祖父の回顧録

明治時代の渡米日記

第10回(サンフランシスコ上陸)

2011-10-30 22:09:37 | 日記
9.サンフランシスコ上陸


 ホノルルを出港して七日目に船は金門湾(Golden Gate)の入口に到着した。ここで船は水先案内人の乗船を待ってサンフランシスコに入港するのである。
 暫く沖合いに停船していると、一隻の蒸気船(launch)が本船に近づいて来てパイロット(pilot水先案内船長)が乗り込むと、船は汽笛を鳴らして、いよいよ金門湾に入るのである。この金門湾の入口は実に狭くて、巨船が通ると両岸の岩壁がホンに目の前に迫っているほどで、今は両岸を結ぶ金門橋という橋が架かっているが、当時はなかった。
 湾の入口の右手の岩の上に、有名なクリフ・ハウス(Cliff house)という建物が立っていて、小規模な今でいうヘルスセンターであった。隣にはスートロバス(Sutro Bath)という公衆大浴場があって、この近くの海岸が夏は海水浴で賑わう、サンフランシスコ唯一つのレゾートセンターであった。
 左手の岩壁の丘一帯は要塞地帯で民家は見られないが、船が金門湾を通過して、いよいよサンフランシスコ湾に入ると右手の上には綺麗な色とりどりの住宅がマッチ箱を並べたように建っている。実に美しくよい眺めである。
 船が市街の中心地の見えるところに進むとゴート島(Goat Island)があり、少し進むとアルカトラス(Alcatrus)という小島があって、囚人の監獄所で、船はこの近くに停船して、検疫を待つのであった。
 どの船でも、外国航路線のものは、ここで米国官憲の衛生検査をパッスしなければ入港できない規定だったから、船は黄色旗をマストに高く掲げて、官吏の乗船を要請するのだ。これをクオーランティン(quarantine)といっている。
 この黄色旗が上がると、直ぐ官吏はラウンチで乗りつけて乗客の身体検査をするのだが、船医の航海衛生日誌に基づいて一等船客は甲板に整列して、只顔色を見るだけでパッスしていた。
三等船客の私たちは、乗船の時、横浜でトラホームと十二指腸検査の証明書を示せばよいが、渡航中眼病に罹ったような形跡があるものは、エンゼル島(Angel Island)へ送られて、治療を受け、乗船して来た船が出航するまでに全癒しなければ送還せられる規定になっていたのであった。
 三等船客は全部移民官の前に呼び出されて、先ずパッスポートの提示をして、「見せ金」米貨四十ドル以上を見せねばならなかった。私は横浜正金銀行で両替して貰っていたので、金貨で見せ、OKだった。
 クオーランティンが終わると、直ぐ黄色旗が卸されて、船はいよいよ繋留する桟橋に向かって進んで行くのだった。
 高い丘の上に林立する住宅街や、海岸の低地帯に聳え立つ高層建築が沢山、目の前に展開してくる。いよいよサンフランシスコ市に到着したのであった。
 シスコは世界の多くある港のうちでも最も美しいものの一つとして有名で、船上からの眺めは実に美観そのものだった。
 船が桟橋に横付けされて、繋船が終わると、直ちに船客の手荷物がシェッド(Shed 格納庫)の中にドンドン卸されていく。船客もゾロゾロ昇降機で降りて、自分の手荷物の税関検査を受けるのだが、私は貧弱な小さいバック(bag)しかないので、直ぐOKとチョークでマークしてくれたので、詳三郎と一緒に格納庫の関門を出て、初めてシスコ、否アメリカの土を踏んだのだった。
 アメリカに渡ったものの、これからが大変だ。嬉しいやら不安やらで、詳三郎について宿舎へ向かった。船にまだ残っているトランク一個は日本人の運送屋に頼んで、ラーキン(Larkin street)の日本人学生倶楽部へ詳三郎のトランクと一緒に運搬を頼んだ。

第9回(ホノルル入港)

