祖父の回顧録

明治時代の渡米日記

第42回(1912年八月下旬:大学入学)

2011-11-30 19:04:56 | 日記
41.1912年八月下旬:大学入学 




 
 バージニアからから大学の西部の裏門まで歩いて十五分間位だったので通学には便利だった。

 入学の日はなるべく朝早く行って、出願の手続きをした方がよいというので、大学へ行くと、もう沢山の新入生や大学院入学生が集まっていた。California Hallの事務会館の前の広い芝生の軍事教練場に仮設された受付場で、入学者の地方別にしたセクション(section:部署)が設けられ、北加州、中部加州、南部加州、他州出身者、外国人学生、大学院入学者等と区別されていたが、米国人の合理的、能率的な事務さばきには感心した。

 私は南加のセクションに行ったら、私の校長からの成績表とレコメンデイションが既に大学当局の手元に届いていて、”What is your name?”と聞くので、”I am Sabro S.”というと、手許の入学者許可人名簿を参照して”From Los Angeles High?”と聞くので”Yes, sir.”で、直ぐ”All right.”といって、学生証を作ってくれ校友会費五弗を納めて、これで入学が完了したのである。実に数分の時間ですんだ。これをenrollment(登録)といっている。

 校友会費は年五弗で、これで校内で挙行される各種競技は全部無料、その外学生体育館内のシャワーバスは毎日無料で入浴出来るのである。授業料は無料で、学校に納入する金は不要だった。州立なればこそ、日本人でも州民同様の特別待遇を受けられたのもロス・アンゼルス市の公立ハイスクールを出たお蔭だった。他州からの学生は勿論有料で授業料年三百弗であった。州民の税金で償う州立大学だから当然のことである。

 終わって大学のキャンパスを見物して帰舎したが、私もこの大学生として出発するかと一時に喜びが湧いてきた。

 私の他にT教順君(名古屋高等工業専門学校卒業)がいたが、日本人の新入生は唯の二名であった。T君は建築科を卒業して近江のヴォーリス会社に勤務して大阪堂島にある「鹿島ビル」を数十年前に設計したとの話を聞いた。


第41回(1912年8月:羅府を去ってバークレーに出る)

2011-11-26 08:07:17 | 日記
40.1912年8月:羅府を去ってバークレーに出る 



 満五年の間住み慣れた加州の楽園と称されたロス市、私を育んでくれたロス・ハイ、私に生活の保障を与えてくれたDunn家、この思い出深い懐かしの所を去ると思えば感交々至って去るに忍びなかったが、ロス市には私の希望する大学(University of Southern California:メソジスト派の私立大学の一校のみだった)がないので、カリフォルニアへ行くことにしたのである。

 荷物といっても本以外にはないので、不要なものは学生クラブに寄贈して、手軽にしてロス市を出発した。

 来市した時は避難民だったが、今度は晴れての旅行者で無事サンフランシスコに到着した。

 マーケットを通ってフェリー・ビルデイングへ向かったが、マーケット街のビルデイングも皆復興して、以前の殷盛を取り戻していた。

 フェリーから渡船でバークレーに着き、バージニア街(Virginia St.)の日本人大学学生倶楽部(Japanese University Student Club)に入った。学校の開校日までにまだ二週間ばかりあったので、正式に入会するまで客員として滞在することになった。 
 学生連中は休暇のため、倶楽部にいたのはK津猛君(大学院生)という一人で静かだった。しかし八月下旬には賑やかになった。

 この倶楽部はシスコ市を中心として在留邦人の寄付でできたもので、家屋も立派で室内の設備も完備して、大学生クラブとしても恥ずかしくないものだった。二階に寝室が三部屋あるので六人は裕に泊まれた。キッチンも広く勝手道具も揃っていたので宿泊者の学生が当番を定めて料理していたが、流石は皆苦学した人々だからクックの腕前は素晴らしく、実費で一日の食代五十仙、宿泊料は無料であった。

 学校が始まる前に総会があって、私は正会員になった。これで就職をやめたり、都合で泊まりたい時は、いつでも利用でき、学生間の相互親睦の向上と相互間の扶助関係も結ばれて、楽しく安心して学業を続けられた。

注)羅府とはロサンゼルスの異称

第40回(1912年の1~7月まで:羅府新報の記者となる)

2011-11-25 08:14:06 | 日記
39.1912年の1~7月まで:羅府新報の記者となる


 
 1912年(明治四十五年)正月元旦はDunn家で迎えた。幸いハイスクールは卒業したものの、目指すカリフォルニア大学はバークレーにあるから、どうしてもサンフランシスコに出て、それから就職口を得て大学に入学するまでには、相当の金を必要としていた。それかといって借金をすることは本来の意志に反するのでしなかった。
 本音を吐くと、汽車賃を払えば明日の糧にもこと欠いていたから、邦字新聞の羅府新報の招きに応じて、八月の大学開校日まで就職した。
 私の友人でS野好平という人が、新聞社に外事記者として勤めていたが、都合で止めることになり、私を代わりに推薦してくれたので直ぐに定まった。四年も御世話になったDunn家より新聞社に移った。

