23.三度公立高小上級に入学
シスコに帰ってからクラブでゆっくり休養した。懐も温かいので気が向けば、シナ町やマーケット街などへ散歩して、南京料理を食べたり、カフェテリアに入って夕食をとったりして、呑気に過ごしていた。一度日本人町の方へぶらついてスキヤキを食べたが一弗で、これはスクールボーイの立ち寄るところではないと思った。
一年半以上もシスコで暮らしたが、まだ映画館に入ったこともないし、芝居など見る余裕の金がなかったからだ。今は多少の余裕があるので、ヴォーデビル(Vaudeville:軽喜劇の寄席)を見物した。黒人のタップダンスやコント劇や、軽音楽や、奇術やアクロバット等を見て驚嘆した。生まれて初めて見る絢爛たる光景に目を見張った。
こういうものを見られるのも、労働の賜だと思った。
一通りの休養もできたので、八月下旬の学校開始に間に合うように、またスクールボーイの働き口を探して住みこんだ。
今度の家は上町の閑静なところにあって、今までとは違って住み心地は非常によかった。家族は夫婦にハイスクールに通学の子供一人だけだったので、今度は落着いて勉強したいと決心した。
夕方家に行って、台所で仕事を始めたら、独逸人系米人で、子供に夫人が独逸語で時々話をしているではないか。私はよくも外国人系統の家庭に来るものだと驚いたが、それは私が前述したように”Melting pot”の中の”one element” (一要素)であるから、不思議なことではなく、日本人も同様である。私にとってはグッド・トリートメント(good treatment:よい待遇)をしてくれればよいのであったから、意に介さなかった。
この家は比較的新しいバンガローで、台所も広く綺麗で、立ち働きが楽だった。夫人の料理もヨーロッパ風で、特に手製のバン(bun:ドイツのパン)は旨かった。
子供のヘンリー(Henry Bookman)はシスコでも有名なリックハイに次ぐミッション・ハイ(Mission High)の学生だったので、学校の話しを聞く機会があって、ハイスクールにいる二,三名の日本人学生のことも知ることができた。
私はハイスクールに入る準備を始めようと、この地区にあるラグナホンダ・グランマー・スクール(Lagna Honda Grammar School)に行って、例のように校長に語学の査定を受けて、八ヵ年の前期の入学を許可された。目指すハイスクールも後一年である。学校は高い丘の上にあって見晴らしもよく、眼下には金門公園の欝蒼たる森が見え、園内の建物も散見されて、まことによい景色で、校舎も新しく、運動場も広く、初めてアメリカの公立高小らしい学校に学ぶことができた。
付近には新しい造成地にポツン、ポツンと住宅が建っていた。私の組の生徒は男女とも三十名位で、これはどこでも同じ学級編成で教師は全学科の担任だった。
教科内容は国民教育完成の学年であるから、前よりはやや高く、一般学科は差ほどでもないが、国語の読み書きは相当に難しかったので骨が折れた。
ロングフェローのエバンジェリン(Longfellow’s Evangeline)の詩のテキストは十分にこなせたが、シェークスピアのジューリアス・シーザーには困った。勿論少年が最後の国語の仕上げに学習するのであるから、詩句(バース:verse)詩文にはこだわらず、その話しの筋書きが理解できればよい程度のものでも、私には難解であった(ハイスクールでもシーザーを習ったが全く違っていた)。まだまだ英語の勉強が足らないと思った。
やさしい宿題のパラフレーシイス(Paraphrases:原文意訳 )なども未熟な英語では、いつも”unintelligible”(解らない)とマークがついている状態だった。話しの筋書きは一通り理解できても、これを適切に表現しうる英語が身についていなかったのである。
ある日級友の少女に、その答案を見せてもらったら実に平易な子供らしい表現で書いていてマークは”excellent”としてあった。こういう解答の骨を知ることができて参考になった。あまり真面目過ぎてせつない英語が反って悪かったのだ。
“Unintelligible”は”failure”(落第点)ではないから心配はなかった。数学は級でも優秀性で、生徒が当てられてできないものは”Saburo, You try”でいつも解答した。生徒は子供で、不器用の者が多く、地図や理科の図形はいつも私がボールド(board:黒板)に書いてやって生徒から”Wonderful boy”とオダテられたこともあった。これも日本人の”dexterity”(器用)の賜である。
