祖父の回顧録

明治時代の渡米日記

第70回(加大在学中の親友のプロフィール(日本人学生)2)

2012-01-01 11:51:39 | 日記
3.1914年組の卒業生は伊藤君の外に三名いた。

(1)鈴木半三郎君 1914年卒B.S. 哲学科
 氏は高等師範の卒業で日本で中学の教諭をしていたが、渡米して加大に入学、私より一年上級だった。学部は知らなかったが、卒業した時に始めて哲学を専攻していたことを知った。
 図書館でいつも顔を合わすので(学生クラブ員ではなかった)親交を結んだ。
 中々の勉強家で、卒業して帰国後プラグマテイズム(Pragmatism)の本を出版した。加大はプラグマテイズムをWilliam Jamesよりも早く発表しており、Pragmatismの研究は鈴木君には資するところがあったのであろう。
 また彼が図書館でアメリカの社会生活についての本を勉強していると思ったら、「アメリカの社会生活」?(米国国民性の新研究)の本をも出版したこともあった。 
 満州の蕪順中学の先生をしていると聞いたが、どうしているだろうか分からない。

(2)宇都宮政一君 1914年卒 B.S.化学科
 学部が違うので時々校庭で顔を合わす程度だった(クラブ員でなかった)。 
 私が中外商業学校の在職中、訪問を受けて校友を新たにした。尼崎市の旭染料製造会社(現:旭化学工業株式会社)の社長をしているとのことであった。

(3)小川裕三君 1914年卒 B.S. 建築科
 伊藤文四郎君と同じに卒業した。クラブ員で時々会った。成績は優秀だったとのことである。帰国後近江のヴォーリスに就職。

4.私より半年遅れて卒業した1915年組には一名だけだ。
 
 私と一緒に卒業式に臨んだ及川N衛君B.S. 商科でクラブ員だったから常に交際していた。商科学部と私の経済学部は直接関係のある教科が多いので毎日顔を合わした。中々の議論好きで、クラブで彼と議論をしたことを覚えている。卒業後神戸で輸出入貿易商会を経営しているとのことで一度私の家にも顔を出したことがあった。その後は不明。

5.1916年組には(私より一年下の級)三人の卒業生がいた。
 
(1)北沢佐雄君
 LAHS時代からの親友でロス・ハイの出身で先述。

(2)米本T雄君 1916年 B.A. 商学
 クラブ員で親友の一人であった。温厚実直の人で、商業科を卒業した。帰国後住友銀行横浜支店に勤務していたので、二、三度彼には面会して旧友を温めたこともある。
 スタンフォード大学に在学していたO島喜作氏の死を悼み出身地の静岡に記念碑を建立する計画を米本君と鈴木富太郎君が発起して、私にも賛成してくれと言ってきたので、私も寄付金を出したが、立派な碑文が出来た。
 米本君は今は故人となった。

(3)橘田Y通君 1916年B.A.、1921年医科卒 D.M. 
 クラブ員で医学志望であったので、加大のバークレーで四ヶ年の予備教育を受けて、サンフランシスコの加大の医科大学に学んだ人で、英語の歌が上手で、よくクラブの会合の席上で披露した。スクールボーイ時代に世話になった家庭の夫人から声楽の練習を受けたと言っていた。非常な努力家で、加大の理科を出てから五年もかかって卒業した。帰国後東京のセントルカ(聖路加)病院に勤務した。


★上記の記載について。個人情報保護法では「生存する個人の情報だけを保護の対象としているが、たとえ故人の情報であっても、それが生存する個人に影響与えるような場合には保護の対象になる」ようです。そこで、祖父の友人の記載に関しては、ネットですでに公開されている情報がある等、生存する個人に影響を与えないであろうと判断できる方のみフルネームで記載させて頂きました。また、当時80過ぎの祖父の記憶であり記載の詳細に間違えがあるかもしれませんがご容赦下さい。★




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