い!」と言う、私(自我)が頭の中から
消え去れば真に“救われる”のですね。

幻想世界には、救われる救われないがうようよしている
ので、真に“救われる”ことがないのです。

思考の無い“真の世界”には、「救われる救われない」が
何も無い”ので、根源から“救われている”のです。

これらを「思考自我」が覆い隠しわからなくしているので、
「我」の強い人は永遠に「苦悩」を抱えたままと
いうことです。

繰り返し述べていますが、生きてきた目的はこの世界は
「思考世界」だということに目覚めることです。

目覚める”ことは、本来の“無意識・無思考”が
わかるということです。

ここまでが言葉の限界ですね。

ですから“只なる実践”を今、今、今とやっていれば
本来の今”からやってくるのです


何事も今やることの“ひとつ”に没頭です。

2018-01-22 09:37:22 | 日記
以前、石川啄木という詩人がいたとされています。
多くの詩を書いていますね。

『東海の小島の磯の白浜にわれ泣きぬれて蟹とたわむる』
これは、石川啄木のその時の心を書いています。

すべてがその時あったことを、素直に詩に書き表して
いるのですね。

脚色の部分はありますが人間、石川啄木の生き様を
見事に映し出しています。

それは石川啄木の「思考自我」ということで、
苦しさであり、哀しみであり、嬉しさであり、これらを
うまく詩にしているのです。

ですから苦しさ、悲しさ、嬉しさの感情がなければ、
なにも詩には出来ないと言うことですね。

この苦しさ、悲しさ、嬉しさの感情を、長年に渡り
さんざん味わってきた人には、『もうわかった、必要ない!』
と成り“只なる実践”へと向かう動機となるのです。

楽しさがあれば苦しさがあり、悲しさがあれば喜びが
ある、嬉しさがあれば落ち込みがあるとわかっている
から一喜一憂しなくなるのです。

一喜一憂しないと言う事は、楽しい時は楽しいで終り、
苦しい時悲しいときもその感情は無く、苦しい悲しいで
終り“何も後に残ら無い”のです。

それを体得するまで弛まぬ“只なる実践”の持続です。

“実践”の一歩を踏み出されないのは、まだ「思考自我」を
自分と思っているので、まだまだこの幻想世界に
未練があるのです。

ですから頭の中の幻想世界を楽しみ、哀しみ、苦しみ、
もうダメだと言うまで味わってください。(笑)
  
正し、幻想世界の楽しみと永遠の“真実世界”の、
穏やかな安らぎのある“絶対安心”の境地
天と地の差があることをお忘れなく!!