祖父の回顧録

明治時代の渡米日記

第35回(1909年:第二学年生時代)

2011-11-21 10:31:13 | 日記
34.1909年:第二学年生時代



 1909年(明治四十二年)の第二学年の新学期は一月上旬に始まった。
 私は学校の職員方のことを書いて置くのを忘れていた。
 校長(Principal)はW.H. Housh(ハウシ:男の校長) 
 副校長(Vice Principal)はMrs. Dorsey(ドーシー夫人)、Edward(エドワード)、Kinney(キンニー)
 校長は一人で副校長は三名だった。
 この外に学部には、英文科主任、古典科主任、科学科主任、数学科主任、歴史科主任、近世語科主任、図画科主任、音楽科主任、体育部主任、等々であった。
 教員数は約百十名あまりで、他に十数名の助手教員がいて指導に当たっていた。
 私の二年生にとった学科を書いておくと(これも今ははっきりしないが)大体次のとおりである。

1. English Literature(英文学)
 Cooper先生のClassic Myth(ギリシャ・ローマ神話:Gailey著)、Sullivan先生のHomer’s Iliad and Odyssey(ホメロスのイリアッドとオデッセイ)や Shakespeare's As You Like It(シェークスピアの「お気に召すまま」)
2. Merril先生のMedieval History(中世史:Myers著)
3.Jones先生のLatin(ラテン語)、Caesar’s Gallic War(カエサル「ガリア戦記」)、Latin prose composition(ラテン語散文作文)
4.Oliver先生のGeometry(幾何学:Wentworth著)5.Cleve先生のPhysical Geography(自然地理学) 

他に選択科目のDrawing(製図)、後期は以上の他Gilbert先生のPhysics(物理学)以上で三十八単元

この年になって一月頃、またまた加州で排日問題が再燃して、特にシスコ市を中心として、日本人農業家の集中しているサクラメント(首都)やスタクトン(日本人の最も成功している地方)地方において排日の運動が起こって在留民を圧迫した。そして加州下院が排日案を通過して、日本人の動力(ホースパワー)使用を五馬力(?)に制限した。これは農園で用いる灌漑用のエンジンの馬力を制限して農耕を不利にしたもので(私の記憶による)ある。また日本人のレストラントで白人の女の給仕の使用も禁止した。
 このため、加州地方に旅行しても排日の気分で我々を白眼視しているので困った。ところによると田舎の村の入口に”Japanese Out”などという立て看板も立っているのを見かけた。白人のホテルは皆off limitだった。また一流のレストラントも”Japanese No Business”だった。しかし南部のカリフォルニアは北部に比しては、まだ良い方だった。
 学校の方はスムースに行って、この間私にとって変わったことはなかった。
 また六月初めにsummer vacationが来たので、例のとおりダン夫人の許しを得たので、今度は去年のスメルサの農労働で懲りているので、クックの仕事口を得て、ボーデイングスクール(Boarding School)に働いた。
 Boarding Schoolというのは英国流の小学校で児童は皆学校の寄宿舎生活をして、小学校教育を受ける私塾であって、良家の子供が入学する学校で、授業料は寮費を含めて月三百弗だとのことだった。
 私の行った時は、休暇中で、家に帰らずに音楽などの特別学習をする児童が七,八名と先生二名だけだった。
 私は休暇中だけのクックであるから、まことに好都合で週給六弗くれた。
 毎日の献立表は先生から渡してくれるのだから、それを生徒の口に合うように作ればよいので楽であった。一般中流家庭の食事よりは遥かに悪く、良家の美しい可愛い少女や少年を見て、気の毒に思った。それでも児童たちは飯時が待ち切れずに、調理場を窺がったりして、しおらしかった。
 上等の肉といってもコーンドビーフ(塩漬けの牛肉。缶詰ではない)やボイルドミート(牛肉の煮物。ローストしたものは滅多になし)やコッド・フィッシュ・ボール(Cod:タラのミンチボール)などであった。菓子や果実も週に二,三回しか与えなかった。
 学校食などというものは、私営の学校では、このようなものを食べさせていたのである。時々母親が子供に会いに来て、菓子などを与えていた。
 私は幸い子供達の苦情もなく、二ヶ月をこの学校で過ごして再びダン家に帰った。
 新学期が始まるまでに尚数日あるので、シスコ市時代からの親友である長野県下伊那郡下条村出身のM島寿永氏をパサデナ(Pasadena ロス市より電車で三,四十分の所にある町。実に美しい町で東部の金持ちの避寒地)に訪問した。
 M島氏は東京慈恵院医専を中途退学して、米国に私より早く渡米しており、同郷の誼で加藤氏とは実懇の間柄であり、そのため私もなにかと世話をかけた人である。
 M島氏はパサデナのウィーバー(Mr. Weaver)氏の邸宅に働いており、ウィーバーは東部の金持ちで、ウィーバー式という鉄道の枕木の下につけるバネを発明した人で、非常に日本人ひいきの人であると聞いていた。
 日曜日であったので、鳥のローストや色々の馳走を食べて喜んだ。久し振りに会ったのでM島氏も喜んでくれた。
 序に氏の事を書いておく。M島君はウィーバー家で五,六年働いて学資を貯めて東部の薬学大学を卒業して日本に帰り、東京で鈴木博士がビタミンを発見したころ、既に自分でビタミンの錠剤を作って売り出していた。私が大正八年帰国した時に東京で会ったが、私は数ヵ月後に再渡米して、爾来音信不通となってしまった。その後中外商業に就職していた時に訪問されたので、久闊を附したが、郷里の下条に隠退して三,四年前に他界の人となった。在米中の親友の一人として忘れ難き人である。
 尚パサデナに住んだ、私とM島氏の親友で、シスコ市のクラブのメンバーでもあった岡崎君(名は思い出せない)、この人も困った時には助けられたり、助けた人で、思い出深い人である。私のハイスクール在学中によくクラブで会ったが、苦学して、ハイスクールの夜学等に通って勉学して、遂にパサデナ・テクニカル・カレッジ(Pasadena Technical College)に入学して卒業した。この大学は今California Technical College(California Institute of Technology:カリフォルニア工科大学)と改名して宇宙科学の研究では全米でも有名で太陽観測や衛星の研究でも有名な学校である。その後の岡崎君の動静は不明だが、氏に幸あれと祈っている。
 八月下旬に新学期が始まったので例の如く勉学して、十二月上旬三学年に進級した。
 X’masと新年とはダン家で迎えて1910年を迎えた。