 羅府新報は、南部カリフォルニアで唯一つの邦字新聞で発行部数は僅かに一万紙足らずだったが、評判が良かった。サンフランシスコにある日米朝日新聞と新世界新聞に次いで第三の邦字新聞だった。
 私は外事記者として、夕刊紙四頁の内の第一面頁を沢山受け持って毎日埋めねばならぬから大変な仕事だった。小さな新聞社で共同通信とか何々通信社とは通信の連絡をしていないので、全部の記事は、朝刊の英字新聞の重要記事を即刻翻訳して、文選部に廻すのだから忙しい仕事であったが、自分の書いた記事が印刷されたのを見ると愉快でもあった。さらに校正も自分でした。
 新聞社といっても主筆の馬場氏(後に満州の新聞社の主筆になった)と私(風越)と、もう一名の社会記者の三名で、外に各地方の現地の通信員(地方の日本人会の幹事や役員等)が置かれて、地方の記事は細大洩らさず通信してくれるので、この点は地方の人に好感がもてて喜ばれた。
 地方の通信には同胞の動静はもとより、出産、死亡に至るまで悉く(ことごとく)地方欄で報道するので人気があったが、全く今日から見れば田舎新聞の域を脱せず、糊と鋏から出来た夕刊紙だった。
 私も時々随筆などを書いたり、「ペンのしずく」という小欄を設けて毎日数行づつ担当した。炎天に狭い室の中でペンを振るうのはえらい仕事なので、「夏の日や水瓜も切れぬ 筆の鉾」という狂歌じみたものを書いたりした。また一度英文の論説を掲げようというので私は満州問題Manchurian Questionと題する記事を書いたこともあった。

 記者生活を七ヶ月余り続けたので、今まで全く忘れかけていた日本語が甦り、実に良い勉強をさしてくれた。

 明治天皇は同年七月三十日崩御せられたという報に接したので一同哀悼の意を表して東方に向かった遥拝した。

 年代は改まって大正元年となった。
 七月三十一日の朝刊英字新聞Los Angeles Examiner は天皇の記事を大々的に報道して大帝の崩御を悼んで、生前の偉業をたたえる記事で一杯なので、私は襟を正して、この記事を翻訳して直ちに号外として夕刊をロス市在留民の各家に配達して裳に服するよう要請した。
 在留民の悲しみはひときわ多かった。羅府日本人会の追悼式が挙行されたので私も参列して、亡き大帝の偉徳を偲んだ。

 八月上旬新聞社をやめて、大学入学のためサンフランシスコに向け出発した。




注)羅府新報とは、1903年にカリフォルニア州ロサンゼルスで創刊された。第二次世界大戦下で日米間で開戦したことを受け、日系人の強制収容が行われたことから1942年以降数年間強制的に休刊させられたものの、その後復刊し、2003年には創刊100周年を迎えた。

現在は毎日45,000部発行されており、アメリカ国内で最も多く購読されている邦字新聞である。また、ウェブサイトでも記事を閲覧することが可能である。本社はロサンゼルス中心部のリトル・トーキョーにある。

「羅府新報」の名前は、かつて中国語でロサンゼルスを表記した「羅省枝利」の最初の文字「羅」、日本語で地域行政(県など)を表す「府」、新聞を表す「新報」を合わせて命名された。







第39回(在校中の日本人学友の面影)

2011-11-24 10:04:24 | 日記
38.在校中の日本人学友の面影


 ロス・アサンゼルス・ハイスクールに在学中特に思い出に残る学友の二,三名を書いて、ここに昔を忍ぶことにする。


1.A木 茂 君

 A木茂君は私より半年前の1911年の夏の卒業で、私は1911年の冬の卒業であったから、在学中は長い交際をした人の一人である。
 彼は高等師範の在学中に渡米した人で、英語は堪能で学校のAコースの純文学に在籍していた。同じ学科を一緒に学んだことはなかったが、学生間の評判はよかった。
 彼は上級生の時に、学芸会の演劇会で沙翁のヴェニスの商人のシャイロック(Shylock)の役を演じて、裁判の法廷で素晴らしい演技をして拍手喝采を博した。
 優秀な成績で学校を卒業して、東部に遊学し、コロンビア大学(Colombia University)の古典語学部に入学してペルシャ文学を専攻した、米人にも少ない研究をした人である。
 ニューヨークのY.M.C.A.(キリスト教青年会の日本人部の幹事)に居て、大学に行っていた由で、氏をモデルにしたM本百合子作の「伸子」によってA木君のプロフィールが窺がわれるので一読するのも面白かろう。
 百合子と別れてから、東京帝大のペルシャ研究室で研鑚を続けていたとの由で、私は氏が中央公論に発表したペルシャのオマカーヤム(Omar Khayyám:ウマル・ハイヤーム)の長詩の原語稀釈詩を読んで、氏の努力に敬服した。私はかつて大学在学中に英文釈の詩を読んで興味を注いだものの一つであったからだ。そして大学からペルシャに派遣されて、古典文学の研究をする矢先に、惜しくも病死したとの報に接したが、こういう特殊な研究をしているA木君を失ったことは、実に残念である。彼は今日盛んになってきたOrient studyの端緒を開いた人の一人であったのである。