2011-10-30 10:09:46 | 日記
8.ホノルル入港

 
いよいよ明朝ホノルルに入港するとボーイが夕食の時に触れ廻った。一同やれやれホノルルに着くのかと、元気を取り戻した。流石は長い船旅で人の気持ちも解るようになり、心を打ち明けて話合う機会もできた。
 私は入港の朝、誰よりも先に起きて、先ず甲板に立って波静かな海を眺めていた。
 すると東の空がパット明るくなり、燦燦たる太陽が昇りつつあるではないか。ああ「ご来光だ」、茫々たる常春の海の水平線から登る日の出は、その形、大きな盆のようで、このbeautiful rising sunが、船のピッチによって上下に浮動したその美観は、今尚忘れ難いものの一つである。
 やがて船がホノルル港に近づくと、遠くにパームの茂る浜辺が散見できる。樹間にボツボツ建物も見えてくる。 
 船が桟橋に横づけされると、船客は皆デッキに集まってカナカ(土人)が船めがけて泳いでくるのを待つ。カナカは船側のところまで来ると、皆異様な声をあげて、船客に向かって「Give me dime.(十仙くれよ)」とか「Throw money into the sea.(海に銭を投げて下さい)などと両手をあげて、銭を強要する。すると船客は思い思いに硬貨をポンポン海に投げ入れてやると、海中に潜って、銭を拾い上げて船客に見せ、耳の中や、口の中に入れて、また潜る演技を見せるのだ。これはホノルルに入港するカナカ独特の見世物で中々の人気がある。
 私も初めてこういうカナカの見世物を見ることができて楽しかった。ハワイやホノルルを見物する船客は船を下りて、続々市街の方に姿を消して行く。船には一等船客の数は少なくなったが、私達のような三等船客は残念ながら外出もできず、ただ船から市街の光景を眺めるのが落ちだった。
詳三郎は帰朝の折、ホノルルに上陸した経験もあるので、独りで市内見物に出掛けて行った。夕方帰った時、土産に沢山のバナナを買って来たので、初めて美味しいバナナを味わった。船の人達にも分けてやったら皆初めてだと喜んだ。
船には荷物を揚げ降ろしする沢山の白人やカナカの港湾労働者(stevedor)が乗り込んできて、一晩中ウインチ(winch巻揚機)の音が鳴り響いて眠れなかった。
 船は翌日午後出航することになった。当日ホノルルからの乗客も十数名あった。皆綺麗な花のレイを首の所にかけている。桟橋には見送り人がいたが、今のようにテープはなかったから、思ったより淋しかった。
 出航のドラががんがん船内に鳴り響くと、人々は手を振って別れを惜しんで、
「Bon voyage!Bon voyage!」
私は「アロハ、オエ、ホノルル さようなら」
「いつか成功の暁に、帰国の時は、汝にまみえん。それまで安らかに繁栄してくれ。洋上のパラダイス!Cherics.」と心に誓った。
 果たせるかな、後年私は東洋汽船会社の社員として天洋丸で帰社の際、親しくホノルルに上陸して、思う存分島内を観光して、昔年の希望を達した。また更に再渡米もして、一層ハワイの風光に接して、よい思い出となった。


注:日記をそのまま掲載しておりますので、もし不適切な表現がある際もお許しください。


第8回(いよいよゲーリック号乗船)