サンフランシスコでは、八年課程の国民高小を卒業すれば、無試験でハイスクールに入学できるので、生徒は至極呑気に勉強しており、受験準備の補習教育など全然行わず、従って生徒も受験のための特別学習は必要なく、まことに恵まれた国民教育を受けられる教育制度を実施していたのである。受験地獄などという言葉は彼等には想像できなかった。それに授業料が無料であるから、凡ての者に均等な教育が施され、ハイスクールの進学は容易であった。
私はこのLagna Hondaに入学して初めて、いやな体験をしたので、記すことにする。ある日の放課後、運動場に出て家に帰ろうとすると、四,五人の上級生(同級生もいたが)がツカツカと私の所へ近づいて来て、私に向かって、突然”Halloo, Jap”と軽蔑して、”Come here”といって近づいてくるので、私は”What do you want?”(何の用かね)と聞くと、彼等は”You are a nasty Jap”(汚いジャップじゃないか)などからかって、私の下手な英語の発音やナマリなどを真似して、いよいよ馬鹿にしてきた。私はこんなものを相手にしても、しかたがないし、またこの学校でただ一人の日本人生徒であるから、我慢した。
するとそのうちの一人が”You know Jiujitsu”といって、ボクシングの構えをして、かかって来る様子なので、もう辛抱できず、私は”Yes , I know. Let me try it.”(よし、知っているさ、やってやろう)と彼等の片腕ををトッサに捕まえて、ギュット後に捩じ上げてやったら、吃驚して”Ouch”(お、痛い)と大声をあげたので、手を緩めてやると、”Give me shake hands.”(握手しよう)を求めたのでケリとなった。
側で見ていた生徒が先生に知らせたので、彼等は教員室に呼ばれて叱られた。どこの学校でも上級生になると二,三名の餓鬼大将がいて、クラスの悪戯のリーダーとなっていたが、こんな馬鹿にされたことは初めてであった。外にも学校は沢山あるから、中途で退学して、同時に働いていた家も去ることにした。
その頃友人から「サウサリート(Sausalito)というシスコ市の南方の湾にある町の良い家庭でスクールボーイを求めているので、暫く静養の積もりで行って見る気はないか。そうあせっても仕方ないだろう」と勧められたので、シスコ市がいやになって、サウサリートへ行くことに定めた。
サウサリートは金門湾の入口の左手の丘より、陸続きで約十キロ位奥へ行った所にある小さな町で、シスコ市よりの船着場で民家も少ない閑静な町であった。
シスコに帰ってからクラブでゆっくり休養した。懐も温かいので気が向けば、シナ町やマーケット街などへ散歩して、南京料理を食べたり、カフェテリアに入って夕食をとったりして、呑気に過ごしていた。一度日本人町の方へぶらついてスキヤキを食べたが一弗で、これはスクールボーイの立ち寄るところではないと思った。
一年半以上もシスコで暮らしたが、まだ映画館に入ったこともないし、芝居など見る余裕の金がなかったからだ。今は多少の余裕があるので、ヴォーデビル(Vaudeville:軽喜劇の寄席)を見物した。黒人のタップダンスやコント劇や、軽音楽や、奇術やアクロバット等を見て驚嘆した。生まれて初めて見る絢爛たる光景に目を見張った。
こういうものを見られるのも、労働の賜だと思った。
一通りの休養もできたので、八月下旬の学校開始に間に合うように、またスクールボーイの働き口を探して住みこんだ。
今度の家は上町の閑静なところにあって、今までとは違って住み心地は非常によかった。家族は夫婦にハイスクールに通学の子供一人だけだったので、今度は落着いて勉強したいと決心した。
夕方家に行って、台所で仕事を始めたら、独逸人系米人で、子供に夫人が独逸語で時々話をしているではないか。私はよくも外国人系統の家庭に来るものだと驚いたが、それは私が前述したように”Melting pot”の中の”one element” (一要素)であるから、不思議なことではなく、日本人も同様である。私にとってはグッド・トリートメント(good treatment:よい待遇)をしてくれればよいのであったから、意に介さなかった。
この家は比較的新しいバンガローで、台所も広く綺麗で、立ち働きが楽だった。夫人の料理もヨーロッパ風で、特に手製のバン(bun:ドイツのパン)は旨かった。
子供のヘンリー(Henry Bookman)はシスコでも有名なリックハイに次ぐミッション・ハイ(Mission High)の学生だったので、学校の話しを聞く機会があって、ハイスクールにいる二,三名の日本人学生のことも知ることができた。
私はハイスクールに入る準備を始めようと、この地区にあるラグナホンダ・グランマー・スクール(Lagna Honda Grammar School)に行って、例のように校長に語学の査定を受けて、八ヵ年の前期の入学を許可された。目指すハイスクールも後一年である。学校は高い丘の上にあって見晴らしもよく、眼下には金門公園の欝蒼たる森が見え、園内の建物も散見されて、まことによい景色で、校舎も新しく、運動場も広く、初めてアメリカの公立高小らしい学校に学ぶことができた。
