祖父の回顧録

明治時代の渡米日記

第30回(仕事をやめてからの動静)

2011-11-16 09:39:19 | 日記
29.仕事をやめてからの動静


 私がレストラントで働いていた八月頃より日露講和会議は小村外相全権とウィッテとの間に開催せられて、九月上旬に締結した。日本は遼東半島の旅順口を含む満州全域と樺太半島の南方領土を得て国威を発揚したので、我々同胞も国運の進展を喜ぶと共に一層肩身が広くなって堂々と闊歩することができるようになった。約一年八ヶ月で東洋の天地にも平和が甦ったのだ。
 サンフランシスコにいた頃は、どこの市立高小でもハイスクールでも日本人を自由に入学を許可してくれていたが、十月の中旬(1906年震災の起きた年でロスに来て半年後)になって、サンフランシスコが学務局は日本人児童を隔離する決議をして、市立学校から全部の日本人生徒を追放してしまった。理由は今はっきり覚えてはないが、日本人はエリアンで税金を納めるものは殆どないから、市立学校で教育を施すよりは寧ろ隔離するのがよいとの理由らしかった。この頃から加州では日本人移民の渡米に反対する機運が増大して来たので日本人の最も多い桑港で先ずその火蓋を切ったのである。
 シスコ市は同年四月の大地震に会って、その復興に彼等はテンテコ舞している時でもあり、ポーツマス条約で日本が領土を拡張したことを知って、日本人移民が加州で着々成功して発展して行く状況を見て、恐れを抱くようになった結果ではなかったかと、今私はひそかに考えている。
 この児童隔離の決議案はその後桑港でも問題となり日本政府の抗議もあって、翌年1907年の四月頃解除となった。
 私はこの事件をロス市で、新聞で知ってビックリした。隆々辛苦して学業を志している日本人学生はどうなることになるのであるか。ハイスクールの門戸を閉ざされたら、もう大学へ進学することは不可能になって、シスコ市を去って他市に移住しなければ、彼等の目的を達成することはできないと思えば気の毒になった。
 シスコ市が隔離を実施すれば、その余波は他市にも及んで、いよいよ大変なことになって、このロス・アンゼルスでも日本人学生にハイスクールの門を閉ざすのではないかと懸念したが、ロス市では、この排斥案には同調しなかった。私には大地震は、私の運命を開いてくれる、天の霹靂の鳴動であった。
 前述したように私は九月末レストラントをやめたが、シスコ市と違って、決まった宿泊所がないので、また東洋ホテルに一時泊まることにした。二,三日してからブロードウェイ(Broadway)で日本美術店を開いている安楽(鹿児島県人で、シスコ時代に学生クラブでの知人)を訪問した。彼はクリスマス・シーズンになると、店員がいるので私に来てくれないかと、話しを持ち掛けたので、使ってもらうことにした。その時岡崎(彼もクラブの知人)も今ロスで働いているとの話しを聞いたので、彼の住所番号を知らしてもらって会いに行った。
 岡崎はシスコでハイスクールに通っていたが、地震のために南下して学資稼ぎに家事労働をしているのだとのことで、いずれはパサデサ(Pasadena:ロスより五マイル位のところにある金持ちの住む住宅町)の高等工専学校に入学したい希望だと言っていた。その時私は定着宿がないから、知っているところを世話してくれと頼んだらグランドアヴェニュー(Grand Avenue)に日本人学生クラブがあるから、そこへ行くように勧めてくれたので助かった。
 早速東洋ホテルから、クラブに移って安住の宿が決まった。クラブといっても、粗末な家でシスコのクラブより遥かに劣っていて、設備などは貧弱で、ホンニ学生が寝泊まりし得る程度のものであった。
 鈴木(千葉県人)と大野(群馬県人)という二人が泊まっていたが、学校へは行かず、パートタイマーなどして、ブラブラ遊んで撞球場などへ出入りしていたが、二人ともお坊ちゃん育ちの青年で、人が良いので話しが合い、親友となった。
 私はここを寝城として十月上旬から安楽の店へ勤めることになった。
 美術品店といっても、規模の小さい店で商品も少なく、日本製の絹ハンカチやレース、ピローや、クッションのカバーや玩具や、その他の雑貨を売っていたが、まだクリスマス・シーズンは早いので、外人客もあまり来ないで暇だった。
 安楽は私が来て店の方は任せられるので、彼は昔やった行商を始めて、米人の家庭を戸毎にペドラー(peddler:行商人)して歩いた。店の方よりこの方が儲かるので喜んでいた。
 クリスマスが近づいてから、客もぼつぼつ来るようになり、商売もマーマーで年が明けた。
 1907年(明治四十年)の元旦はロス市のクラブで迎えた。勿論淋しい正月であった。
 学校は一月上旬から新学期が開始されるので、安楽の店を止めて、またスクールボーイの口を求めて市立高小に入学して今度こそは卒業する決心であった。


日露講和会議とは、日本とロシアは戦争を終結させるため、明治38年(1905年)8月10日から9月5日、アメリカ合衆国のニューハンプシャー州にある軍港ポーツマスで交渉を行いました。 ポーツマス会議ともいいます。アメリカ合衆国大統領セオドア・ルーズヴェルトの斡旋の結果、日本とロシアは講和条約を調印して、戦争を終らせました。

加州とは、 アメリカ合衆国のカリフォルニア州の別称。