2011-10-29 08:12:49 | 日記
7.乗船して渡米の途につく


 待ちに待った乗船の日は来た。明治三十七年(1904)四月十六日であった。私たちを乗せて、広漠たる太平洋を横断する貨客船ゲーリック号は横浜の沖合いに黒い巨体を横たえていた。
 今日から見れば四千トン級の遠洋航路線の船などは全く姿を消して、五,六万トンの客船が堂々と四海を威圧しているが、当時は大西洋航路は別として、太平洋航路ではゲーリックは東洋汽船の日本丸(四千五百トン級)と供に優秀船の一つであった。私たちは、本船まで艀(launch)で乗りつけて船から卸したギャグウェー(gangway昇降階段)で乗り込まねばならなかった。まだ横浜でも巨船を横付けできるような桟橋の設備がなかった。
 私は三等船客だから、船の左舷の三等室に入れられた。船底の船倉を利用したような広い室で、中にバンク(bunk 寝柵)と呼ばれる寝柵があって、上に麻布が一枚吊るしてあるばかりだった。掛布団やブランケットなどはないので、船客は着の身着のままのゴロ寝で、全くみじめな船旅だった。
 この室の乗客は全部日本人で、約三十名位いた。
 最初に出た夕食は魚と野菜煮に米飯付きだったが、大きな金盥に入れたものを、支那人のボーイが運んできて、テンデに金の食器に盛って食べるのだった。勿論食堂はなく室内にあった粗末なテーブルがこの用を足していた。
 時々支那人のボーイが寿司を一本十銭で売りに来たが、これは待っていたとばかりに、飛ぶように売れた。
 詳三郎は再渡航者で、船内のことも精通しているのでボーイ長を呼んで特別サービスを依頼した。ハワイまで邦貨十円払えば、朝昼晩の三食を洋食で賄ってくれるというので私も頼んだ。ハワイ―桑港間は五円だった。
これで日本食は食わずにズッと洋食ですました。洋食といっても、一等船客の料理の残物を一皿コッソリ暗で持ってきて、鼓腹を肥やすやりかたで、支那人は中々抜け目のないことをやっていた。外国船だから大目に見ていたのであろう。
 後年私が東洋汽船に就職した初期には、三等船客のボーイも会社の米で寿司を作って売るようなものがいたので、米は自費で買い入れて作らせるようになった。
 船室は船底で薄暗く、換気も悪く、空気の通るのは甲板に上がる階段口と、幾らかの小さな丸窓があるばかりで、こんな不潔な室に多数の人が押し込められているので、一度船酔いでもすると、看病もできず、全く気の毒だ、甲板にある便所にも行けない有様だった。
幸い私は乗船後多少の船酔いはあったが、翌日からは元気を取り戻した。終日ブラブラ、バンクに横になっているより方法もなく、本など読む気はモートー出ないじまいだった。
 毎日午後になると、支那人のボーイが来て、大声に「タップサイド、タップサイド(Top side)」と呼んで、船客を全部甲板に出るようにした。私は天気の良い日は、努めて甲板に出て、海を眺めて楽しんだ。波間に飛ぶ飛魚の群れや、一面鏡のような静かな海、海中に群がるウニの美しさなどは旅の徒然を慰めてくれた。
 私等の出るデッキは一ヶ所に限られていた。他の場所には厳重なoff limitがあった。上級のデッキはおろか、キャビンの船客をも訪問することを禁ぜられていた。
 今日でも船の旅行には、この習慣が大なり小なり残っていて、等級によって待遇が全く違い、不平等な取り扱いを公然とやっている船会社が多い。
 こういう厭々した船旅ではあったが、陽春の太平洋は波静かで、雨もなく、日一日とハワイに近づくようになると、気温も上昇して汗ばむようになった。
 いよいよハワイに近づく一日位前に日付変更線(百八十度の経線)を通過することになる。同じ日がダブツイて一日多くなる反対に、サンフランシスコを出て帰航する場合はハワイを出て翌日になれば一日が飛ばされて早くなるのである。
 この百八十度の経線を通過すれば、やがてハワイの領海に入るので、どこから飛んで来たのか、カモメの群れが船のマスとをめがけて飛び交うようになった。
 横浜を出てから見るものはただ茫々たる海洋のみで、島影もなく、船にも会わず、全く無量を託っていたが、このカモメの訪れを見て喜んだ。ホノルルへの入港も近いのだ。



桑港=サンフランシスコ

銭 - 1円の100分の1(1円=100銭)
厘 - 1円の1000分の1、1銭の10分の1(1円=1000厘、1銭=10厘)



第7回(渡米準備のため上京)

