祖父の回顧録

明治時代の渡米日記

第33回(Los Angeles High School について)

2011-11-19 11:10:17 | 日記
32.Los Angeles High School について



 私は1908年(明治四十一年)一月の新学期にLos Angeles High Schoolの文科系のビー・コース(B Course学課科)に入学した。学校はロス市の高台ラグナ・ヒル(Laguna Hill)の一帯を占め、校庭も広く、校舎の本館は二階建ての煉瓦造りで、横に鉄筋の新校舎と講堂とが連結され、体操教室校舎や食堂などがあった。本館を隔ててアンネックス(Annex building:付属校舎)があって、この校舎は□の字で、ミッション・スタイル(Mission style:スペイン型)で各教室前の内庭には四季の草花が咲いて、勉強にはよかった。これは六十年前の学校の模様だから、その積もりで読んでもらいたい。
 ロスの市立は工業系統のLos Angeles Polytechnic High Schoolと文科系の私の入ったL.A.H.Sの二つだけで、大都市としては数が少なかった。
 生徒も思ったより少なく、四ヵ年制の学校だったが全生徒数は千二,三百名で、私の入学した学科は百三十名位だった。
 八年制の高小を修了した者のハイスクールへ進学志望者の少ないのには驚いたが、南カリフォルニアの開発が未だ半世紀にも出ない時だったから、少年労働者の需要が多く、直に実社会に出ていったのであった。
 この状態から見て、ハイスクールへの無試験入学許可も楽にできたのであろう。志願者数が校舎の設備以上に増加してくれば、当然入学試験を実施することになりかねないが、私は良い時期に入学できて幸せであった。
 学校の制度には、生徒の志望に適応するようA.B.C.Dの四つの教科課程があって、それぞれのコースは分科系統に分かれて、将来大学の各学部に入学し得る資格の教授を行ってくれ、大学への進学を希望しない生徒には、また彼等の志望にかなうような実習や、実務に重きを置いた教科の修得に力を注いでいた。
 当時としても最も優れた教授のシステムを実施していたのではないかと今でも考えている。これは他山の石として今日でも参考になるであろう。
 Aコース:純文科系で将来大学の純文学部に入学を志望する者の入るコースで、ラテン語は必ず四ヶ年習得すること。英文学は四ヶ年等々。外国語は独、佛、スペイン語の内一科を四ヶ年。
 Bコース(私の入った科):一般文科系統や社会学科の学部へ入学する者。ラテン語は二ヶ年必修、英文学四ヶ年、外国語二ヶ年等。
 Cコース:工業系統の学部入学。ラテン語なし。外国語二ヶ年、数学四ヶ年、物理化学各二ヶ年ずつ等々。
 Dコース:大学へ進学せず、実社会へ直ぐ出る者

 大学へ進学志望する生徒は、例えば州立のカリフォルニア大学の場合は、州内の公立ハイスクールは四ヶ年間に同大学が必ずハイスクールで学習してこなければならない学科を指定して、その単元は四十五単元で、各学科のマークが全部B(80点以上)であれば、校長のレコメンデーションで大学側の査定(Examination Board:査定局)によって無試験入学を許可せられるのである。従って大学への入学志望者は悉くパッスせられていた。
 この方法は学校差をなくす、実に良い制度で、各ハイスクールの卒業者が皆同じ大学の要求する必須科目(Regular Course)の45units を修得してくるから、同程度の学力があるものと推定されるからである。
 仮にA校のハイスクール卒業者が前記の方法で大学に入学して成績が不良なれば、その学校側に対して大学より注意して、その学校の生徒の学力向上に努められるし、また成績の優秀校は一層生徒の学力の向上に努めるので、学校差は自然に解消されるのである。
 私のLAHS にはこのため、必須学科と選択科目(election)が共に沢山あって、自分等の将来進む方針と個性の発揮のために、学校のカウンセラー(指導教師)についてよく学科の選択を誤らずに勉強ができる組織になっていたので、彼等は緩々と学業に励むことができたのである。