9.サンフランシスコ上陸
ホノルルを出港して七日目に船は金門湾(Golden Gate)の入口に到着した。ここで船は水先案内人の乗船を待ってサンフランシスコに入港するのである。
暫く沖合いに停船していると、一隻の蒸気船(launch)が本船に近づいて来てパイロット(pilot水先案内船長)が乗り込むと、船は汽笛を鳴らして、いよいよ金門湾に入るのである。この金門湾の入口は実に狭くて、巨船が通ると両岸の岩壁がホンに目の前に迫っているほどで、今は両岸を結ぶ金門橋という橋が架かっているが、当時はなかった。
湾の入口の右手の岩の上に、有名なクリフ・ハウス(Cliff house)という建物が立っていて、小規模な今でいうヘルスセンターであった。隣にはスートロバス(Sutro Bath)という公衆大浴場があって、この近くの海岸が夏は海水浴で賑わう、サンフランシスコ唯一つのレゾートセンターであった。
左手の岩壁の丘一帯は要塞地帯で民家は見られないが、船が金門湾を通過して、いよいよサンフランシスコ湾に入ると右手の上には綺麗な色とりどりの住宅がマッチ箱を並べたように建っている。実に美しくよい眺めである。
船が市街の中心地の見えるところに進むとゴート島(Goat Island)があり、少し進むとアルカトラス(Alcatrus)という小島があって、囚人の監獄所で、船はこの近くに停船して、検疫を待つのであった。
どの船でも、外国航路線のものは、ここで米国官憲の衛生検査をパッスしなければ入港できない規定だったから、船は黄色旗をマストに高く掲げて、官吏の乗船を要請するのだ。これをクオーランティン(quarantine)といっている。
この黄色旗が上がると、直ぐ官吏はラウンチで乗りつけて乗客の身体検査をするのだが、船医の航海衛生日誌に基づいて一等船客は甲板に整列して、只顔色を見るだけでパッスしていた。
三等船客の私たちは、乗船の時、横浜でトラホームと十二指腸検査の証明書を示せばよいが、渡航中眼病に罹ったような形跡があるものは、エンゼル島(Angel Island)へ送られて、治療を受け、乗船して来た船が出航するまでに全癒しなければ送還せられる規定になっていたのであった。
三等船客は全部移民官の前に呼び出されて、先ずパッスポートの提示をして、「見せ金」米貨四十ドル以上を見せねばならなかった。私は横浜正金銀行で両替して貰っていたので、金貨で見せ、OKだった。
クオーランティンが終わると、直ぐ黄色旗が卸されて、船はいよいよ繋留する桟橋に向かって進んで行くのだった。
高い丘の上に林立する住宅街や、海岸の低地帯に聳え立つ高層建築が沢山、目の前に展開してくる。いよいよサンフランシスコ市に到着したのであった。
シスコは世界の多くある港のうちでも最も美しいものの一つとして有名で、船上からの眺めは実に美観そのものだった。
船が桟橋に横付けされて、繋船が終わると、直ちに船客の手荷物がシェッド(Shed 格納庫)の中にドンドン卸されていく。船客もゾロゾロ昇降機で降りて、自分の手荷物の税関検査を受けるのだが、私は貧弱な小さいバック(bag)しかないので、直ぐOKとチョークでマークしてくれたので、詳三郎と一緒に格納庫の関門を出て、初めてシスコ、否アメリカの土を踏んだのだった。
アメリカに渡ったものの、これからが大変だ。嬉しいやら不安やらで、詳三郎について宿舎へ向かった。船にまだ残っているトランク一個は日本人の運送屋に頼んで、ラーキン(Larkin street)の日本人学生倶楽部へ詳三郎のトランクと一緒に運搬を頼んだ。
ホノルルを出港して七日目に船は金門湾(Golden Gate)の入口に到着した。ここで船は水先案内人の乗船を待ってサンフランシスコに入港するのである。
暫く沖合いに停船していると、一隻の蒸気船(launch)が本船に近づいて来てパイロット(pilot水先案内船長)が乗り込むと、船は汽笛を鳴らして、いよいよ金門湾に入るのである。この金門湾の入口は実に狭くて、巨船が通ると両岸の岩壁がホンに目の前に迫っているほどで、今は両岸を結ぶ金門橋という橋が架かっているが、当時はなかった。
湾の入口の右手の岩の上に、有名なクリフ・ハウス(Cliff house)という建物が立っていて、小規模な今でいうヘルスセンターであった。隣にはスートロバス(Sutro Bath)という公衆大浴場があって、この近くの海岸が夏は海水浴で賑わう、サンフランシスコ唯一つのレゾートセンターであった。
左手の岩壁の丘一帯は要塞地帯で民家は見られないが、船が金門湾を通過して、いよいよサンフランシスコ湾に入ると右手の上には綺麗な色とりどりの住宅がマッチ箱を並べたように建っている。実に美しくよい眺めである。
船が市街の中心地の見えるところに進むとゴート島(Goat Island)があり、少し進むとアルカトラス(Alcatrus)という小島があって、囚人の監獄所で、船はこの近くに停船して、検疫を待つのであった。
どの船でも、外国航路線のものは、ここで米国官憲の衛生検査をパッスしなければ入港できない規定だったから、船は黄色旗をマストに高く掲げて、官吏の乗船を要請するのだ。これをクオーランティン(quarantine)といっている。
この黄色旗が上がると、直ぐ官吏はラウンチで乗りつけて乗客の身体検査をするのだが、船医の航海衛生日誌に基づいて一等船客は甲板に整列して、只顔色を見るだけでパッスしていた。
三等船客の私たちは、乗船の時、横浜でトラホームと十二指腸検査の証明書を示せばよいが、渡航中眼病に罹ったような形跡があるものは、エンゼル島(Angel Island)へ送られて、治療を受け、乗船して来た船が出航するまでに全癒しなければ送還せられる規定になっていたのであった。
三等船客は全部移民官の前に呼び出されて、先ずパッスポートの提示をして、「見せ金」米貨四十ドル以上を見せねばならなかった。私は横浜正金銀行で両替して貰っていたので、金貨で見せ、OKだった。
クオーランティンが終わると、直ぐ黄色旗が卸されて、船はいよいよ繋留する桟橋に向かって進んで行くのだった。
高い丘の上に林立する住宅街や、海岸の低地帯に聳え立つ高層建築が沢山、目の前に展開してくる。いよいよサンフランシスコ市に到着したのであった。
シスコは世界の多くある港のうちでも最も美しいものの一つとして有名で、船上からの眺めは実に美観そのものだった。
船が桟橋に横付けされて、繋船が終わると、直ちに船客の手荷物がシェッド(Shed 格納庫)の中にドンドン卸されていく。船客もゾロゾロ昇降機で降りて、自分の手荷物の税関検査を受けるのだが、私は貧弱な小さいバック(bag)しかないので、直ぐOKとチョークでマークしてくれたので、詳三郎と一緒に格納庫の関門を出て、初めてシスコ、否アメリカの土を踏んだのだった。
アメリカに渡ったものの、これからが大変だ。嬉しいやら不安やらで、詳三郎について宿舎へ向かった。船にまだ残っているトランク一個は日本人の運送屋に頼んで、ラーキン(Larkin street)の日本人学生倶楽部へ詳三郎のトランクと一緒に運搬を頼んだ。