2011-10-28 09:22:32 | 日記
6.渡米準備のため上京


 兄誠逸郎の結婚式は目出度く終了したが、まだ家の中は大混雑であった。夜明けと共に起床して出発の準備をした。
当時東京に出るのには飯田から辰野まで約十数里の道のりで、汽車はなく、歩いて行かねばならず、途中で一泊せねば辰野には着けない不便な時代だった。また名古屋に出て上京するのには、飯田から太平峠の八里の山道を越えて、阪下(今は三留野)まで出て、中央線によらねばならず、これまた大変だった。
 私が独りで上京するのを、母が心配して、誰か汽車の出る駅まででも、一緒に行ってもらったらと、兄に相談してくれた。すると家に長年奉公してくれた、T島栄二という番頭が、名古屋近在の出身で、父親は飯田で按摩業をしていたが、郷里の親類に長年会っていないから、この機会に郷里の訪問をかねて、是非お供をさしてくれと申し出たので、これ幸いと、栄二にお供をしてもらうことにした。
 母や兄弟や家の人に別れを告げて、一歩戸外に出ると、いつ母に会えることができるかと、涙がボロボロ出た。
 この地方の三月といえば、まだ寒気も厳しく、低い山には雪も積もっており、飯田を立って太平宿に着く頃には、寒さは一層身にしみた。峠道には雪が四、五寸も積もっており、道行く人は一人も見あたらず、淋しい山道を越すのであったから、栄二がいてくれて頼りになり、全く心強かった。母がお供のことを云ってくれなかったら、私はどうなっていただろうと思うと、母の慈愛の有難さをしみじみと感ずることを深くした。
 峠の嶺では雪も一尺位にふえており、下り坂では度々足が滑って尻もちをついたが、午後四時頃ようやく阪下に着いてホッとした。
 阪下から汽車で八時頃名古屋駅に着いたので、栄二は私と別れを惜しんで、親戚の家に泊まることになった。私は駅の近くの「シナ忠」という旅館に投宿した。宿賃は一円だったと憶えている。
 折角名古屋に来たので、渡米の記念として、独りで伊勢参りを思い立って、汽車で山田に出て、一泊して翌日、外宮と内宮とを参拝して国家の繁栄と武運長久(日露戦争中)を祈った。
 参拝を終わって、午後名古屋を経て東海道線で、夜遅く新橋に着いた。東京は全く未知の所であるから、人力車に乗って麹町五丁目の英国大使館の裏手にあった、郷里出身の自由党代議士の伊藤大八氏の邸宅へ行った。
 伊藤氏は飯田の近郊松尾村の旧家平沢家の出で、私の父の兄純一郎の妻の弟であったからだ。伊藤氏は中江兆民の弟子でフランス学を学んだ明治時代の民権自由主義者の一人であった。
 伊藤氏の所へ先ず厄介になって、渡米するまでの間、適当な下宿屋を探してもらうよう、頼んでいたので、泊めてもらったのである。
 伊藤氏は私の渡米に賛成してくれ「シッカリやって来い」と励ましてくれた。また夫人は私の下宿屋を見つけており、翌日富士見町の信濃屋という旅館に下宿することになった。
 信濃屋は学生宿としては、比較的大きく、私は表通りに面する二階の二間が割り当てられて、のんびり過ごすことができた。
 詳三郎は翌日この旅館に引越してきたので、二人となって話し相手もでき、楽しかった。その晩旅館の風呂場へ行ったら数人の学生がいるので、話しかけたら支那人の留学生たちだった。後で女中に聞いたら、この宿屋は支那人の学生ばかりで日本人は私たち二人だけだとのことだった。
 宿料は一日三食つきで月十五円(炭代は別勘定)であった。私の米国行きが定まって、新調した純毛の紺サージの背広服が十五円だったから、いかに当時としても高かったことが想像されよう。
 パッスポートの下付があるまで、毎日徒然として過ごした。詳三郎は時々外出したが、私は同伴せず、そのため、東京に一ヶ月半もいたが、市内の観光もろくろくせずして、アメリカに立ってしまった。
 三月の終わりにパッスポートがおりたと、兄から便りがあって、旅行免状を送ってくれた。これで大手を振ってアメリカへ渡れるので喜んだ。詳三郎は再渡米の証明書を持っているので、いつでも旅行免状がもらえるので呑気に構えていたが、私のパッスポートの下りるまで、待ってくれて気の毒だった。しかし彼はまたアメリカへ渡れば、いつ日本に帰れるか分からないと言って、督促めいたことは一度もなかった。
いよいよパッスポートが手に入ったので、渡米に必要なステーマー・トランク(steamer trunk:旅行用の船摘みトランク)や靴や見廻り品等を買い入れた。洋服は純毛のイギリス製の紺サージを注文したが十五円だった。この服は在米中もよく間にあった。
 準備が一応できたので、詳三郎と一緒にアメリカの船会社「Pacific Mail」社に行って、三等船室の切符を買ったが、四月中旬の出航とのことであった。当時横浜とサンフランシスコ航路の客船はPacific Mailと後年私が勤務した東洋汽船会社の二社のみで、船の数も少なく月に一回位の就航であったので、やむなく外国船を選んだのである。横浜―桑港間約十七,八日もかかった。
 船は四千トン級のゲーリック(Galick)という船で、船賃は三等のエーシアテイックス(Assiatics)即ち移民級で多分六十四円だったと記憶している。当時米国へ入国する日本人は、凡てトラフォームと十二指腸に罹っていないという証明書を持参することに規定せられていたから、出航前に横浜の衛生検査所に行って検査をしてもらい、その証明書を取らねばならなかった。
 よって出航の三日前に横浜に出て、移民宿の大勢屋という港近くの家に泊まった。もう同船者が多数集まっており、見るからに上品な人は少なく、渡米者の素質もかくやと驚いた。
 トラフォームと十二指腸の検査は思ったより早くすんで良かった。
 晩、宿屋の風呂場に行ったら、三助がいて、私の肩を流してくれた。「あなたはどこの人ですか。」”と聞くので、「信州飯田のものだ。」と答えると、彼は「わしも飯田のものだ。十数年前まで豆腐屋をしていたが、選挙の時はいつも壮士として活躍していたなれの果てだ。」としみじみ昔が恋しいという様子だった。
 そう、いわれれば、選挙の時に「豆腐屋坊主」といわれて飯田でも名の通った壮士で、白縞の袴をはいて、太い杖をついて、私の家の前を通ったのをよく覚えているが、人間の浮沈は世の常とはいえ、気の毒になった。