2.Y田 宗太郎 君

 Y田宗太郎君は私と同じ1911年の冬組で一緒に卒業した親友である。彼は医科を希望していたのでCコースに入学していた。
 四年間も苦楽を共にして、校庭のベンチに座って、いつも楽しく語り合った昔が懐かしくなる。温厚な人で、勤勉家であった。卒業後サンフランシスコに出て、スタンフォード大学のクーパー・メデイカル・カレッジ(Cooper Medical College of Stanford University: 医大だけ桑港にあった)に入学して卒業し、同市で医院を開業した。
 私は四ヵ年で大学を卒業して社会に出たが、Y田君は医大の正科を五年もかかり、その上インターンを一年やったから実に六年もかかったので、在学中度々顔を合わす毎に、医科の勉強は大変だと気の毒に思えてならなかった。


3. K沢 佐雄 君

 同君は同県人で、上伊那郡の出身で県立農業学校を出て入校したが、学業を継続するに人一倍の苦学をされて卒業した一人である。
 渡米後英語の勉強をして、入学を許可されたが、一年生の時、私の家を訪問して、学校を退学するというので、そのわけを聞くと、スコットの詩の本が難解で、ついていけんので止めたいというので、君だけではなく、僕もその通りでやっと頑張ったのだ。英語の先生がやめろというのなら仕方がないが、眼をつぶってやり給えと互いにはげまし合ったが、人一倍の努力家であったから、立派にBコースを卒業して、私より一年遅れて加州大学に入学して社会学科を卒業した。
 卒業後国元から婚約者を呼び寄せて(こういう娘を写真結婚花嫁さんpicture bride)シスコに一家を構えて、加州農業協会に勤務していたが、私の紹介で東洋汽船会社の桑港支店に勤務して、船客係の仕事をしていたが、一年足らずでやめて、その後は邦人の団体や会社などに勤めて、学資を作り、再びハーバード大学(Harvard University)に入学して、加大卒業後八年目にしてハーバードのMaster of Artsになった、立志伝中の人である。帰朝後大分高商の教授となった。

 その他私の在学中に数名いたが、卒業したのは喜安君(名は忘れた:スタンフォード入学)とH塚三郎君だけは今尚記憶している。


第38回(1911年の十二月:ハイスクール卒業式)

2011-11-23 09:02:21 | 日記
37.1911年の十二月:ハイスクール卒業式

  
 卒業試験成績の発表で合格者は八十九名(全四分科コースを含めて)で、入学した時は約百二十余名(一月の入学者は夏期より一般に少ない)であったが、いつしか落伍したのであろうか、それとも中途退学したのであろうか、少ないのには驚いた。
 卒業生の89名中日本人学生は二名で、私とY田宗太郎君と、黒人学生はGeorge Bakerであった。しかし彼等とはコースの違いか、同じ教室で一度も顔を合わして勉強したことはなかった。
 アメリカのハイスクールでは卒業式の時に、外国人学生の優等生が一名全卒業生を代表してバナキュラー・スピーチ(Vernacular Speech)を行う習慣があり、私にも論文を書けと命ぜられたが、これは不合格だったらしく、白人の学生が行った。
 卒業式は夕方からロス市の音楽会館(L.A. Music Hall:学校の講堂は丘の上で集合に不便であったために)で挙行され、在校生や父兄達や市民たちで沢山の参観者があった。
 私は卒業免状のほかに、同校学友会で組織しているスター・エンド・クレセント(Star and Crescent :星と三日月協会)会のメンバーの一員として推賞せられた。今でも、この会員記章は大切に保管してある。 
式が終わって、私は感激した。この時位嬉しかったことはなかった。四年間も私を親切に教育していただいた諸先生に対して、満腔の感謝を捧げると共に、同じ教室で授業を共にした学友の諸君にも別れると思えば落涙を禁じ得なかった。
 中でも、一,二年生の時に英語を教わったCooper先生(女教師)には母親に別れる思いがして固く握手を交わした。
 先生は一年生の時、私の未熟な作文を上達させようと、放課後毎日一時間、先生の控え室で作文を三ヶ月の間も書かせて、懇切に指導、訂正してくれた恩師中の恩師であった。こういう立派な教育者の下に育てられたので、私がこの学校で及ばずながら学業を続け得たのである。

 それにしても、この一枚のデイプロマ(diploma)を手にするために約七年間の歳月を費やしたのである。