6.1917年の卒業には三人いた。
(1)小林絹冶君 1917年卒 法律 B.A. 1921年 J.D.(法学博士)
関西大学専門部の法科を卒業して渡米、加大に入学したが中々の才物で、クラブ員ではなく、日本人の下宿屋から通学していたが苦学した人である。
私がバークレーの小学校教師時代から交際していたが、私が東洋汽船社員として再渡米後も、未だ大学院に在学中で氏の根気の強いのには感心した。加大に九年間も在学して遂にDoctor of Jurisprudenceになった。
帰朝後新聞社に入っていたが、兵庫県三区から衆議院として出馬し、二, 三回当選して政界に活躍した。会社の重役をしているとのことだったが、その後のことは分からない。
(2)K橋豊吉君 1917年卒 建築科 B.S. 、1918年M.S.
加州リバーサイド(Liverside)のハイスクールの卒業者で、学校時代にフットボールの選手だったとのことで、加大に入学してからもフットボールをやって、第二流大学との対校試合出場したこともあって、私も見学したが、日本人では始めてとのことだった。
磊落な人物で体格も立派だったが、若いのに前髪の所が薄く、今でも忘れ難き一人である。バークレーに住んでいた日本人の娘と結婚して一年大学院に在学して、Master of Sciences になって帰国し、米国の会社のオーテイス・エレベーター会社の東京支店に入社したがその後は不明。
(3) N田五郎君 1917年卒 B.S.電気科
クラブ員で知人の一人であったが電気科を卒業して日本SKF興業会社の技師となった。
以上の外に1918年組にK山勝次郎 化学科B.S.が卒業したが、後は私の卒業後の学生だから省略することにした。
この項を終わったところで、忘れていた親友が三人いたので加筆する。
K藤岩吉君、山形県人で私と同じ経済学を学んだ人で、私が入学した時は三年生で、クラブ員ではなく、日本人の下宿屋の地下室を借りて住んでいた。経済科はK藤君と私の二人であったから、よく彼の所を訪問して学習科目のことなどを聞いたりした。
1913年卒業してB.S.となり更に大学院に学んでStuart Millに関する論文でMasterとなって帰朝した。
私は大学の図書館で彼の卒業論文を読んだが、中々立派な論文だった。帰国後、郷里の山形県大山町で醸造業を経営していると聞いている。
同じく1913年に卒業したM田作次郎君で鉱山学を専攻した当時変わった学科を学んだ人である。日曜日には必ず袋を肩にして大学の裏山や附近の山々を踏破して、ハンマーで石を砕いては石質を調査していた。暑中休暇中も私達のように自由行動が出来ず、大学の調査員に加わってシエラネバタ山方面にも行っていたことがあり、こういう学科は卒業するまでに大変だと思った。
非常に温厚篤実の人物で、好感がもてた親友の一人である。よくクラブにも顔を出した。帰国後、三井神岡鉱山の技師となった。
1914年組のM志正直君 電気科 1914年卒 B.S.
クラブ員であった。卒業後Cornell大学院に学んでMaster of Mechanical Engineeringになった。帰朝後、設備技師となった。
(1)小林絹冶君 1917年卒 法律 B.A. 1921年 J.D.(法学博士)
関西大学専門部の法科を卒業して渡米、加大に入学したが中々の才物で、クラブ員ではなく、日本人の下宿屋から通学していたが苦学した人である。
私がバークレーの小学校教師時代から交際していたが、私が東洋汽船社員として再渡米後も、未だ大学院に在学中で氏の根気の強いのには感心した。加大に九年間も在学して遂にDoctor of Jurisprudenceになった。
帰朝後新聞社に入っていたが、兵庫県三区から衆議院として出馬し、二, 三回当選して政界に活躍した。会社の重役をしているとのことだったが、その後のことは分からない。
(2)K橋豊吉君 1917年卒 建築科 B.S. 、1918年M.S.
加州リバーサイド(Liverside)のハイスクールの卒業者で、学校時代にフットボールの選手だったとのことで、加大に入学してからもフットボールをやって、第二流大学との対校試合出場したこともあって、私も見学したが、日本人では始めてとのことだった。
磊落な人物で体格も立派だったが、若いのに前髪の所が薄く、今でも忘れ難き一人である。バークレーに住んでいた日本人の娘と結婚して一年大学院に在学して、Master of Sciences になって帰国し、米国の会社のオーテイス・エレベーター会社の東京支店に入社したがその後は不明。
(3) N田五郎君 1917年卒 B.S.電気科
クラブ員で知人の一人であったが電気科を卒業して日本SKF興業会社の技師となった。
以上の外に1918年組にK山勝次郎 化学科B.S.が卒業したが、後は私の卒業後の学生だから省略することにした。
この項を終わったところで、忘れていた親友が三人いたので加筆する。
K藤岩吉君、山形県人で私と同じ経済学を学んだ人で、私が入学した時は三年生で、クラブ員ではなく、日本人の下宿屋の地下室を借りて住んでいた。経済科はK藤君と私の二人であったから、よく彼の所を訪問して学習科目のことなどを聞いたりした。
1913年卒業してB.S.となり更に大学院に学んでStuart Millに関する論文でMasterとなって帰朝した。
私は大学の図書館で彼の卒業論文を読んだが、中々立派な論文だった。帰国後、郷里の山形県大山町で醸造業を経営していると聞いている。
同じく1913年に卒業したM田作次郎君で鉱山学を専攻した当時変わった学科を学んだ人である。日曜日には必ず袋を肩にして大学の裏山や附近の山々を踏破して、ハンマーで石を砕いては石質を調査していた。暑中休暇中も私達のように自由行動が出来ず、大学の調査員に加わってシエラネバタ山方面にも行っていたことがあり、こういう学科は卒業するまでに大変だと思った。
非常に温厚篤実の人物で、好感がもてた親友の一人である。よくクラブにも顔を出した。帰国後、三井神岡鉱山の技師となった。
1914年組のM志正直君 電気科 1914年卒 B.S.
クラブ員であった。卒業後Cornell大学院に学んでMaster of Mechanical Engineeringになった。帰朝後、設備技師となった。
先祖を辿っていた所、大阪市役所に戸籍を廃棄され
まったく先祖のことが分からず困っていた所、ブログを拝見させていただき本当にありがとうございます。