付近には新しい造成地にポツン、ポツンと住宅が建っていた。私の組の生徒は男女とも三十名位で、これはどこでも同じ学級編成で教師は全学科の担任だった。
教科内容は国民教育完成の学年であるから、前よりはやや高く、一般学科は差ほどでもないが、国語の読み書きは相当に難しかったので骨が折れた。
ロングフェローのエバンジェリン(Longfellow’s Evangeline)の詩のテキストは十分にこなせたが、シェークスピアのジューリアス・シーザーには困った。勿論少年が最後の国語の仕上げに学習するのであるから、詩句(バース:verse)詩文にはこだわらず、その話しの筋書きが理解できればよい程度のものでも、私には難解であった(ハイスクールでもシーザーを習ったが全く違っていた)。まだまだ英語の勉強が足らないと思った。
やさしい宿題のパラフレーシイス(Paraphrases:原文意訳 )なども未熟な英語では、いつも”unintelligible”(解らない)とマークがついている状態だった。話しの筋書きは一通り理解できても、これを適切に表現しうる英語が身についていなかったのである。
ある日級友の少女に、その答案を見せてもらったら実に平易な子供らしい表現で書いていてマークは”excellent”としてあった。こういう解答の骨を知ることができて参考になった。あまり真面目過ぎてせつない英語が反って悪かったのだ。
“Unintelligible”は”failure”(落第点)ではないから心配はなかった。数学は級でも優秀性で、生徒が当てられてできないものは”Saburo, You try”でいつも解答した。生徒は子供で、不器用の者が多く、地図や理科の図形はいつも私がボールド(board:黒板)に書いてやって生徒から”Wonderful boy”とオダテられたこともあった。これも日本人の”dexterity”(器用)の賜である。
サンフランシスコでは、八年課程の国民高小を卒業すれば、無試験でハイスクールに入学できるので、生徒は至極呑気に勉強しており、受験準備の補習教育など全然行わず、従って生徒も受験のための特別学習は必要なく、まことに恵まれた国民教育を受けられる教育制度を実施していたのである。受験地獄などという言葉は彼等には想像できなかった。それに授業料が無料であるから、凡ての者に均等な教育が施され、ハイスクールの進学は容易であった。
私はこのLagna Hondaに入学して初めて、いやな体験をしたので、記すことにする。ある日の放課後、運動場に出て家に帰ろうとすると、四,五人の上級生(同級生もいたが)がツカツカと私の所へ近づいて来て、私に向かって、突然”Halloo, Jap”と軽蔑して、”Come here”といって近づいてくるので、私は”What do you want?”(何の用かね)と聞くと、彼等は”You are a nasty Jap”(汚いジャップじゃないか)などからかって、私の下手な英語の発音やナマリなどを真似して、いよいよ馬鹿にしてきた。私はこんなものを相手にしても、しかたがないし、またこの学校でただ一人の日本人生徒であるから、我慢した。
するとそのうちの一人が”You know Jiujitsu”といって、ボクシングの構えをして、かかって来る様子なので、もう辛抱できず、私は”Yes , I know. Let me try it.”(よし、知っているさ、やってやろう)と彼等の片腕ををトッサに捕まえて、ギュット後に捩じ上げてやったら、吃驚して”Ouch”(お、痛い)と大声をあげたので、手を緩めてやると、”Give me shake hands.”(握手しよう)を求めたのでケリとなった。
側で見ていた生徒が先生に知らせたので、彼等は教員室に呼ばれて叱られた。どこの学校でも上級生になると二,三名の餓鬼大将がいて、クラスの悪戯のリーダーとなっていたが、こんな馬鹿にされたことは初めてであった。外にも学校は沢山あるから、中途で退学して、同時に働いていた家も去ることにした。
その頃友人から「サウサリート(Sausalito)というシスコ市の南方の湾にある町の良い家庭でスクールボーイを求めているので、暫く静養の積もりで行って見る気はないか。そうあせっても仕方ないだろう」と勧められたので、シスコ市がいやになって、サウサリートへ行くことに定めた。
サウサリートは金門湾の入口の左手の丘より、陸続きで約十キロ位奥へ行った所にある小さな町で、シスコ市よりの船着場で民家も少ない閑静な町であった。