 私は考えた。今多数の渡航者がここに来ているが、果たしてこの内の何人かが、自分等の素志を貫いて、立派に成功して、再び富士山を仰ぎ得るやと。


第6回(上京直前 兄の婚儀)

2011-10-27 09:34:22 | 日記
5. 上京直前兄の婚儀

  
 いよいよ三月一日に上京することが定まり、兄の許しも出たので旅行の準備をした。母が出発する前に、上郷村の黒田に住んでいる本家のS盤根「イネ」翁(当時隠居住)に挨拶に行くようにと言われたので、翁の家を訪れて別れの挨拶をした。翁は私のアメリカ行きを聞いて非常に驚いて、また反対した。「この村には、お前の先祖が残した沢山の田畑があって、下作人が耕作している。いずれは私の実家の子供が黒田に来て一家を構えてもらい、この由緒あるS家を再興してもらいたいことを今まで念願していたが、できなかって残念だ。」と私の渡米を惜しんでくれた。 
 私が渡米するという噂が町に流れると、S家の息子がアメリカへ出稼ぎに行くとか、家で学校へやってくれないので、アメリカで苦学するのだなどと評判になった。小さな田舎町だから、私のアメリカ行きもゴシップ(gossip噂話)の一つとなったのだろう。或町医が私の家に来てくれるなら、大学までも挙げて上げましょうと兄に申し込んだとの話を母から聞いて苦笑した。
 「捨てる神もあれば、拾う神もあり」世の中は様様で、アメリカの社会でも同じであろうと思って意を強くした。 

 話しは変わるが、私の兄(誠逸郎)の婚礼が二月二十九日に挙行せられることになっていた。私は二日後に上京するので兄も大変だったろうと、今は済まない気持ちで一杯である。
 兄は中学時代の親友で上伊那郡南向村大草の豪農N一郎の妹千里(ちさと)との縁談がまとまって二月二十九日挙式することになっていた。
 私は挙式の直ぐ後上京するので、旅行の準備をしたが、着の身着のままで(洋服は中学の制服)よいので、簡単にすんだ。そして兄から渡米の準備や東京滞在中の費用として百五十円をくれた。この内には船賃も含んでいたが、実に大金で喜んだ。「見せ金」の米貨四十ドルは、乗船が定まったら直ぐ送ると約束してくれたが、その「見せ金」は後日送ってくれたが、百円(当時の米ドル五十ドル)であった。妹たちが、私の渡米の時の話をすると、兄が出した金は「見せ金」だけの百円だったと、よくいうが、これは考え違いで合計二百五十円だったから、ここに訂正しておく。
 いよいよ兄の婚儀が近づくと、家は挙式の準備で大変混雑した。家で式を挙げるのだから、道具の準備やら馳走の料理などを作るので、黒田の小作人の男衆や女衆が沢山来てくれて働いてくれた。この地方の風習として冠婚葬祭の時などには、「大家」という地主の家に集まって手助けをしてくれるのであった。それで土蔵と土蔵との通路は沢山の人で埋まって賑やかだった。
 この婚礼前の光景は、今尚彷彿として、渡米前のよき思い出となった。
 兄の新婦の千里はこの地方の旧い風習によったのか、結婚式を挙げる数日前から家に来て、寝泊りしていたので、話しこそ交わさなかったが、彼女の容姿や人品などはよく知ることができた。
 旧家で豪農の家の娘だけあって、気品も高く美人だった。母も良い嫁が来たと喜んでいた。家にはまだ私の弟の雅(中学生)と妹の伸と敏江(何れも小学生?)とがいた。
 いよいよ婚礼の日が来た。沢山の嫁入り道具が搬入されて、近所人もワイワイ見物していたが、花嫁さんの姿が見えないので、失望したようだった。
 挙式は家の二階の十畳間を二室ブッ通して式場とし、多数の親類が参列した。披露宴も盛大に行われて、その晩遅く滞りなく終了した。
 翌晩は近親者以外の方々の披露の祝宴が開かれたが、私は翌朝三月一日に上京するので、その晩はマンジリともしないで暁を迎えた。